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年下の恋人はとても物静かだ。
日差し麗らかな日曜日の昼下がり,浦原は恋人の膝を枕にうとうととまどろんでいた。
視界に映るのは本の表紙と裏表紙。その向こうには鮮やかなオレンジ色の髪。
部屋の中にはかさり,かさりとページを捲る音と壁にかけられた時計が刻む秒針の音しか響かない。
毎週恒例,無礼講と称したどんちゃん騒ぎの土曜日夜の部の営業を終え,浦原は真っ直ぐにこの部屋にやってきた。
時刻は朝の七時過ぎ。
預かっている鍵でドアを開けて中に入ると,部屋の中はもぬけの殻だった。
がっかりが半分と,ほっとするのが半分。
いくら仕事とは云え,余所の女の香水や体臭を纏いつかせたままあの人に会うのは気が引ける。
喩え,あの人が気にしないとわかっていても,だ。
勝手知ったるなんとやらでシャワーを借り,置きっぱなしにしているジーンズに脚を通し,濡れた髪をバスタオルで拭いながらベッドに腰を下ろし毛布の下に手を滑り込ませた。
掌に感じる微かな温もりが,おおよそ半時間くらい前まで恋人がここに居たことを告げている。
ここには居ない恋人の身体にそうするように毛布を抱きしめ,鼻腔いっぱいに恋人の匂いを吸い込む。
頭の芯がふわりと綻び,身体からも力が抜けていくのを感じる。
このまま横になって眠ってしまえばきっと最高に幸せな夢を見られるだろう。
でも。
――頭濡れたまんまベッド入るなっていつも云ってるだろ。
不機嫌な声が耳の奥で蘇る。
十二の齢の差もどこへやら,あの人の前じゃ自分はいつも形無しだ。
誘惑に耐えてベッドから立ち上がり,ソファへと向かう。
ソファの上は恋人の指定席なので,自分はその足許に。
ソファの上に転がるふたつのクッションのうち,黄色いひよこのかたちを下のを引き寄せて抱え込んだ。
頬に当たる日差しが暖かい。
今ごろあの人はどの辺を走っているんだろう。
トレーニングウェアに身を包み,黙々と走る恋人の姿を瞼の裏に描きながら,浦原は静かに眠りに落ちた。
「――起きろよ浦原。こんなところで寝てんな。風邪引くぞ」
肩を揺すられ,薄布が剥がれるようにまどろみが遠退いていく。
同時に耳が拾った愛しい声に,浦原はそっと目を開いた。
視界には裸の腕。
シャワーを浴びたのか,自分と同じボディ・ソープのいい匂いがしている。
「…一護サン」
寝起きのせいで掠れてしまった声で名を呼び,腕を伸ばす。
首の後ろに回して抱き寄せようとすると,頭の天辺をぺしりとたたかれた。
「寝ぼけてんじゃねえ」
叱るような声音にくすりと笑みを零すと,「ンったく」と呆れた声と同時にため息が振ってくる。
そのくせひどくやさしい手つきで頭を撫でられ「コーヒー飲むか?」と尋ねられ,浦原はうっとりとしながら頷いた。
六畳の寝室と,十畳ほどのリヴィングとキッチン。
駅からかなりの距離があるため,間取りと調度の割りに家賃は安めなんだとか。
南を向いた窓から日差しがふんだんに降り注ぐのとバスルームが広めなのが気に入っている,と云っていた。
クッションを抱えたままキッチンに立つ恋人の後姿を眺める。
踝が隠れるくらい裾が長めの細身のジーンズに,コットンの長袖のTシャツ。
毎朝数キロのジョギングを欠かさない身体は余分な脂肪など少しもついていずしなやかな筋肉に包まれている。
触りたい,と心から思う。
手を伸ばせば触れられる距離に居ても,恋人の心が自分の方を向かない限り,それは叶えられない願いだと知っている。
ただ,傍に居られれば幸せ。
そんなレンアイが存在するなんて,浦原は彼と出会うまで映画の中だけの絵空事だと思っていた。
会いたい,と思う。
傍に居たい。その気配を感じていたい。
声が聞きたい。名前を呼んで欲しい。
欲望はとめどなく果てしなく溢れ続けるけれども,それを飼い馴らす術はとっくに身につけている。
――いいこにしてろ。そしたら褒美くれてやっから。
ため息混じりの声音が耳の奥に蘇る。
はい,と素直に返事をすれば,頭を撫でて,笑ってくれる。
まるで犬だな。
口の悪い友人に云われた言葉を思い出す。
嫌な気持ちになったりはしなかった。
あの人に飼われるのならば喜んで犬にだってなる。
あの部屋で,あのひとの帰りを待つ毎日。
あのひとの手から齎されるもののみを食べ,そして同じベッドで眠る。
そんな日々こそ,今の浦原にとって一番の夢だ。
自分の領域を侵されることを何よりも嫌う人だから。
その領域に自分のためのスペースを空けてもらえたことこそが奇跡。
「…何見てンだよ」
カップ二つを手に振り返った恋人が云う。
浦原はクッションを抱えたまま「何も」と笑って,差し出されたカップを受け取った。
ソファの上に長々と寝そべり,本を開く恋人。
一週間の勤務を終え,土曜日は朝一番で図書館に行く。
土曜の午後から夜にかけてと,日曜日の夕方までの時間をかけてそれをゆっくり読むのが何よりの幸せな時間なのだと云う。
浦原がこの部屋を訪ねるのは,大概が日曜の朝。
恋人の許しがあればその日は泊まって,月曜の朝恋人が出勤するのと同時に部屋を出る。
電話が嫌いで,メールも嫌いな恋人とは,週のほとんどの時間連絡を取ることができない。
それでも,こうして一緒に過ごす時間があれば,自分は――。
頬に指先が触れる感触。
浦原は目を上げてソファの上の恋人を見た。
「何?」
「気配がしょぼくれてっから」
そういう恋人の目は,開いたページに注がれたまま。
浦原は嬉しくなって触れる掌に頬を摺り寄せた。
「猫みてえだな」
「犬みたい,てはよく言われますけど」
「犬?お前が?」
くつり,恋人が喉を鳴らして笑う。
そいて頬に触れていた左手の指がページを捲るために離れていこうとした。
その瞬間。
浦原は無意識にその手を掴んでいた。
しまった,と思ったときは既に手遅れ。
開いたページから目を上げた恋人の眉間にはくっきりと皺が刻まれていた。
「浦原」
窘めるような,叱るような声。
肩を竦めて項垂れた。
握り締めた手の中から,するりと恋人の手が逃れていく。
視界の端で緩く拳を作ったその手に,こつん,と頭を小突かれた。
「ゴメンナサイ」
謝る浦原に,恋人は何も云わない。
かさり,とページを捲る音だけが響く。
浦原は項垂れたままクッションを抱え,カップの中で冷めていくコーヒーを見つめた。
「二時間待ってろ」
背中で声がする。
え,と振り返ると,恋人が本から目を上げて浦原を見た。
「そしたら,遊んでやる」
口の端に笑み。
ほとんど素通しに近いレンズ越しに見つめる瞳も,淡く笑っている。
浦原は堪えきれなくなって俯いた。
耳の下に指先が触れる。
自分の手とはまったく違う,心地良いまどろみにもにた温かい指先。
それがくすぐるように触れてくるのに,浦原はどうしていいかわからなくなった。
「一護サン」
「何だよ」
「手,くすぐったい」
「こういうのが好きなんだろ?」
「え,」
「犬」
「……犬じゃないっスよアタシ」
云いながらも,浦原は手を避けるのを止めた。
くすぐったいけれども,触れているのが恋人の手だと思うと心地良さと嬉しさの方が勝ってしまう。
身体の向きを変え,ソファの上に伸ばされた恋人の脚の上に頬をぺたりとつける。
「わん,て鳴いたら可愛がってくれる?」
耳の下から顎の下へ,そのままこめかみを通ってくしゃりくしゃりと髪を掻き混ぜられる。
ページを捲るたびに遠退いていく手を引きとめたくなるけれども,すぐに戻ってきてくれるのがわかるから,浦原は大人しく待った。
「犬とヤル趣味はねえぞ俺は」
戻ってきた手が,浦原の頬を抓る。
ため息混じりの声の語尾に,微かに笑いが滲んだ。
頬に触れる手に,自分の掌を重ねる。
自分のものより,一回り小さな手。
温かくて,しなやかで。
この手が背中に回され,爪が立てられる瞬間,浦原は生きている喜びを知ることができる。
「一護サン」
「何だよ」
「あと,どれくらい?」
云いながら,首を捻って頬に触れる指先に口付ける。
ひくり,唇に伝わる反応に目を上げると,ページに目を落としたままの恋人の眉間に皺が寄せられた。
「大人しく」
「待ってる。だから,早く読み終わってくださいねン」
言葉を遮るように囁いて,もう一度指先に口付ける。
恋人の唇からはため息。
望み通りの答えを貰って,浦原はひっそりと微笑んだ。
ソファの上に二つあるクッションのもうひとつは眠たい顔したサイのかたち。
多分,続きます。
2011.03.21