013
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先に立つ浦原が洗面所の灯りのスイッチをぱちん,と音を立てて消すと不意に辺りが闇に沈んだ。
「でもいいなぁ」
少し先から聞こえる声に「何が?」と聞き返しながら一護は目を凝らす。
浦原の着るセータの背が仄かに見えると,それを追って足を踏み出した。
「一護サンの髪」
「…自分じゃあんまし好きじゃねんだけど」
「アタシは好きですよ?」
くすり,笑みを漏らす気配。続いてくしゃり,髪に指が絡みついて,一護はびくっと身体を震わせた。
浦原はいつの間にかこちらを向いていて,背中のずっと向こうの茶の間から漏れる明かりがそのシルエットを間近に浮かび上がらせていた。
「なっ」
「色も,手触りも」
するすると指を絡め,くしゃりを掻き上げる。
額に,こめかみに,指や掌が触れる度に一護は身体をぎゅっと竦ませた。
心臓に,悪い。
今にも口から飛び出しそうに暴れている心臓が立てる音が浦原に聞こえてしまったらどうしよう,と一護はぐっと歯を食いしばる。
すると次の瞬間,両のこめかみに浦原の掌が触れ,固定するようにそこに力が加わるとふわり,浦原の匂いに包み込まれた。
「うら,はら,さん!?」
「洗い立てだからっスかね。いい匂いがする」
浦原は動転する一護をよそに両手の指でくしゃくしゃと髪を掻き混ぜながら額のすぐ上の辺りに鼻先を埋めた。
一護は硬直を通り過ぎて凝固といえるほどにがちがちに身体を強張らせていた。
呼吸すらも止まり,瞼の裏がちかちかと瞬いた。
そんな一護の様子に今更ながら気づいた浦原が「あ…ゴメンナサイ」と身体を離したが,それが後数秒遅れたら呼吸困難で倒れていたかもしれない。
「じゃあ一護サンは先に上に行っててくださいな。アタシはコーヒー淹れてテープ持ってきますんで」
茶の間の前までやってくると,浦原は何事もなかったかのようにそう云い,すたすたと台所へ向かった。
一護は返事をする気力まで奪われて,ああともううともつかない声を漏らすと,重たい身体を引き摺って階段を昇った。
頬が,火のように熱かった。
心臓はまだ燻るように不穏当に跳ね続けている。掌には汗。脳には酸素が足りていない。
よろよろと階段を昇りきり,先週も通された部屋に入ると一護はコートを脱いで積み上げられたクッションに埋もれるように腰を下ろした。
腕も脚も伸ばして力を抜くと左手が畳んで置かれた毛布に触れた。
それを引き寄せてぎゅっと抱きしめる。
さっきのアレは。
わかって,る。犬,とか,猫,とか,そういうのと同じなんだろう。
毛並みがいいから触れてみたい。洗ったばかりでふかふかだから鼻先を埋めてみたい。
そういうこと,なんだろう。
呂律の回らない思考を巡らせ,一護はくしゃりと顔を歪ませた。
「心臓が,痛ぇ」
抱きしめた毛布に顔を埋めて一護は呟く。
すると毛布から浦原の匂いが立ち上り,更に胸を苦しくする。
なんで,こんな。
そう思わずにはいられない。
苦しかったり,痛かったり。
でも,嫌だとは思わない。
本当に,なんで,こんな。
ばさり,毛布を放り出し,一護は身体を起すと頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
やさしく指で梳かれた感触がほんの少しだけ遠のく心地がした。
ほっとする反面,勿体ない,と思う自分がいるのを自覚して眉間に皺を寄せる。
低く舌打ちすると階段から浦原が昇ってくる足音がした。
「お待たせ…って一護サンどうしたの?」
「え」
「頭,くしゃくしゃ」
「あ…これは…」
浦原が差し出すカップを受け取りながら,一護はもごもごと口を濁した。
さして答えを気にしていなかったのか,浦原は自由になった手を伸ばし,一護の髪を直した。
一護は遠のかせたはずの感触を再び引き寄せることになって再びぎゅっと目を瞑り身体を強張らせる。
「一護サン…もしかしてくすぐったがり?」
「や,違」
「あ,じゃあアタシに触られるの嫌?」
云いながらも浦原は心地よさそうに一護の頭を撫でている。
「嫌,じゃないけど」
「けど?」
「…………」
答えに迷って口を噤んで視線を上げる。
浦原は一護を見下ろしていて,首を傾げると「けど,何?」と先を促した。
「……なんか犬とか猫になった気が」
破れかぶれで一護がそう呟くと,浦原は一瞬きょとんとした顔をした後,あはははは,と声を立てて笑った。
「なんで笑うかな」
「え,だって…」
なかなか笑い止まない浦原に一護は仏頂面になる。
その顔を見た浦原は,ようやく笑いを引っ込めると目尻に浮かんだ涙を拭いながら
「犬とか猫とか,アリエナイ。一護サンはもっとずっとイイモノでしょ」
と笑いの気配の残る声で云った。
カップふたつを両手に持ったまま一護は返す言葉もなく浦原を凝視し,それから視線を落とした。
「も,いいよ…」
困り果てた呟きに,浦原はぽんぽんと一護の頭を撫でると「さてそれじゃあ今日のメイン・イベントといきましょっか」と云いながらデッキに向かった。
一護は脚を胡坐のかたちに組むと,その中に湯気の立つカップを置き,深々とため息を吐いた。
深読みとか,したくないんだけど。
自分で自分に言い訳をするように,唇を引き結んだままひとりごちる。
しかしそれ以上思考は続かずに,恨めしげな顔で浦原の背中を見つめた。
「アレ,今度はへの字口」
振り返った浦原に「浦原さんが変なことばっか云うからだろ」と表情そのままの恨みがましい声で云う。
「変なこと,ねぇ」
アタシは思ったことしか云わないっスよ?
解けた声で云いながら,壁のスイッチを押す。
一瞬部屋に闇が満ち,続いてTVから零れる青い光に染まった。
一護の隣に腰を下ろし安定する体勢を探して身動ぎすると浦原は一護に向かって手を差し出した。
「カップくれます?」
「あ,うん」
「まだ冷めてない?平気?」
云われた一護は自分のカップを両手で包むようにしてそっと口を寄せた。
するとそこからはいつもと違う甘い匂いが立ち上っていた。
「あれ…?」
「うん,ちょっと手を加えてみました。飲んでみて」
云われるままに口をつける。甘い匂いの正体は知れなかったが,コーヒーは微かに舌に甘く飲み込むと喉や胃がふわりと温まり,凝った身体から力が抜けていくような心地がした。
「アイリッシュ・コーヒー」
「アイリッシュ,コーヒー?」
「そ。アイリッシュ・ウィスキィにね,氷砂糖が漬けてあるのがあるんスよ。夕方買い物出たときに見つけたんで買ってみました」
「……美味しい」
「それはよかった」
ふわり,浦原が微笑む気配がした。
続いてコーヒーを啜る小さな音。
一護も身体から力を抜いてコーヒーをもう一口啜った。
「さて,始まりますよ。オープニング至上の映画だから,見逃さないように気をつけて」
浦原の声にこくん,と頷く。
TVでは数人の男たちが朝のカフェで朝食を摂っている光景が映し出されていた。
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ラムに氷砂糖漬けてんのもあるよね。
(2005.11.06)