re;





///005///



「いいお店ですね。今はもう?」
「ん。オーナーだったばーちゃんが入院しちまって」
「そうなんですか」
「よかったら中も見てみる?鍵預かってるし,空気入れがてら週に一度は掃除に来てっから,中もそんなに荒れてねえんだ」
「是非」

先を行く黒崎の背から視線を逸らし,建物をもう一度見上げた。
こて目の際立つ黄色味かかった壁にオレンジ色に近い茶色の瓦屋根。
やわらかな白い漆喰をこて目の際立つ塗り壁に仕上げた外壁。こて目についた汚れまでが一服の絵のようにしっくりと馴染んでいる。
外から見ただけで浦原は「ここにします」と云いたくなった。自分が夢見ていた店がそこにある,そう思った。

ドアの前にたどり着いた黒崎が振り返って「浦原さん?」と名を呼ぶ。
今行きます,と応えながら,浦原は慌てて足を踏み出した。

どうぞ,と開けてもらったドアを潜って店の中へ。
明かりこそついていないが,窓から差し込む夕日のせいで暗くはない。
ドアから入って店の奥側正面にカウンタが五席。右手に大きく切られた窓に面して二人掛けの席が五つ,その逆側に四人掛けの席が三つ。
入口に近いひとつはテーブルに椅子ではなくローテーブルに二人掛けのソファが対面に並ぶカウチ席になっていた。

週に一度は掃除に来てるから,という黒崎の言葉通り,店の中はちっとも荒れていなかった。
静かに眠っている,そんな雰囲気。
浦原はその眠りを妨げるようで足音すら忍ばせてそうっと店の中を歩き回った。
椅子の背に触れ,テーブルを撫でる。
カウンタ越しにキッチンを見て「中を見ても?」と黒崎に尋ねると是,との応えを待って横のスライディング・ドアを潜った。

決して最新のものではないが,それでも使い勝手よさそうな手入れの行き届いたキッチンだった。
旧型のものではあるけれども有名メーカの製氷機も置かれている。
四口のレンジにオーヴン。足元の扉を開くと注ぎ口が細くなったコーヒードリップ専用のケトルが。
無愛想なステンレスの銀色ではなく,琺瑯引きでやさしい黄色をしている。
そっと手に取って見ると,かなり古いものであるのがわかったが表面のガラスには傷ひとつなく,錆ついている場所も見当たらない。
大切に使われていた,というのが触れる掌からも伝わってきて浦原は敬意を抱くように元あった場所にそっと戻した。

一通り見学させて貰った後,浦原はすぐさまここに決めたい,と黒崎に申し出た。
入口近くのカウチ席で条件面などの話を聞いていると,ドアが開いて白髪の入り混じったごましお頭の老人が顔を出した。

「一護坊,何してんだ。今日は掃除の日じゃねえだろ」
「じーさんおかえり。ばーちゃんの具合は?」

老人に応じながら浦原へ「ここのオーナーの旦那なんだ」と小声で教えてくれる。
浦原は椅子から腰を挙げ老人に一礼してから名を名乗った。

「浦原さん,喫茶店用の物件探してわざわざ――から来てくれたんだ。条件聞いたらここがぴったりだからつれてきた」
「なんだってこんな田舎に。東京にはもっといいとこあるだろ。客だって多くはねえぞ」

訝るように――というよりは胡散臭いものでも見るかのような老人に,浦原は眉を下げると間に入ってくれようとする黒崎を視線で止めて口を開いた。

「地に足をつけて暮らしたい,そう思ったんです。好きになった街で,その街の一部として暮らしたいって。その街の一部になれるような店を開きたいって」
「……若ぇのに,面妖な」

そう云いながらも老人はカウンタに入り「俺が淹れるんだから,そんな美味くはねえぞ」とコーヒーを淹れてくれた。
三人分のコーヒーを運んできた老人は黒崎の横に座り,黒崎の説明に横から補足や茶々を入れつつ浦原と黒崎の話に耳を傾けた。

返答は後日,ということで説明が終わると窓の外はすっかり暗くなってしまっていた。
時刻は二十時になろうというところ。
終電まではまだ少し間があるが,駅まで遠いということで黒崎が店まで車を取りに行ってくれた。
迎えを待つ間,老人と二人きりになった浦原は老人に返答は後日ということになったが,自分としては是非とも契約を結びたい旨話した。
率直に自分の用意できる金額を提示し,もし希望があれば賃貸ではなく買取るのでも構わない,と。
どうしてもこの店がいいのだと。ここを見てしまった後では他にどんな物件を見せられても気持ちが向かない,と。

老人は黙って浦原の話を聞いていたが,窓硝子を迎えに来てくれた黒崎の車のヘッドライトが掠めると「次来られるのはいつだ」と尋ねた。
来週の今日です,と浦原が応えると胸のポケットから黒い革の表紙の付いた小さな手帳を取り出し,十一桁の番号を書き付けると頁を破いて浦原に渡した。

「来るときは連絡を寄越せ。ばーさんに会わせる」
「必ず連絡します」
「俺はこの店を預かってるだけだ。決めるのはばーさんだからな」

帰りの車の中,黒崎に店であった老人と入院中の元オーナの話を聞いた。
顔を合わせれば憎まれ口ばかりだが,仲のよい夫婦なのだと。
オーナが倒れた後,老人は気丈さを保っているもののそれでも随分大人しくなってしまった,と。

「ばーちゃんが入院してるの,隣町のでかい病院なんだけどさ。じいさん毎日朝から原付で通ってて。ほんとは近くに部屋借りて寝泊りした方が楽なんだろうけど,ばーちゃんの大事にした店を放っておけるかって」
「そうなんですか…」

窓を流れる景色は墨を流したように暗い。
道沿いに間遠に立つ街灯の明かりだけが頼りで,あとは海辺の飲食店の明かりが見えるきりだった。
すれ違う車も滅多にない。

「そういえば」
「ん?」

視線はフロントガラスに据えたままの黒崎の横顔を窺って,浦原は「さっき,吉澤サンが」と老人の名を口にした。

「今日は掃除の日じゃない,って。あのお店の掃除って,黒崎サンが?」
「俺と…俺の親戚が,な。別に頼まれたわけじゃねえけど。毎日病院通ってるじいさんに掃除まで任せたら今度はじいさんが倒れちまうし」
「やさしいんスね」
「やさしいとか,そういうんじゃねえよ」
「でも,お仕事じゃないんでしょう?」
「確かに仕事じゃねえけど。でも,ガキの頃から可愛がって貰ってたから。ばーちゃんにも,じいさんにも」

運転用らしいセルフレームの眼鏡のレンズの向こうで,黒崎の瞳が微かに沈むのがわかった。

「来週,オーナに会わせてもらえることになりました」
「え」
「黒崎サンを待つ間に少しお話しさせてもらって,そうしたら次の時にって」
「…でも,浦原さん本当にいいのか」
「ええ」
「さっきじいさんも云ってたけど,観光客が来る時期は多少違うだろうけど」
「アタシひとりが食べていければいいんです。少しずつ街に溶け込んで,地元の人が思い出してふらっと立ち寄ってくれるようなお店にできれば,それで」

言葉に嘘はなかった。
ここにはない,まるで嘘事のような数字を右から左に動かすことで何億という金を生み出してきた。
けれども浦原にあったのは充実感ではなくただの空虚さだけだった。
自分の仕事の結果を自分の目で見たい,と。実感したいのだ,と。
そう思ったから仕事を止めたのだ。
街に馴染めるかどうかが最初の関門になると思う。
けれども,と浦原は運転席の黒崎を見た。

「浦原さん,変わってんな」
「そうスか?」

浦原が云うと,微かに笑みを孕んだ声で「変わってる」と繰り返された。そして「不動産屋である俺がこんなこというの,ほんとは駄目かもしれねえけど」といい置いてから続けた。

「もし,契約が決まって店開くことになったら,俺通うよ」
「ありがとうございます。頑張って美味しいコーヒー淹れますね」
「掃除とか,他にも手が要るようなことがあったら手伝うし」

歩いたときはかなりの距離に感じられたが,車は十分足らずで駅に着いてしまった。
時刻表で確かめると五分後にちょうど快速電車が来るらしい。
その後の電車はというと,たった一本きりだった。

「終電,早いんスね…」
「まあな。地元の人間の足はほとんど車だし」
「アタシも越してこれることになったら車探さなきゃ」
「都内じゃやっぱり必要ない?」
「そっスね。仕事は電車通勤だし,休みの日は滅多に出かけないし」
「家でのんびりする派なんだ?」
「出不精って云ってくれてもいいっスよ」

浦原が笑うと,黒崎も笑ってくれた。
改札前で別れを告げ,浦原はその場で黒崎の乗り込んだ車が去っていくのを見送った。
ロータリをぐるりと回って出て行くとき,一度だけクラクション。
しん,と静まり返った駅にひとり佇み,浦原は耳を澄ませた。
微かに波の音が聞こえた。












海辺の街で小さな喫茶店を営む浦原さんと,サーファーの一護。
そのご。
2012.06.28

photo by FotoGraffi
page + + + + + + + + +