002
その日,一護は朝から具合が悪かった。
ぞくぞくと寒気がし,普段より一枚多く着込んでもそれは引かない。
身体の節々がギシギシと音を立てそうなほどに軋み,一度座り込んでしまうと立ち上がるのがひどく億劫になる。
けれども今日中に提出しなければいけないプログラムの検証データが一件あり,また夜には教授の誕生日を祝う飲み会が予定されていたため大学を休むことはできなかった。
風邪薬を買い置く習慣など,というよりも数日分で紙幣が一枚飛ぶようなものに費やす余裕はどこにもない。
なるべく飲み会を早めに切り上げて帰宅しとっとと床につくようにしてこれ以上酷くならないようにしないと,と重苦しい頭をゆるゆると振って幾度となくため息を吐いた。
そんな不調を推して出た飲み会だったが熱のせいでぼうっとしているところに漬け込まれ無闇矢鱈と飲まされた。
元来そう弱い性質ではなく,普段ならばこれくらいの酒量でどうにかなることはなかったが,昼過ぎに一護の不調に気づいた助手のひとりに分けてもらった風邪薬を飲んでいたため,常ではありえないほど酔いが回った。
酔いの回った頭ではよい言い訳も思いつけず,押し付けられるままに杯を重ね気づけば一次会がお開きになる時間だった。
飲み会自体の費用は教授持ちで負担はゼロだったが,しつこく繰り返される二次会への誘いをなんとかかわし,会場だった居酒屋を後にしたが地下鉄の駅までの徒歩五分の道程を歩くことができなかった。
冷たい街灯に凭れ,迷いに迷った末,ちょうど通りがかったタクシーを止めた。
倒れこむように後部座席に乗り込み,四枚の紙幣が飛んでいく夢を見ているうちにタクシーはアパートの前に着いた。
一護は不調がピークに達しつつある身体をなんとか引き摺ってタクシーから降りた。
郵便ポストに手を付いて息を吐く。
未だかつて感じたことがないほど息は熱かった。
頭の中心にもうひとつ心臓があるかのように鼓動が頭に響く。
そしてそれは痛みの波紋となって全身に広がっていく。
一護は顔をくしゃりと歪めたまま壁に手をつき,なるべく身体に響かないようにのろのろと歩いて部屋に向かった。
数歩も歩かないうちに,その声は耳に飛び込んできた。
いつもの,アレだ。
甲高く,まるで猫に狼藉を働いているかのような癇に障る声。
それが延々延々自分の部屋の方から聴こえてくる。
「――は…ぅん,あぁ…,あ,あ,そこ…もっと,もっとして…,イイ……,ぁ…っ」
一護はかぁ,と頭に血が上るのを感じた。
それは怒りは止め処ない奔流となって一護を突き動かした。
立っているのも覚束ないほどふらついていたはずの足でだん!と床を蹴りつけるとまっすぐに隣室のドアへ突き進んだ。
自分の部屋となんら変わりない古びたドア。
ちょうど眼の高さにある魚眼レンズを睨みつけると,一護は渾身の力でそのドアを蹴りつけた。
ドガッ!
と重い鈍い音がした。
その音が更に一護の怒りを煽り,もう一発,もう一発,と蹴りつける。
やがてドアの向こうから「はーい,どちらさまっスか?借金取りとか縁ナイ生活してるつもりなんスけど…」と暢気な声が聞こえてきた。
(2009.01.20)