///003///
毎週金曜日は午後から銀行を回る。
資金を分散させるため複数の銀行に口座を設け,そこに入金された回収額と事務所の諸経費の引き落とし額を通帳記帳し,持ち帰って各日の集計票と照合するのだ。
普段は手弁当持参で出勤するが,週の終わりともなると冷蔵庫の中は空に近い。
そんな理由もあって一時間ほどかけて銀行を回り,昼のピークタイムの混雑を避けて大概いつも同じ店で昼食を摂る。
職場がある街と大通りを隔て,交差点を見下ろす二階にあるイタリアンレストラン。
ランチタイムはメインであるパスタかピザを一品選び,前菜・スープ・デザートがビュッフェ形式になっている。
食後のコーヒーだけはカウンタの中の担当自らが淹れてくれ,主にその味が気に入って通っていた。
窓から燦々と日が差し込む窓際,太い柱をぐるりと囲むように一人客用のカウンタ席が設けられている。
前菜とスープを食べ終え,一護はそこで本を読んでいた。
仕事が休みになる土曜日には決まって図書館に行く。
小説や随筆がずらりと並んだ国内作家の棚を冷やかし,目に付いたものを手当たり次第十冊借りてくる。
土曜の午後と日曜の日中,必要最小限に抑えた暮らしの中唯一の贅沢をして買い込んだ気に入りのソファでそれを読むのが一護にとって最高の愉しみだった。
しかしたった二日の休暇で十冊は読みきれるものではない。
幸い業務さえこなせば他のことには煩くない職場なので,ひとり店番をしているときや銀行での待ち時間,あとはこうして外食をする際の待ち時間にそれを開いて読むのが常だった。
鼻をくすぐるガーリックの香ばしい匂い。
キッチンから伝わってくる喧騒。
そこここのテーブルから聞こえる鳥の囀りのような笑い声。
そんなものたちをBGMに,一護はゆっくりとページを捲っていた。
「こんにちは」
最初,それが自分に向けられた声だとはわからなかった。
ちょうど手にした本の中で,緊迫した場面が続いていたのだ。
表情には出していなかったが,かなり没頭してしまっていた。
数秒の間を置いて顔を開ける。
「ここ,座っても?」
そう云って一護の隣の空席,スツールタイプの椅子の背に手を添えたのは,数日前に来店したあの身形のいい男だった。
今日の装いは砂色のスーツに淡い青色のシャツ。ネクタイはせずに釦をふたつ空けている。
余計なアクセサリはなく,唯一袖口から先日来店したときとは違う時計が覗いていた。
相変わらず嫌味なく金のかかった格好をしている。
「お昼ごはんですか」
「ええ」
本の続きに未練はあったが,それを堪えて糸栞を挟んで閉じカウンタの上に置きながら応えると,浦原は小さく頷いて優雅な仕草で隣のスツールに腰を下ろした。
「この店にはよく?」
「コーヒーの味が,好きなもんで」
「なるほど」
顔にかかるくせのあるやわらかそうな髪の下から男の目が一護を見る。
そして,眠たげにも見える二重の目元がやわらかく微笑んだ。
club紅姫,総支配人浦原喜助。
来店時に渡された名刺に書かれていた名前を漸く思い出せた。
接客を主とする業務としていないためそう知られてはいなかったが,一護は人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。
だから管理せねばならない債権者には全て記号と番号が振ってある。
毎月十日,二十日,末日と決められている各返済日の朝には定例会議が行われ,リストに連ねられている者,そして新たにリストに加えられる者の番号を一護が読み上げる。
リストに加えられるということはすなわち,営業部長たちの手によって追い込みをかけられるということを示す。
債権者を記号と番号で管理することは相手をヒトとして見ないという観点から営業部長たちにも好評だったが,単に一護にとっては管理が面倒くさいだけだった。
佐藤だの斉藤だの加藤だの,似通った音を持つ名前は多い。
挙句に顔ときたら目と鼻と口とみんな同じパーツで出来ている。
性別だって二種類しかないし,よっぽどでなければ記憶の中に留めておくことなどできるはずもない。――というより本音で云えば無駄としか思えなかった。
それなのに,隣の席に座る男を覚えていたのは。
カウンタの上に置かれた本の表紙から目を逸らし,一護は横目で浦原を窺った。
浦原は水を運んできた店員に感じのよい口調で小海老と小柱のクリームソースのリングイネをオーダした。
店員が去っていくと,うすい青色を帯びたグラスを手に取り,唇を湿らせるように一口水を口に含み,浦原は口を開いた。
「今日はいい天気ですね」
「…そうですね」
まるでテンプレートのような世間話。
普段からそう云ったものを必要とする生活をしていない為,あっという間に会話は続かなくなる。
対して親しくもない相手と無言で隣り合って座っているのは決して居心地のよいものではない。
何か話題は,と頭を巡らせて,漸くたった一つ共通の話題があることを思い出した。
「先日の件は」
一護が口を開くと,カウンタの上で手を組んでいた浦原の目がゆっくりと一護を見つめた。
うすいレンズ越しにその視線を受け止める。
視線がかち合うと,浦原は目を細めるようにして微笑んだ。
「おかげさまで,無事落ち着くところに落ち着きました」
そう云って,大きくもなくかといって小さくもなく,耳に心地良く響く大きさの声で浦原はその後と顛末を説明してくれた。
結局借金の件については本人が補填することになり,浦原が担当ホストから違約金として取り上げた売上は姉弟の手に渡された。
そして姉弟は離婚した父親の元に引き取られることになり,すべては丸く収まったのだ,と。
「それはよかったですね」
頷いて一護がそう相槌を打ったとき,オーダしていたスパゲティが運ばれてきた。
浅利をどっさりと使い,ガーリックを聞かせたボンゴレ・ロッソのリングイネ。
湯気と共に鼻先をくすぐる食欲をそそる匂いに小さく息を吸い込むと,隣で浦原がくすりと笑った。
「…何ですか」
曇った眼鏡を少し下ろし,その上から視線を向けると,浦原はなんでもない,と云う風に首を横に振った。
引っかかる感じはあったが,さして興味の持てない会話を続けるよりはマシか,と思い直し一護はスパゲティの盛り付けられた皿にフォークを使った。
ほどなくして浦原の前にもスパゲティが運ばれてきて,二人して無言でフォークを使う。
ぷっくりとした浅利の身をフォークで突き刺し,貝殻を皿の端に寄せる。
指先についたトマトソースをぺろりと舐めると,なんでかまた浦原と目が合った。
「何か」
「いえ,美味しそうに食べるなって」
「腹がへってたもんで」
云いながらフォークに巻きつけたパスタを口へと運ぶ。
浦原は小さく頷くと小海老にフォークを突き刺した。
食後のコーヒーが来るのを待つ間,一護はため息を吐いてから呟くように口を開いた。
「すみません」
「え?」
「俺,世間話とかそういうの苦手で」
声をかけてきたのは相手の方だし,なんで自分が謝らなきゃならない,という思いも脳裏を過ぎったが,それでも無言を貫くにも限界があった。
驚いた風に目を見開いた浦原が慌てた口調で「いえ,」と遮り,それから申し訳なさそうに目を伏せた。
「こちらこそ,すみません。実は,下の交差点で信号待ちをしてるときにお見かけして,ついここに」
「あ…そうだったんですか」
予期していなかった浦原の言葉に,何と返したものか一護は言葉に詰まった。
来社した後の顛末を聞かせたかったとか?
上司からは特別話はなかったが,入金がなかったことで先日の話が白紙になったのは一護も承知していた。
わざわざ自分を見かけて追いかけてくるほど,気にして貰っていたというのならご苦労なこった。
そんなことを考えていた一護の視線の先で,頷いた浦原が伏せていた目を上げる。
そしてまた,真っ直ぐに一護を目を見つめた。
睨む,というのとは違う。
けれどもただ見るのとは違うつよい視線に,ほんの一瞬一護はたじろいだ。
無意識に目を逸らしそうになるのをぐっと堪え,意識して見つめ返しながら口を開く。
「でも,どうして」
「理由を,云わなきゃ駄目ですか」
尋ねたのは自分のはずだ。
それなのに,一護は言葉に詰まって口を引き結んだ。
やり難い。
対峙する相手の意図が読めない。
ただの世間話だ。
仕事絡みの交渉とはわけが違うし,相手より優位に立たなきゃならない理由もない。
それなのに,一護は口の中が苦くなるような居心地の悪さを覚えていた。
いつも楽しみにしているコーヒーだったけれど,今日はもう飲まずに席を立ってしまおうか。
そんなことを考えるほどに。
しかし,自分を見つめる浦原の目が,それをさせてくれなかった。
何なんだろう。
向けられる視線に篭められた感情を窺い知ろうとしても,まるで深い水の底に沈んだ鏡に映る像のようにぼやけて掴めない。
無意識にまるで睨みつけるような険しい顔になっていた。
コーヒーを運んできた店員に声をかけられ,そのままの顔で視線を向けたとき肩をびくりとさせて怯まれて漸くそのことに気がついた。
目の前に置かれたコーヒーに手を伸ばす。
バツの悪さを取り繕うように一口啜ると,隣で浦原が「ほんとうだ」と小さな声で云った。
「本当に,美味しいですねこのコーヒー」
「口に合いましたか」
「えぇ。この街には店は多いけど本当に美味しいコーヒーを飲ませるところって滅多にないですからね」
「確かに」
とりとめのない言葉を交わして,一護はほっとしている自分に気がついた。
多分,相性の問題なんだろう。
居心地の悪さは,そう結論付けることにした。
元から自分は人好きのするタイプではないし,誰彼構わず親しくなれる性質でもない。
何が目的で自分なんぞに声をかけてきたのかその理由はわからないが,次はもうないだろう。
けれども,一護の予測はあっけなく外れた。
次の週も,そしてまたその次の週も,同じ店,同じ席に座って一護が本を読んでいるとまるでタイミングを計ったように浦原が姿を見せ,含羞んだような笑みを浮かべて「隣,いいですか」と声をかけてきた。
理由を問うことはしなかった。
きっと,コーヒーが気に入ったんだろう。
金曜の昼下がりの小一時間,他愛ない世間話をしながら食事を摂る。
顔見知り以上友人未満。つまりは知人。
数少ない交友関係に,一人分名前が増えただけ。
そう結論付けて深く考えることはしなかった。
ホストクラブの総支配人とサラ金の金庫番。
続出会い編。
2011.03.23