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浦原は住まいの一階で小さな喫茶店をやっている。
開店は朝7時。
モーニング・サービスとして簡単な朝食と淹れたてのコーヒーをワンコインで出す。
11時からはランチタイム。パスタランチとスープランチはそれぞれ1,000yen,メインの付く日替わりランチだけ1,200yen。
ランチタイムはプラス200yenでミニデザートが付く。
相場から云って安い方とは云いがたかったが,それでも店を開いて二年少しずつ常連と云えるお客もついてきて,店の経営は安定していた。
32歳。次の誕生日がくれば33歳。
店を開くときの資金の融資を依頼したメガバク勤務の大学時代の同級生には「隠居するには早いやろ」と呆れられたが,それでも過去の暮らしに未練はなかった。
浦原は大学卒業後,数社手にした内定から報酬の額だけで当時新進気鋭と称されていた証券会社に就職した。
自分なりに苦労はあったが,それでも胃に穴を開けたり不眠症になりかけながら相場という化け物に食い潰されるギリギリで戦う同期たちほど追い詰められたりはしなかった。
性に合っていたのかもしれない。
頭でこねくり回した理論を実践し,金を稼ぐ。
けれども稼いだ金は見えず,数値として現れるだけ。
どれだけ数字を上げてもどこか現実味がなかった。どれだけ評価を上げても面白くなかった。
低迷する景気の先行きは不透明を越えてどんよりと暗い状態が続いていた。
砂浜で金の粒を探すような。
よくそんなたとえ話がされていたが,浦原が歩く砂浜は特別金の粒が多かったのかもしれない。
駆け抜けた数年を振り返った感想と云えば「運がよかった」の一言しかない。
傲岸とも取られそうだから,口にしたことはなかったが。
入社して五年目,他部門の業績悪化が全社を少しずつ蝕んでいき,人員整理の話が出た。所謂肩叩きというヤツだ。
浦原の所属する部門は変わらずそこそこの数字を挙げ続けていたため対象から外れていたが,早期退職者を募る告知を社内netの掲示板で見た翌日,浦原はそれに応募することを決めた。
顔色を変えたのは浦原の直属の上司だった。
ヘッドハンティング――他社への移籍を疑われた。
脅しまがいの慰留を繰り返し受け,浦原の辞表は上司の手の中で握りつぶされくしゃくしゃになった。
もっとも適当なフォーマットをインターネットでダウンロードして氏名欄を書き換え捺印しただけだから何度でも同じものは作れたけれど。
理由を尋ねられ,告知を見たから,と素直に答えると,アレはうちの部署に向けられたものではない,と上司はこめかみを引き攣らせた。
しかし仮に建前だとしても全社員に向け,と告知には書かれていた。浦原が応募してならない理由はないはずだ。
けれども上司は折れなかった。
浦原の気持ちはすっかり退職に向けて傾いていた為,惰性で仕事はこなしていたが暇さえあればどうしたら上司を納得させられるか考える日々が続いた。
ちょうどそんなとき,大学時代の同期の集まりがあって滅多に顔を出さない実家の医院で事務局長の椅子に座る友人と再会した。
その翌日,浦原は個人的にその友人に連絡を取り,頼みごとをひとつした。
そしてその三ヵ月後,浦原は晴れて自由の身となったのだった。
嘘をついたのはよくなかったかもしれない。
ましてや命にかかわる嘘だ。しかし自分の命についてのものだし,まだ罪は軽いか。
「すみません,ここだけの話にしておいて欲しいんですが,実は――」
浦原が友人にした頼みごとは一通の診断書の作成だった。
事情を話し悪用は絶対にしないから,と誓った上で手に入れたそれを差し出し静かな声で「残された時間を有意義に過ごしたいんです」と云うと上司はそれ以上引き止めることはなかった。
貯金と上乗せされた退職金を手に,浦原は一時実家に戻った。
元から放任の両親は浦原の行動に呆れはしたものの咎めることもなく,留守番が居るならちょうどいい,と一年がかりの海外旅行にでかけてしまった。
浦原はその一年を知人の経営するダイニングバーで働き,調理の知識やコーヒー,紅茶,アルコールに関する知識を得た。
流石に調理師や栄養士の資格までは手が回らなかったが,食品衛生責任者と防火責任者の資格は取った。
得たいのは自分が暮らしていく程度の収入。
地元を離れ,どこかで小さな喫茶店を開こう。その頃にはそう考えるようになっていた。
仕事が休みの日,駅から電車に乗り適当な街で下車し不動産屋を巡るのが習慣になった。
立地とかそんなのは二の次で,兎も角も好きになれる街にしよう。そう決めていた。
なかなかこれといった決め手がないまま,時間だけが悪戯に過ぎていく。
知らない街を歩くのは楽しかったが,それでもなんの手応えもない落胆は地味に蓄積していった。
そんな時,見上げた料金表の右のずっとずっと端の方に「空座」という地名を見つけたのだった。
その字が気に入った。
そらざ?からざ?くうざ?
読み方すら最初は知らなかった。
やってきた電車に乗り込んで,四回の乗り継ぎを経て辿り着くのに3時間弱かかった。
降り立つと,目の前に駅名の表示があった。「空座」の文字の下にはローマ字で「Karakura」と記されていた。
「空座でカラクラ,て読むんスね…」
降り立ったのは浦原一人きりで,呟く声を聴く人は誰もいなかった。
切符を精算して駅の外に出る。
長閑な「海辺の田舎」そのものな風景が広がっていた。
季節は二月で,風は身を切るような冷たさだったが,日差しの暖かさがそれを緩和していた。
かすかに花の匂いを嗅ぎ取り,視線を巡らせると梅の木にいくつか花がついていた。
浦原は駅前の住居地図を見て海が近いのを見て取ると,まずは海辺へ出ることにした。
歩いて十五分もしないうちに,風に潮の匂いが混じった。
両腕を広げると塞げてしまいそうな狭い路地を抜け,ところどころ朽ちて削れたコンクリート製の階段を下ると一気に視界が開けた。海辺の道に出たのだ。
海だ。
そう思った。
当たり前だ。海辺の街なんだから。
ばかみたいな感想に,自分で自分を笑いながら,けれども再び浦原は「海だ」と思った。
頬にふきつけるつめたい風。
鼻から吸い込んだ潮の匂い。
耳に響く波の音。
こんな風に海を見たのはいつ以来だろう。もしかすると初めてかもしれない。
車が来ないのを確認して道路を渡った。しばらく道沿いに進み,駐車場から浜辺へ降りる階段を見つけた。
波の音が近くなる。浦原はしばしその場に佇んだ後,ゆっくりと歩き出した。
しばらく浜辺を歩いていると,波の間に間に人がいるのに気が付いた。
黒いウェットスーツに身を包み,白いボードにその身を載せたサーファーたちだった。
しばらくぼんやりと見ていたが,その中でひとりだけ目に付く存在がいるのに気が付いた。
鮮やかな髪の色。まるで波の間に咲く花のような,オレンジ色。
地毛だろうか。そうかもしれない。人工の染料じゃあんな鮮やかできれいな色,出るはずもない。
護岸壁に腰を下ろして,しばらく眺めているとそのオレンジ色の髪が砂浜へと上がった。
浦原は気付くと声をかけていた。
海辺の街で小さな喫茶店を営む浦原さんと,サーファーの一護。
そのに。
2012.06.25