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浅い眠りの淵で,自転車のブレーキ音を聴く。
躊躇わずにベッドを出ると,黒に蛍光色のオレンジ色のラインの入ったウェットスーツに身を包み,自転車のサイドにサーフボードをぶら下げた細身の背中が窓の下から遠ざかっていくのが見えた。
恋人の背中だ。
天気のよい日は毎朝四時過ぎに恋人は海へ出る。
仕事へ行く前に二時間波に乗るのだ。
「タフっスね」と浦原が感心した声で云うと「それが生き甲斐だから」と冗談めかして,でも聞いている浦原が嫉妬を覚えるほど幸せそうな顔で恋人は云う。

視線の先,細身の背が小さくなっていくのを見送って,窓を開けた。
波の音。鳥の声。海を渡る風の匂いを胸一杯に吸い込むと,ぼんやりしていた頭が覚めてくる。

今日もいい天気だ。
一月前まではともすると雪でも降りそうなほど寒い日があったものだけれど,ここ数日は半袖でも十分な初夏日和が続いている。
時刻は四時二分。
起床予定時刻まではまだ軽く二時間あるが,もうベッドに戻る気にはなれなかった。

ベッドサイドの流木で作られた椅子の上から煙草のパッケジを取り上げ,軽く揺すって飛び出た一本を掴まえる。
口の端に咥えて火を点すと,ベッドからシーツを引き剥がし,それを抱えてバスルームへ向かった。

バスルームの窓を開け放ち,バスタブに湯を張る。
満ちるのを待つ間にシーツと溜まっていた洗濯物数枚を洗濯機に放り込んで回した。
煙草を二本吸い終えるころ,バスタブの半分にまで湯が溜まったのを見て服を脱いだ。

ここに越してきて二年。
バスルームを改装したのは半年前。ちょうど恋人と付き合い始めたばかりの頃だった。
つきあう,と云ってもまだ「そういう関係」にはなっていず,少し下心が見え見え過ぎるかな,と思ったけれど不動産屋に勤務する恋人に業者の仲介を依頼すると二つ返事で受けてくれた。

「冬はやっぱ風呂だよな。浦原さん今までどうしてたんだ?銭湯?」

無邪気に尋ねてくる恋人に愛しさが募り,同時に疚しさに胸を塞がれ苦笑したのを覚えている。

築五十年を超える古い建物である今の住まいは水回りさえ整えてしまえば快適だった。
人が長く暮らす家は,人に対してやさしくなるものなのかもしれない。
浦原の仕事場である階下の店も,初めてやってきたお客にも「初めてとは思えない。子供の頃とか来たことがあるような,そんな不思議な懐かしさを感じる」とよく云われる。

ここにやってきてよかった。
しみじみとそう思う。

開け放った窓からは微かに波の音が聞こえる。
今頃恋人は波の腕に抱かれているのだろう。
恋人がサーフィンをしているところを何度か見たことがある。
使い込まれたサーフボードに腹ばいになって沖へと向かっていく様だとか,その上に跨り頃合の波を待つ様だとか。
残念ながらよい波の立つ日ではなかったらしく,「いいところ見せはぐった」と海から上がった恋人は愚痴を零していたがそれでも見飽きることはなかった。

ただ,どうしても。
子供じみた独占欲だ。その自覚は十分にある。
でも,仕方がない。
嫉妬してしまう。彼を抱く波に。彼が笑いかける海に。
ファックユー。
低く呟く自分の声を聞いてから,浦原は彼を見るために海へ行くのを止めてしまった。
だって,どうしたって敵いそうもなかったから。

海に居る間,彼は完全に海のものになってしまう。
ならば自分は,陸に居る彼を占有してやる。
互いに仕事を持つ身で,そうそう一緒に過ごせる時間があるわけではないけれども,それでも大事にされていると思う。
大事に出来ているといいな,と祈るような気持ちで彼を見つめる。
自分を見つめ返す瞳に愛しさが溢れているのをみつけると,堪らない気持ちになる。

アイシテル。
二年前までは誰かに向かいそんなことを口にするなんて思いもしなかった。

低く,喉を鳴らして笑う。
閉じていた目を開けると,窓から差し込む日の光が明るさを増した気がした。
洗濯機の回る鈍い音。
脱水が始まっている,ということはもう半時間経った,ということか。

ざぶり,手で掬った湯で顔を濯いで,再び頭を縁に凭れさせた。
風呂から上がったら,着替えて店に降りよう。
ヨーグルトの水切りをしておいて,バナナティラミスを作ろう。
ティラミスはマスカルポーネチーズを使って作るのが本当だけれど,水切りしたヨーグルトで代用することもできる。
熟したバナナをフォークの背で潰して混ぜ込むと,砂糖控えめのヘルシーなデザートになるのだ。












海辺の街で小さな喫茶店を営む浦原さんと,サーファーの一護。
全9回の予定です。

2012.06.24

photo by FotoGraffi
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