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年上の恋人は,馬鹿みたいにキスが上手い。
ベッドの上に横たえられて,上から覆いかぶさられる。
正直,同性である男とこんなことをしている自分を未だに冷静に受け止めることはしかねるが,それでもこの男と交わすキスだけは,麻薬以上の中毒性でもって自分を虜にしているのは事実だ,と麻痺したような頭で考える。
「…眼鏡,はずしてもいい」
唇を触れ合わせたまま恋人が囁く。
一護が頷くより先に,長くつめたい指が眼鏡の蔓へとかかり,そっと外してサイドボードへと置いた。
カタン,という音。
仕事中と本を読むときしかかけない眼鏡は,そう度を強く作っているわけでもない。
一護の視力は裸眼で車の運転ができるギリギリのところ。
仕事中は意外と童顔なのをカヴァする為と,本を読むときはその世界をより近く隔たりなく感じる為にかけている。
でも,実際にはこうしてうすい硝子越しでなく恋人を見るときが,一護にとって一番の「リアル」を感じさせることに最近になって漸く気づいた。
くっきりとした輪郭で物事を捉えるのよりも,物理的に隔たりのない視界で捉える方がずっと生々しかったりする。
セックスの最中のどうでもいいことを考えるのは,自分の悪い癖だと思う。
しかし,いくら自分で許容して「する側」から「される側」へとシフトしたからといって,ただ与えられる感覚を享受し喘ぐには,自分の頭は固すぎる。
せめて全ての理性が吹っ飛ぶまでは,こうしてどうでもいいことでも考えていなければやってられない。
口の中を動き回る,生温い舌。
微かに煙草の苦味を感じる。そして,自分と同じ歯磨き粉の味。
そういえばそろそろ歯ブラシの交換時期だった。明日の帰りにでも薬局に――。
尖らされた舌の先が口蓋の裏側を擦るように動く。
喉の奥に呼吸が落っこち,小さく喉を鳴らすと睫の格子越しに自分を見つめる淡い色の瞳と視線がかち合った。
普段は雨の閉ざされた深い森のように濃い緑色をしている瞳は,こんなときだけまるで熱を放つかのように淡い翠色を帯びる。
実際に目の色が変わるわけなどない。きっと見つめる自分の側の問題で,つまりは。
「何,考えてるの」
唇の端に甘く歯を立てられ,全てを見通す目でそう囁かれる。
「…歯ブラシ,買い替えねえとって」
素直に応えると,歯ブラシ?という風に目が見開かれ,すぐに困ったように細められた。
髪の中に埋められた指が,頭蓋の輪郭を辿るようにゆっくりと這い回る。
再び深く口付けられて,呼気も吸気もまるごと奪われ,喘ぐように息を継ぐと,頭の中が赤く明滅した。
腹の底に熱の塊が生まれる。
早く外に出せ。
そう云って暴れ出すソイツを酷く冷めた目で見下ろしながら,一護は漸く理性の箍を外した。
年上の恋人との出会いは職場だった。
一番顧客との恋愛感情が生まれにくい場所はどこだ,と尋ねられたら一護は自分の職場を挙げる。
一般的には「サラ金」「闇金」などと云われる非合法な貸金業を営む小さな会社で一護は働いていた。
といってもさまざま理由をつけて借りた金を返さない輩への取立てや,お涙頂戴のストーリィをでっち上げて少しでもこちらの同情を引き出そうとする客の相手をする窓口ではなく,所謂「金庫番」だ。
預金口座や小口現金の管理を全て行い,毎月月初に社長と共に上部組織である「組」の監査役に報告をするのが主な業務。
といっても小さな事務所なので受付が昼休憩に行くときは代わりに客の応対もするし,かかってきた電話の取次ぎなどもする。
そんな風に昼過ぎ,誰も居ない事務所で店番をしながら持参していた本を読んでいたときやってきたのが浦原だった。
一目見た印象は「身形のいい男だな」だった。
金を使うことが板についている。
こんな場所に一番似合わない類の男だ,と。
だから受付のカウンタではなく,来客用の応接スペースへと通した。
慣れた仕草で茶を淹れて持て成し,用件を聞くべく向かいのソファに腰を下ろした。
「コチラのお客サンで―――って方がいるかと思うんスけど,その方への貸付残高を教えていただきたいんです」
「申し訳ありませんが,顧客の個人情報となりますのでそう云ったお問合せには一切応えられません」
浦原の口から飛び出したのは,予想していたいくつかのパタンのどれとも違っていた。
マニュアル通りの言葉を返すと,浦原は小さく頷いて懐から一枚の名刺を取り出した。
「club 紅姫」と繊細なフォントで書かれた下に「総支配人 浦原喜助」の文字。
店の所在地は同じ町内だったが,残念ながらホストクラブには縁のない暮らしをしている為,大よその場所はわかったが店構え等はイマイチ思い出せない。
しかし何となくではあったが訪問の理由がわかった気がした。
「売り掛けをばっくれられた…と,そういうことですか」
そう珍しい話ではなかった。
ホストに入れ込んだ女が,通常の方法では金が借りられなくなり一護たちの職場へ通ってくるようになるにはそう長い時間はかからない。
客個人の性質にも拠るのだろうが「きっとなんとかなる」と根拠のない楽天的な思考をし,取り返しのつかない深みまでハマってしまう女を一護はここで働くようになってもう何人も見ていた。
馬鹿だな,と思うが同情はしない。
内臓を抜いて売られるなんてのは都市伝説で,大概は営業部長たちから上部組織の人間を紹介され,それぞれ系列の風俗店に流れていく。
返済金額は報酬から天引き。もちろん利息もがっつり引かれる。
それでも手元に金が残るだけ稼げる女は凝りもせずホストに貢ぎ続けるのが常だった。
しかしそうしてずぶずぶと嵌ることに土壇場で危機感を覚え逃亡する客も中には要る。
追い込みをかけられることを恐れて一護たちの会社には必要最低限の利息だけを入れ,ホストクラブへの支払いをばっくれるのだ。
この街に店を構えている以上,多かれ少なかれバックには「組」の存在があるのが常識だったが,恐怖に駆られた客たちにはその常識が見えなくなっている。
結果,ホスト自身が店から尻拭いを迫られこうして捩じ込んでくることが度々あった。
「いえ,そうじゃなくて」
云って,浦原はゆったりとした仕草で首を横に振った。
その後,浦原の口から語られたのは,酷く奇妙な話だった。
世の理に照らし合わせればまったくないとは云えなくもないが,欲望と金が渦巻くこの街には酷く不似合いな話。
浦原の言葉を要約するとこんな風だった。
浦原の店では「無理な営業は禁止」というルールがある。
あくまで自分たちはサービス業で,サービスの本質と客に無理を強いるというのは相反するから,というのが表向きの理由。
「だって面倒くさいじゃないですか。こういうの」
本音でいえば,と前置いて,浦原は物憂げに顔にかかる髪を掻き上げた。
シャツの袖口から垣間見えた時計が,社長の持っているのの同じブランドの上位シリーズであることに気づいて生返事をしながら一護は話の先を促した。
ある日,浦原の店にひとりの少女がやってきた。
どちらかと云えば野暮ったく見える制服姿の少女は,鬼気迫る眼差しでひとりの女の名を口にした。
その名と頭の中にある顧客リストと照合すると,中客のひとりと一致した。
少女はその女の娘だという。
母親である客は家庭を顧みないどころかよからぬところから借金を重ね浦原の店のホストのひとりに貢ぎ上げた。
ホストへ貢ぐという行為は,出口の見えない迷路を歩くのと同じだ。
貢いでも貢いでも果ては見えない。
一定の額を貢いだだけでは,並み居るライバルたちにあっという間に差をつけられてしまう。
結果返済は滞り,少女の母親は家に寄り付かなくなった。
家には少女の下に幼い弟が一人居る。
今ある分の借金は自分が学校を辞め風俗で働いてでも返すから,これ以上母を煽り毟り取ろとするのは止めてください。
少女は,齢と不相応なしゃがれた声でそう云うと,深く頭を下げた。
その肩が小さく震えていた。
浦原は気分が悪くなるのを感じた。
面倒ごとは嫌いだと,あれほど云っているのに。
不機嫌さを胸の裡に押し込め,浦原は少女にソファを薦め,秘書に言いつけて温かいココアを淹れさせた。
そして「しばらくお待ちください」といい置いて部屋を出ると,真っ直ぐに店に降り,来客中の担当ホストを呼びつけた。
有無を言わせぬ調子で解雇を言い渡し,契約違反を盾に八桁に近い額に及んでいた当月の売上を全て帳消しにした。
ホストは激昂し浦原に掴みかかろうとしたが控えていた秘書に難なく取り押さえられた。
もし可能ならば帳消しにしたホストの売上と,コチラへの返済額を相殺させて欲しい。
そして残金がいくらになるかを教えて欲しい。
それが浦原の要望だった。
金庫番とは云え,一護は自分に応える権限がないこと。上司が戻り次第用件を伝え,改めて連絡させて貰う旨を告げて一護は席を立つ浦原を見送った。
形だけ見れば美談なのかもしれない。
話しぶりから察するに,足りない分は店か,もしくは浦原個人が負担するつもりなのだろう。
けれどもこのテの話にありがちな胡散臭さや嫌な感じは受けなかった。
それは多分,「面倒くさいの,嫌いなんですよ」とため息混じりに云ったあの言葉が一分の嘘もない本音だからだろう,と一護は思った。
静かになった事務所の中,世の中には変なヤツがいる,とあくびを噛み殺しながらきれいに飲み干された茶碗を片付けた。
浦原が口にした客の名は,一護も知っていた。
月々辛うじて利息だけは返済していたものの,ここ三ヶ月それすら滞り「リスト」の下に名を連ねられた女だった。
確か一週間ほど前に身柄を確保され,齢が齢の為隣の県にある「本番可」の店へ送り込まれたはずだったが,どこでどう話がこじれているのやら。
母親が娘と息子の下に帰る日はあるのだろうか。
あったとして,それが娘と息子にとっての幸せに繋がるのだろうか。
冷たい水で湯呑みを洗いながらそんなことを考え,濡れた手をハンカチで拭いながら「ま,俺には関係ねぇけど」とここ数年ですっかり身についてしまった口癖を呟く。
そのときはまだ,自分が浦原とこんな風になるなんて考えもしなかった。
今から二年ほど前の出来事だった。
ホストクラブの総支配人とサラ金の金庫番。
欲望渦巻く街に暮らす光と影。
そんなものが書けたらいいな,とかとか。
多分,続きます。
2011.03.22