///009///
雨が降る。
針のように細かい雨が。
雨脚は決して強くなく,けれども降り止む気配は微塵も見えず。
しとしとと。
さやさやと。
まるで雨の中に閉じ込められてしまうかのような心地がする。
あみだに差した傘の下から灰の勝った群青色の空を見上げて一護はそんなことを考えていた。
時刻は日付が変わって半時間が経とうとしている。
終バスはとっくに行ってしまい,帰りはタクシーだな,と雨を眺めるのと別の頭でぼんやりと考えた。
「なにちんたらしてやがる!ビビッてんじゃねぇぞ!?」
前方から飛んでくる物騒な声。
思わず口の端が引きあがった。
同時に左肩の辺りに気配を感じ,笑みを消さぬままその元を辿り,一瞥する。
肩に触れようと――というよりも小突こうとしていた歯の欠けた男がびくり,飛びのくようにして一護から離れた。
――雑魚だな。
笑みが消えてため息がひとつ。
靴先が水溜りを掠め,泥水が跳ねる。
ち,と舌打ち。
一護を逃がすまい,とするように左右を固める男たちの視線を感じる。
ンだよ,と険しくさせた視線を向けると蜘蛛の子を散らすように逸らされた。
十分以上歩くのなら車を使え。
そう云いたくなった。
連れて来られたのは近日中に取り壊しが始まる予定の古い雑居ビルだった。
雨を気遣って屋外は避けたのかもしれない。
多勢に無勢,といっても四対一だ。しかもやる気に満ちているのは一人だけ。
狭さは一護にとって利にしかならない。
「ぶっ壊してやる」
先頭を歩いていた男が一護を睨みつける。
その手には一メートル強の鉄パイプ。
ぶっ殺してやる,といわない辺りで意外と育ちがいいのかもしれない。
聞けば恋人だが幼馴染だか姉だか妹だが,兎に角近しい女が一護の勤務する店で金を借り,首が回らなくなって落とされた――場末のソープに売り飛ばされた。
そんなことらしい。
だからと云って自分を襲ってどうなる,という問題でもないと思うのだけれど,誰かに怒りをぶつけなければやりきれない,とそんなところなのかもしれなかった。
くどくどと悪口雑言を撒き散らされた記憶はあるが,さっぱり聞いていなかったため詳細は忘れてしまった。
というよりもどうでもいい。
一護は手に提げた傘をどこに置こうか。できれば壊さずに置きたい。
駅から大分離れているし,タクシーを拾うにも濡れた服では乗車拒否される可能性がある。
どうせ一時間やそこらでは止まないだろう。
なんといっても梅雨なのだ。
ぼんやり,と云えるほどのんびりとそんなことを考えると,一護の反応の悪さに切れた男が鉄パイプを振りかぶり殴りかかってきた。
左側を半身引き,膝を折って重心を落とし,右手に持った傘の柄を男の足首に引っ掛ける。
そのまま掬い上げるように傘を手前に引くと,バランスを失った男が膝をついた。
喚く声。見守るように周囲を固めていた男たちが一斉に襲い掛かってくる。
掴んで居た傘を放り出し,一護は嗤った。
ひとり,ふたり,さんにん。
元から戦意のないヤツは所詮高が知れている。
勢いばかりがあったところで,それだけだ。
殺す気でかかってこいよ。
言葉に出さずに挑発する。
けれども,殴り,蹴り飛ばし,肘を叩き込み,膝を砕いたら,もう呻く声しか聞こえなくなってしまった。
立っているのはもう,一人きり。
がらん,とくぐもった音が響く。
男が手にした鉄パイプを投げ捨てた音だ。
リーチも強度も十分な武器だったが,一護にはほとんど当たっていない。
武器頼みにし過ぎなんだよ。下手糞。
声には出さず罵って,吐き捨てた唾は鉄錆の味が滲んでいた。
二人分の呼吸音と,罅割れた窓を叩く微かな雨音。
電気はとっくに止められていて室内は窓から差し込む僅かばかりの街灯の明かりのみが頼りだ。
その白々とした明かりを反射しギラリ,輝くものがあった。
男の手に握られたそれは,ナイフというより短刀(ドス)と云った方が近い形状をしていた。
一護は怯むより先に「そんなもん懐に突っ込んでるから動きの切れが悪くなるんだっつの。馬鹿が」と呆れた。
数分後,一護は一人雨に濡れながら歩いていた。
スーツの袖口を裂かれてしまった。時計のベルトにも傷がついた。
疲れた割りに爽快感はあまりない。
折角の金曜日なのに。
口の端に煙草を咥えたまま,紫煙と一緒にため息を吐き出す。
予定のない金曜日,繁華街をふらふらするのには理由があった。
一護の勤務する街金で金を借りた本人,その周囲には筋違いの恨みを溜めに溜め,それをぶつける先を鵜の目鷹の目で探している輩が居る。
一護は目立つ。髪の色のせいもあるし,齢も若い。体つきも屈強というのには程遠い。
つまり,ちょろいと見なされるらしかった。
それを,逆手に取る。
趣味は読書。それから喧嘩。
といっても喩えヤクザと付き合いがあるとは云え一介の会社員が売って回るわけには行かない。
しかし売られた喧嘩を高値で買う分には誰にも文句は云えまい。
自分の絶対的優位を信じて疑わない相手を叩きのめすのは爽快だ。
今日は少し,というよりもかなり不完全燃焼だったけれど。
パトカーのサイレンが聞こえたのだ。
途端,一護の手の甲を斬りつけた男の目から狂気が消えてしまった。
近づいてくるサイレン。
どうせ通り過ぎていく。
そう思ったのは一護だけらしかった。
男はナイフを投げ捨てると,そのまま飛び出していってしまった。倒れている三人をその場に見捨てて。
ぽかん,とした。
案の定パトカーのサイレンは遠退いていく。
一護はため息を吐き,室内をぐるり,見回した。
立っている一護は一人きり。
壁に凭れたり,床に突っ伏したりで意識を飛ばしている三人を見回し,蹴りつけて起こそうかとも考えたが,気持ちが萎えてしまった。
外に出た。
傘はひん曲がってしまって使い物にならなくなってしまった。
だから,そのまま。
雨に濡れるのは好きじゃない。
タクシーにもきっと乗れない。
苛立ちが募る。
「ファックユー」
呟く声と吐き出された紫煙が,雨に掻き消された。
「黒崎サン?」
声をかけられたのは繁華街の外れだった。
振り返ると,傘を手に息を切らしている浦原が居た。
「…どうしたんすか,浦原さん。こんなところで」
あんた営業中だろ今。
尋ねる一護の言葉に,浦原は曖昧な笑顔を向けて,近づいて来た。
「窓開けて煙草吸ってたら,黒崎サンが歩いてるのが見えて」
云われてみれば確かに雑居ビルを出てここまで来る間に浦原の店の裏手を通っていた。
だからってなんで追いかけてくる必要が。
視線を向けた浦原はまだ微かに息が弾んでいる。
あんた,運動不足過ぎだろ。
そう思うとくつり,笑みが込み上げてきた。
「傘,持ってきてくれたんすか」
差しかけられる傘は一護が愛用しているビニル製の安物ではなく,一目で高級と知れるシロモノだった。
「風邪,引いたらよくないと思って。…っていうか黒崎サン,怪我してる。どうしたんスか」
「ちょっと,暴れて」
「暴れてって,手とか血が」
「そのうち止まるんで。気にしないでください」
一護の言葉を聞かず,浦原はスーツのポケットから取り出したはんかちを一護の手に巻きつけた。
「手当て,させてください」
「必要ないっすよ。っていうか浦原さん営業中でしょ。店空けてていいんすか」
「そんなの,どうでもいい」
「どうでもいいって」
一護は少し困った。
頑なな浦原の声。
心配しているのだと,声音で,眼差しで真っ直ぐに伝えられて,腹の底で渦巻いていた昏い鬱屈が見る間に萎えていく。
「浦原さん」
呼びかけると,浦原の目がはんかちを巻かれた手から逸れて一護を観た。
深い深い緑色の瞳。
まるで吸い込まれるような心地がするそれを,じっと見つめ,一護は口を開いた。
「手当て,させたら俺の頼みひとつ聞いて貰えますか」
「…頼み,ですか」
「そう,頼み。聞いてくれるなら――」
「聞きます。なんでも」
「そんな安請け合いして大丈夫なんすか」
「大丈夫」
躊躇いなく言い切った浦原に,一護は口の端を引き上げた。
浦原が止めたタクシーに乗り込み,一護の部屋へと向かった。
浦原はタクシーの中から店に電話を入れ,いくつか指示を出した後通話を切った。
「店,本当に大丈夫なんですか」
「ええ。アタシひとり居ないくらいで回らないようなら従業員の首全員挿げ替えますよ」
云って,小さく笑う。
冗談めかしているが,それが本音なのは明らかだった。
恋次の言葉が蘇る。
――あそこの総支配人が曲者なんだよ。
「不遜な男」と言い放った白哉の言葉も。
「浦原さん,こわいですね」
「そう,ですか」
声に,狼狽が滲んでいる。
一護は笑い出したくなった。
この違いはなんなんだろう。
恋次が「曲者」といい,白哉が「不遜な男」と言い放つ浦原と,この自分の他愛ない一言でうろたえ必死に言い訳を探している浦原。
まるで別人だ。
「あの…仕事なんで。あんまりその…甘い顔見せてると」
「別に,引いてるとかじゃないですよ。ただ,俺にはこんな親切なのにって。一円の得にもならないのに」
「…お金の問題じゃないです」
「優越感」
「……え?」
頬に浦原の視線を感じた。
けれども一護はそれ以上何も云わず,頬杖をついて窓の外を眺めた。
ガラス窓には頬杖をつく手に巻かれたハンカチが写っている。
微かに浦原の愛用する香水の匂いがしみている。
くすり,笑うとその香りがふわりと鼻を掠めた。
――浦原さん,俺と寝てみませんか。
窓の外の景色が,どんどん自宅に近づいていく。
傷の手当と引き換えに一護はそう持ちかけてみよう。
そう思っていた。
久方ぶりのホストクラブの総支配人とサラ金の金庫番。
あと一回で終わる予定です。夏の原稿前には終わらせたい。
2012.06.11