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009





『一護サンはいいな』


耳の奥から拾い上げた声ひとつ。
一護はちゃぷん,と水音を立てて耳のすぐ下まで湯船に身を沈めた。
縁に頭を凭れさせて湯気の向こう,天井で真っ白い光を放つまるい照明器具をじっと見つめる。


あれはいったいどういう意味だったんだろう。
俺のことを羨ましがってるとか,そういうのとは違う気がした。
褒められてる,てことか。
それもまた違うような気がする。


目を瞑ると瞼の裏の真っ暗な闇に白い光の残像が浮かび上がる。
それを目で追いながら深く深く息を吐いた。


浦原さんは不思議なひとだ。
最初は変なひとだ,と思った。
けど,話すうちに「変」て言葉から否定的な要素がひとつずつ零れ落ちていった。
掴みどころがないくせにいい加減な感じはしなくて,俺が云ってることに対する相槌にも「きちんと聞いてくれてる」て感じがする。
多分,それは本当のことだと思う。
大人なのにな。


目を開いて身体を起す。
立てた膝を抱えて水面にまぁるく浮かび上がるそこに顎を載せた。


一護は髪の色のことから始まって,家庭環境のことなどで所謂「大人」たちからは否定的なことを云われることが多かった。
「お母さんがいなくて可哀想に」とか「悪目立ちするようなことをするな」とか。
母さんが死んだことは哀しいことだけれど,それによって自分が「可哀想な子」になったとは思わない。
喧しいし騒がしいし鬱陶しいことこの上ないけれども親父がいる。遊子も夏梨もいる。
寂しいと思うことはあっても,それと自分が「可哀想」ということは繋がらない。


そういえば,浦原さんは母さんが死んだって云ったときに「偉いなぁ」て云ったっけ。
あれは嫌じゃなかった。どうしてだろう。
自分が偉いとは思わない。でも,なんだか少しだけ嬉しかった。
ぽんぽん,と頭を撫でられたときみたいな感じがした。


前髪から伝う雫が鼻筋を通って鼻先からぽたりと落ちた。
目を瞑ったまま感触だけでそれを視る。
水滴の通った後がくすぐったくて掌で擦った。


それに,と一護は思う。
髪の色は生まれつきのもので,それをわざわざ変えてまで「大衆に埋没」したいとは思わない。
親父と母さんから受け継いだものは大事なものだ。
それを損なってまで「大衆に埋没」したいとは思わない。
自分の考えだけでモノを云う大人が一護は嫌いだった。


膝が湯船の底をゆっくり滑る。顎先が湯に触れた。湯気が睫を濡らす。


浦原さんは大人じゃないのかな。
いや,大人だろ。
店をやってて,ひとりで生活している。
歳も10歳も離れていて,背も靴のサイズも全然違う。


『一護サンはまだこれからでしょ』


またひとつ別の声を耳の奥から拾い上げて,一護はざぶりと掌で掬った湯で顔を漱いだ。


あのひと,好きだな。
ふわり浮かんだその思いはどこにも片付けることができず,ふわふわ,ふわふわ一護の中で膨らんでいった。


また明日,会いに行こう。
息を吐きながらそう決意すると,一護は湯船から上がった。















風呂上り,バスタオルを頭から被ったまま台所で冷蔵庫から取り出した牛乳をグラスに注いでいると入浴の支度を手にした父親と行き会った。


「あ,親父」
「あん?」


夕食の後,妹のひとりを相手に晩酌をしたらしい父親は鼻歌交じりの上機嫌な様子で軽く応えた。


「あのさ…」


一護はコップを手に父親の顔を見た途端,ふ,と言葉に詰まってしまった。
浦原のことを尋ねようと思った。
しかしそれを尋ねると,父親は自分と浦原の関係に興味を持つだろう。
それを説明するのはなんだか嫌だった。


声をかけておきながら不意に口を噤んでしまった息子に,一心は「なんだーどうした青少年!」と野太い声をかけるとずかずかと歩み寄ってきてバスタオルの上から頭をがしがしと撫で回した。


「痛ぇ」
「男だろ!これっぱかしのことで音を上げてんな!」
「わけわっかんねぇ…」


脳天を押さえ込まれるようにぐいぐいと撫でられる感触に,一護は顔を顰めながら頭を過ぎった別の疑問を口に乗せた。


「親父さ,俺くらいのとき身長どれくらいあった?」
「んん?中学のときか?三メートルくらいあったぞ」
「……真面目に答えろよ」


不貞腐れた声を出すと目の前からバスタオルがふぁさりと音を立てて肩に落とされた。
父親はニヤニヤと笑いながら一護を見下ろしている。


「なんだ,好きな子でもできたのか」
「…な,なんでそんな話になるんだよ!」
「色気づきやがってこのエロガキめ」
「………ッ!フザケンナこのクソオヤジ!!」


真っ赤になって噛み付く一護に,一心は楽しげな声を上げて笑うと「お前は間違いなく俺の子だ。そのうち身長も伸びるし髭も生える。ナニだってでっかくなるぞ!」と云って一護の背中をバンバン叩いた。


「もういい。俺寝るわ」


ひりひりと痛む背中に顔を顰めたまま一護は牛乳を一息に飲み干すとシンクにグラスを置いてくるりと踵を返した。
真っ暗な階段を自室に向かって上りながらなんで親父とはああも会話が噛み合わないんだ,とため息を吐く。


浦原さんは,うちに来たときあの親父と何の話をしたんだろう。
腕を怪我したって云っていた。
あの傷跡からすると,かなりの深手だ。いったいなんでそんな怪我をしたんだろう。


ぱたんとドアを閉めて自室に入り,ひんやりしたシーツに包まって目を瞑るまで一護は浦原のことを考え続けた。
考えても答えの出ないことばかり。
でもそれでもよかった。
考えても考えても気になることは尽きなかった。











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もうそれは恋だと思うよ。
(2005.09.29)

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