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「あのー,スミマセン」
サーフボードを抱えたオレンジ色の髪が振り返る。
眉間に寄せられた皺。でも,不機嫌と云うよりも眩しそうな顔に見えたので,気にせず言葉を継ぐ。
「この辺に不動産屋サンってありませんか」
「単身者用?それとも戸建てとか?」
「いえ,店舗…,できれば住居つきで」
視線の先,ウェットスーツに身を包んだ彼が頭を振ると,髪から飛んだ雫がまるで金の粒みたいにきらきらと散った。
「三十分待てる?」
「あ…時間は大丈夫っスけど」
「この先五分くらい行ったところにダイナーあっから,寒くなったらそこで待ってて」
そう云って青年は駐車場へと続く階段へと向かっていった。
浦原は青年が示した方向へ目を向け,そこで待ってれば連れてきてくれる,ということだろうか,と首を捻った。
「なあ!」
階段のところで青年が声を張り上げる。
浦原が振り返ると,「あんた,名前は?」と尋ねられた。
大声で自分の名を口にするなど,生まれてこの方したことがない。
けれどもこの距離じゃどうしたって普通の声じゃ届きそうにない。
諦めて腹を括った。
「浦原です!」
誰も気にしちゃいないと思うけど,それでも慣れない行動に,頬が熱くなった。
「浦原さん,三十分な!」
そう云って,サーフボードを抱えなおしオレンジ色の髪をした青年は階段を駆け上がって行った。
アレって結構重いもんじゃないんスかね?
自分の背丈よりも大きなボードを軽々と抱え,その上階段を駆け上がる。
そんなこと自分にできるかと問われたら浦原は迷わず首を横に振る。
多分,あの階段を普通に昇るだけでも息が切れるだろう。
「若いって,いいなァ…」
思わず呟いて,そのあんまりな内容に苦笑を零した。
海にはまだ何人か人が居る。
けれども,そこにはもう浦原の目を引くものはなかった。
しばらく海辺をぶらぶら歩いて,散歩にやってきた犬と戯れた。
アフガン・ハウンド。
親戚の家に居るのとは違う毛色だったが,吸い込まれそうに澄んだ目は同じだった。
黒い革にターコイズとスタッズが散りばめられた洒落た首輪をしていた。
飼い主に許可を得て触れると,大事にされているらしくやわらかい毛並みが掌に心地よかった。
いい街だな。
そう思った。
この街に腰を据えることができたら。よい物件が見つけられたらいいんだけど。
飼い主に礼を云い,犬に別れを告げ再び歩き出す。
浜辺に建つダイナーはほどなくして見つかった。
中に入って待つか,建物を見上げ,それから腕時計を確認すると約束の30分にはまだ少し時間があった。
浦原はまだ海辺に居ることにした。この近くに居ればきっと見つけてもらえるだろう。
「浦原さん!」
名を呼ばれて振り返る。
誰,なんて思うまでもない。この街に浦原の名を知る人は一人しか居ない。
ダイナーのウッドデッキから浜辺へ降りる階段のところに,さっきの青年が居た。
細身のジーンズにダウンジャケットを羽織り,振り返った浦原に手を振っている。
浦原は波打ち際から離れ彼の元へ向かった。
「とりあえず,こんなところで立ち話もなんだから」
まだしっとりと濡れていることのわかるオレンジ色の髪を掻き上げて青年が浦原をダイナーに誘った。
確かに,陽射しは暖かいが海を渡る風はかなりつめたい。
濡れた髪のまま吹き晒されたら風邪を引いてしまいそうだ。
まるで倉庫のようにそっけない造りのダイナーは,海に面した壁一面が大きな窓になっていた。
店の人間と顔見知りらしい青年の薦めで窓辺の明るいテーブルに席を取り,コーヒーとオススメだというチョコレートケーキをオーダした。
チョコレートケーキは頭の芯が痛くなるほどに甘く,中にサワーチェリーが入っていた。
缶詰特有の金属くささがなく,もしかしたら自家製かもしれない。
添えられたクリームは固さが絶妙で甘さは控えめだが微かに洋酒の風味がした。
「美味しい…」
思わず呟くと,向かいでフォークを使っていた青年が「だろ?」と笑った。
一瞬ケーキの味も忘れその笑顔に見惚れた。
視線だけでなく気持ちをまるごと引き寄せられる,そんな笑顔だった。
コーヒーは深めに焙煎したものをペーパードリップでいれているらしく,クセがないさっぱりとした後味で甘いケーキとよくあった。
ちらり,カウンタの方に目を向けるとさっき青年と喋っていた頬に69という数字のタトゥを入れた店員がカウンタに座る常連らしい客と笑顔で話しこんでいた。
「いいお店っスね」
「タイミング悪いとガキのたまり場になっちまうんだけどな」
「そうなの?」
店の中を見回すが,「ガキ」に相応しいお客は見当たらなかった。
窓辺の席で本を読む女性の一人客,窓から離れた席で時折賑やかな笑い声を上げる余人連れの中年女性たち,あとはヘッドフォンをして膝の上に載せたノート型のコンピュータのキィを叩く男性の一人客だけだった。
「今,この辺の高校みんなテスト期間だから」
「なるほど」
浦原が頷くと,青年はいつの間にかきれいに平らげられたケーキの皿をテーブルの端にやり,隣の椅子に置いたDバッグを引き寄せた。
「えっと,店舗付き住居ってことでいくつかピックアップしてきたんだけど」
中からクリアフォルダを取り出しながら云う青年に,浦原は目を丸くした。
「店舗の中身聞きはぐったって店についてから気付いて…飲食店は駄目ってところもあるし。もしこの中に気に入ったのがなければ――」
そこまで云って顔を上げた青年は,浦原が驚いているのに気付いて「あ」と声を上げた。
「先にコッチ,出すべきだよな」
腰を浮かせてジーンズのヒップポケットから取り出したのは使い込まれて燻されたようになった銀色のカードケース。
そこから一枚の紙片を取り出し,青年は浦原の方へとテーブルの上を滑らせた。
「自己紹介が遅れてすみません。空座不動産の黒崎です」
改まった声を聞きながら差し出された紙片に視線を落とすと右端に空座不動産という社名と,住所と電話番号。それからメールアドレス。真ん中に「黒崎一護」と大きく名前が書かれていた。
名前の上にはローマ字で「Kurosaki Ichigo」とルビが振られている。
海辺の街で小さな喫茶店を営む浦原さんと,サーファーの一護。
そのさん。
2012.06.26