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あの日のことを,決して忘れない。

雨の降る夜だった。
週末を目前に賑わう店を抜け,煙草を一本だけ吸おうと支配人室に向かった。
三日ほどろくに眠れていなかった。
同業者との打合せや,自店の新しい企画会議など,瑣末な用事に忙殺されて恒例のランチにも行けなかった。
そのせいか,一日調子が悪い。
気力だけで持ちこたえるにも限界がある。もう若くはないんだな。
そんな弱音まで頭を過ぎる始末。

明かりを点さないままの支配人室。
ソファに腰を下ろしたらそのまま寝入ってしまいそうで,窓辺に立った。
店の入口とは逆の裏側に面しているせいで通りの喧騒もここまでは届かない。
ぽつりと点る街路灯の明かりを横目に,肺の深くまで紫煙を吸い込んだ。
明け方まであと,六時間。
明日は流石に何の予定も入れなかった。
店を終えたら,真っ直ぐ帰ろう。兎にも角にもぐっすり眠ろう。
正直,立っているのがつらい。
ごくたまにだけれど,こんな時がある。
心が折れそうになる。
困難に立ち向かっているわけではなく,ただ,ルーティン・ワークをこなしているだけだというのに。
全てを放り出してしまいたくなる。
できるはずもないのに。

――あのひとに会いたい。
まるでドロドロのコールタールの海のような胸の裡に点る小さな光はオレンジ色をしている。
せめて今日,昼のほんの一時間,身体を空けることができたなら。
あの店で共に昼食を摂り,その後ここで過ごす一時を得られたなら。
こんな風にはならなかったのに。

「…黒崎サン」

名を口にすると胸がきゅう,と引き絞られるように痛んだ。
煙草を口の端に咥えたまま,拳を左胸に押し付ける。
痛い。いたい。あいたい。会いたい。

俯く視線の先に幻を見た。
黒く塗りつぶされたようなアスファルトの路地に,鮮やかなオレンジ色の花。
花,じゃない。
あれは,髪だ。
あのひとの。黒崎の。

視線の先,黒崎は降り注ぐ雨など気にならないかのように歩いていた。
いったい,どこへ?
そう思う間もなく,浦原は傘を手に支配人室を飛び出していた。

エレベータの釦に拳をたたきつけると,一階にランプが点った。
冗談,待ってられるか。
舌打ちをひとつ。そのまま非常階段へ向かった。

カンカンカンカン,と自分の靴が立てる甲高い音が頭に響く。
顔を顰めて,でも歩調は緩めずに一気に駆け下りた。
非常口から外へ出る。
休憩時間の従業員と顔を合わせたら面倒だ,とそんな思いが脳裏を過ぎったが,誰とも会わなかった。

通りへ飛び出すと,もうそこに黒崎の姿はなかった。
やっぱり,錯覚か。
否。
自問自答をするのももどかしく走り出した。

走っても,走っても,追いつけない。
というよりも,走るというほどの速度が出ない。
睡眠不足の末期。気持ちは急くのに身体がついてこない。
あっという間に息が切れ,その場に倒れこみそうになった。
それでも。
曲がった角の先にその姿を見つけることができたから。

最後の力を振り絞って,浦原は黒崎の名を呼んだ。
振り返った顔に浮かんだのは驚愕。
嗚呼,夢じゃなかった。

「…どうしたんすか,浦原さん。こんなところで」

声が,鼓膜を震わせる。
それだけでなぜか,泣きそうになった。
崩れ落ちそうな身体を支え,立ち止まってくれている黒崎に近づいた。

「窓開けて煙草吸ってたら,黒崎サンが歩いているのが見えて」

息が切れているせいで,声は無様に掠れていた。
くすり,黒崎が笑う。
頬が熱くなるのを感じた。
黙って傘を差しかける。

「傘,持ってきてくれたんすか」
「風邪,引いたらよくないと思って。……っていうか黒崎サン怪我してる。どうしたんスか」

俯いた視線の先,黒崎の白い手が汚れていた。
ぽたり,ぽたりと滴る雫。
それは紛れもなく血だった。

「ちょっと,暴れて」

冗談めかした口調。
痛みはないのか?否,これだけの出血だ。そんなはずはない。

「暴れてって,血が」
「そのうち止まるんで。気にしないでください」

そんなことを云われてはいそうですかなんて引き下がれるはずがない。
浦原は差しかけた傘を肩と首で支えると上着のポケットから取り出したハンカチをそっと黒崎の手に巻きつけた。

「手当て,させてください」
「必要ないっすよ。っていうか浦原さん営業中でしょ。店空けてていいんすか」

黒崎の声は変わらない。
いつもの声。いつもの調子。そして距離感。
それがたまらなくもどかしかった。

「そんなの,どうでもいい」

吐き捨てるような口調で云うと,「どうでもいいって」黒崎の声がほんの少し曇った。
ハンカチを巻きつけた手を,ぎゅ,と握り込む。
じわり,滲みてくる感触がある。雨じゃない。血だ。
どうしてこんな。
顔を上げて黒崎を見た。
口の端にも頬にも,擦り傷がある。
誰かに襲われた?
一体誰に。
一体,誰が黒崎をこんな目に。

「浦原さん」

名を,呼ばれた。
浦原が応える前に,黒崎は言葉を継いだ。

「手当て,させたら俺の頼みひとつ聞いて貰えますか」
「…頼み,ですか」
「そう,頼み。聞いてくれるなら――」
「聞きます。なんでも」

即答だった。
たとえどんな無理難題でも,迷いはなかった。

「そんな安請け合いして大丈夫なんすか」

心配そうな,それでいてどこかおもしろがる口調。
浦原は頷いた。頷くだけでは足りず,「大丈夫」と付け足した。
黒崎が笑う。
それは,初めて見る笑みだった。











「浦原さん,俺と寝てみませんか」











そう,云われた。
あの,衝撃。
声は耳に届いているのに,意味を理解するのにしばし間が要った。

黒崎は,浦原を見つめていた。
自暴自棄,というのとも違う風だった。
そこには明らかな意思がある。でも,それがどういうものだかわからなくて。
その誘いに乗っていいのか,踏みとどまるべきなのか。
なんでこんな寝不足の時に。せめてもう少しまともに頭の回る時ならば。
ぐるぐるとどうでもいいことばかりが頭を過ぎる。

自分を見つめる黒崎の瞳。
初めてだ。
こんな風に真っ直ぐ,こんなに近くで見た。
きれいな色。丁寧に淹れた紅茶のような。澄んだ,とてもつよい色。

「……抱いても,いいの」

馬鹿みたいに掠れた声が出た。
咳払いする余裕すらなくて,そのまま応えを待った。
黒崎は浦原を見つめている。
応えはないのに,そこに,その瞳に,迷いは見えなかった。

伸ばした手で頬に触れる。
消毒薬を塗った擦り傷を避け,指の背で撫で,耳朶を掠めて,そのまま首へ,腕を。
引き寄せる速度で,距離が縮まっていく。

信じられなかった。
まるで夢かと。

抱きしめて,口付ける。
夢ではなかった。確かにそこに,浦原の腕の中に,黒崎は居た。

「好きです。黒崎サンのことが」

唇を触れ合わせたまま囁くと,それに返ってきたのは噛み付くような口付けだった。











かさり。
頁をめくる音。
視線の先に広がる光景は,先ほどから微塵も変化がない。
面白いのか。きっと,そうなのだろう。
表情は変わらないけれど,眼鏡のレンズの向こうの瞳は驚くほどに直向だ。

邪魔をしてはだめだ。
そう思うのに。わかっているのに。
胸を嫉妬が塞ぐ。

ねえ,あとどれくらい?
そう尋ねたくて仕方がないのを,堪えている。

あの瞳が。
こちらを向くのを。
自分を見つめるのを。
あの唇が。
自分の名を呼ぶのを。
ここに来い,と云ってくれるのを。

まるでおあずけを喰らった犬のような気持ちで待っている。

「浦原」
「はい」
「いいぞ」

そう云って,彼の手が本を閉じる。
浦原は,彼の手が眼鏡をはずす間を待つのももどかしくソファへと乗りあがった。

fin











久方ぶりのホストクラブの総支配人とサラ金の金庫番。
これにてthe endでございます。
一年越しになりましたがお付き合いありがとうございました!

2012.06.13

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