/// 004 ///
翌朝一護はよく眠れないままベッドを抜け出し,そわそわと時計を気にしながら朝食を終えた。
そして十分に余裕を持って家を出た。
予定では待ち合わせの十時の十分前には駅に到着する予定だった。
しかし駅前通りで工事をやっていたせいで次は終点,というところになってバスが動かなくなった。
一つ手前で降りて歩けばよかった,と後悔しながら一護はなかなか進まない混みあった車の列と腕に嵌めた時計を交互に見ていた。
あと七分。
あと五分。
あと三分。
バスは終点である駅前降車場に十二分遅れで到着した。
混雑のため遅れましたことを深くお詫び申し上げます,というちっとも悪びれない運転手のアナウンスを聞きながら一護は誰より先に席を立つと降車用ドアに向かった。
待ち合わせ場所の前を通るとき,既に来ている浦原が見えた。
浦原の前には二人の大人が居て,笑顔で何か浦原に話しかけていた。
今日訪ねる先の人か,と一護は焦りが募るのを感じた。
バスのステップを一息に飛び降りると一護は駅へと向かう人の流れに逆らうように待ち合わせたコンビニエンスストアの前へと向かった。
「先生ごめん!遅くなった!」
一護が駆け寄ると,店の前に設えられた灰皿へ吸っていた煙草を落として浦原が凭れていた壁から身体を起こした。
「オハヨウゴザイマス」
「あ,おはようござい,ます」
「走ってきたの?」
「う,ん。バスが…その,遅れたから」
「息が切れてる」
ふっと笑う気配に一護はかっと頬が熱くなるのを感じた。
「待たせて,ごめん」
「大丈夫。そんなに待ってないし」
「いや,だって一緒に来てた人も待たせちゃったし」
「一緒に来てた人?」
「いや,バスから見たときに――」
云ってから一護は周囲を見回した。
店の中にいるのかな,と浦原越しに店の中を覗くと「アタシはひとりっスよ」とすぐ傍で声がした。
「え,」
「なんか写真撮らせてくれとか云うから,断ってたの」
「写真…?」
「そ。たまにあるんスよね。雑誌だかなんだか知らないけど」
鬱陶しそうに云って小さく欠伸を漏らした浦原を見て一護は漸く合点がいった。
浦原の頭の天辺から足先までをまじまじと眺める。
元からスタイルがいい,というのもあるだろうけれど,野暮ったいスーツでない浦原はなんていうか,普通にかっこいいのだ。
普通にというより,すごく。
胸元がV字に開いたサマーセータに数箇所ダメージの入ったジーンズ。
手首には数本の黒いブレスで,足許は皮製のサンダルだ。
そう気合いが入ってるというわけではないけれども,雰囲気がもう違う。
一護が噴出すように小さく笑うと,浦原が何?という風に目を上げて一護を見た。
「先生,スーツのときと全然雰囲気違うから」
「…そう?」
「なんか服も高そうに見えるし」
「全部安物っスよ。このセーター,イトーヨーカドーで980円だし」
「へ!?」
「このジーンズも学生のときから履いてるからこんな穴とか開いてるし」
「ちょ,マジで?」
「ついでにサンダルは浮竹さんちの庭歩き用のそのまま履いてきただけだし」
「で,でもその腕とか。ブレスレットだろそれ」
「え,これ?これは頭括るようのゴムっスよ。あっついから」
云いながら浦原は無造作な仕草で顔にかかる髪をかき上げるようにして後ろでひとつに括った。
「……なんか,すげえ騙された気分」
「騙されてくれたの?」
「いや,だって…」
「スーツの方が高いんスけどねえ。消耗品とは云え一応仕事着だからあんまり変なの着るわけにはいかないし」
ひっそり笑う浦原を見上げて,一護は口をへの字に結んだ。
「詐欺だ」
「え,詐欺って」
「ていうか,雑誌の人なんつって断ったわけ?」
「え,コウムインだから無理ですって」
「やっぱり先生とかって雑誌に載ったりするとまずいんだ」
「さぁ?お金貰ったりしなきゃ大丈夫でしょうけど,誰の目に触れるかわからないし,面倒くさいから」
「あー,そういう」
納得した,と云う風に一護が頬を緩めると,浦原もふっと笑顔になって伸ばした手の,緩く曲げた指の背で一護の頬に触れた。
ひやりとつめたい指の感触にどきん,と心臓が震えた。
「な,なに?」
「睫。もう取れましたよン」
「あ,ありがとう」
「いいえ。さて,それじゃ行きましょっか」
頭をぽん,と撫でられた。
浦原は店の前に停めていた古びた自転車の元へ向かうと蹴りつけるようにしてスタンドを外して一護を振り返った。
「しばらくは歩くけど,いい?」
「あ,うん。でも,しばらくって」
一護が尋ねると浦原の視線は通りの先に向けられ「アレ」と小さな声で囁いた。
浦原の視線をなぞるように一護が目を向けると,そこには交番があった。
「二人乗り,見つかると怒られちゃうから」
云って歩き出す浦原の後を一護は慌てて追った。
駅の横の高架を潜ってしばらく歩いた先で浦原が「そろそろいっかな」と後ろを振り返る。
そして「黒崎サン」と一護を呼んだ。
「何?」
「ハイ」
云いながら浦原はハンドルを支えていた手を片方放した。
え?と一護が浦原の意図を問うように浦原の顔を見ると「道案内はするから,漕いで」と浦原はもう一方の手もハンドルから放そうとする。
ぐらりと揺れる自転車に慌てて一護が手を伸ばすとくすり,笑う声がすぐ傍でした。
結局有耶無耶のうちに一護はサドルにまたがっていた。
浦原の背に合わせてあるのか少し高めて伸ばしても足先が辛うじて地面につくのがやっとだった。
「とりあえず,この道をしばらく真っ直ぐで」
浦原の手が伸ばされて通りの先を指差す。
一護は頷いてペダルをゆっくりと踏み込んだ。
一回,二回と漕いだところで大きな手が一護の肩を掴んだ。
え,と思う間もなく浦原が後ろに飛び乗っていた。
車輪を止めるボルトのところに突き出すように金具が留められていて,それに足を乗せているらしい。
荷台がないタイプの自転車だったから,てっきり浦原は横を歩くものと思っていた一護は面食らって動揺したが,転んだら大変だ,と慌ててハンドルをしっかりと支えた。
先生に会ってからこっち,俺,慌ててばっかだ。
今更ながらそんなことに気づいて一護は口元を歪めた。
しかし頭の上で「はー,気持ちいいっスねぇ」としみじみした声がしたのを聴くと,いろんなことがどうでもよくなってしまった。
浦原は一護の肩をつかんでいた手を放すと首の後ろに肘をつくように両腕を渡して,「次のあの角を右」とか耳の傍で行き先を教えてくれた。
声がくすぐったいのでその都度一護は肩をすくめたけれど,不思議と嫌だという気持ちにはならなかった。
ただ,普段ならば二人乗りを禁止する立場の浦原と,こんな風に二人乗りして街中を走っているのが無性に楽しかった。
時間にして十分弱。
浦原が「あの先の,板塀の切れたところがそう」と云い,一護はその屋敷の佇まいに圧倒された。
少し手前でブレーキをかけるとひらりと浦原が飛び降りた。
ぺしん,とサンダルが地面を叩く音がして,一護もサドルから降りる。
そして傍らの豪壮,というのか,とにかく大きな屋敷を見て,恐る恐る浦原へと視線を向けた。
「先生の友達って,何者?」
「あー,無駄に大きいっスからねえここんち」
云って浦原は小さく喉を鳴らした。
「まぁ古くからある家なんで。ちなみに浮竹サンはここで書道の先生してるんスよ」
「書道…習字?」
「そう。今日はお休みにしてあるって云ってたんで,生徒サンもいないし緊張するようなひとでもないから大丈夫」
一護の危惧をほどくようにやさしい声音で云って浦原はさっさと歩き出した。
一護はこくりと喉を鳴らして唾と一緒に緊張を飲み下すと黙ってその後に続いた。
庇のついた立派な門の横にはガラスケースのようになった掲示板が置かれ,市民ホールで行われている書道展のポスターや今日が休みになる旨手書きで記された案内が貼られていた。
筆文字で書かれた流れるような文字に思わず見入る一護の横で浦原は馴れた仕草でからからからから,と音を立てて引き戸を開けた。
玄関へと続く敷石を途中でそれで右に折れる。
枝振りの立派な松や紅葉を横目に見ながら間遠に置かれたまるい形の敷石をいくつか踏むと庭へと出た。
左手,板塀の上の方から真っ直ぐに差し込む太陽が頬を照らす。
思わず顔を顰めて額のところに手を翳し庇を作った。
それでも眩しさは変わらず,一護は顰め面のまま浮竹と対面することになった。
「浮竹サン」
浦原の声にはっとなって眉間の皺を解く。
浦原を見て,浦原の視線を追うように縁側に目を向けると,そこには涼しげな和服姿の若い男が座っていた。
「おう,早かったな」
「黒崎サンが頑張ってくれたから」
「浦原,お前生徒に自転車漕がせたのか?」
「だって,若い子の方が体力あるでしょ」
低く篭る声で笑って,浦原は一護を振り返った。
「黒崎サン,この人が浮竹サン」
促されて一護は一歩前に出た。
そしてぺこりと頭を下げると「黒崎,一護です」と自己紹介した。
「浦原から話は聞いてるよ。会えるのを楽しみにしてたんだ」
耳に心地いい落ち着いた声。
一護はほっとするのを感じながら不器用に笑った。
そのとき,庭の隅でわん!と弾けるような犬の鳴き声がした。
一護ははっとなって声のした方に顔を向け,「レイン!」と思わず名を呼んだ。
そして視線を浮竹,浦原の順に向けると,二人とも「どうぞ」と云う風に頬を緩めた。
敷石を蹴って声のした方を真っ直ぐに目指す。
まるで屋根のように張り出した松の木の枝の下に辿り着くと,膝に小さな衝撃があった。
日向から日陰に入ったせいで目が慣れるのに時間が要った。
しかし一護は手を伸ばすと足許でぴょんぴょん跳ねる犬にそっと掌で触れた。
しゃがみ込むと膝に乗り上げる勢いで犬が寄ってくる。
「ちょ,止めろって。落ち着けよ!」
云いながら頭をぐりぐりと撫で,目を何度も瞬かせる。
漸く目が慣れてわふわふと懐いてくる犬の姿が目に映った。
黒い毛色に映える赤い色の首輪。
そこから伸びるリードは小屋のすぐ横に穿たれた杭にとめられている。
手作りらしい素朴な犬小屋はペンキこそ塗られていなかったけれど,丁寧に防水用の塗料が塗られている。
「その小屋ね,アタシが作ったんスよ」
すぐ後ろで声がして,一護は驚いて顔を上げた。
「え,先生が?」
「そ。板は京楽サン…後で来ると思うんでまた紹介しますけど。が,手に入れて来てくれて,インターネットで図面をダウンロードしてね」
「なんか,想像つかない」
「アタシだってまさかそんなことになるとは思ってなかったっスよ。でもやってみると結構楽しくてね」
あのときも黒崎サン誘えばよかったな,と思い出し笑いするように呟く浦原に,一護は思わず「呼んでくれればよかったのに」と云ってしまった。
云ってから図々しかったかと後悔して,それを誤魔化すようにぎこちない仕草でレインの頭を撫でた。
「ところで黒崎サン」
「な,何?」
「お昼ごはんができるまで,一仕事付き合ってもらってもいい?」
「いいけど,何するわけ?」
「レインを洗うの。最近大きくなってきたせいかひとりだとしんどくって」
浦原のため息に応えるように手元でわん!とレインが鳴いた。
一護は心配になって「俺,犬とか洗ったことないんだけど」と云うと,浦原は「大丈夫,そんな難しいことじゃないんで」と立ち上がった。
浦原が盥やシャンプーなどを用意する間,一護はレインの散歩を仰せつかった。
小さなビニル袋と一リッタのペットボトルを持たされて屋敷の周りをぐるり一周した。
用を足すポジションは既に決まっているらしく,レインが足を停める度に一護は用を足した後にペットボトルの水をかけた。
四分の三ほど歩いたところでレインが足を止め,小さな身体を震わせて踏ん張り始めた。
一護は見るともなしにそれを見守って始末をつけるとあとはまっすぐに門を目指した。
レインと連れ立って庭に戻ると,庭の西の端の水道場に浦原の姿があった。
レインが浦原を見つけて走り出そうとする。
一護は「待てって」と焦りながらも残りの距離を一気に駆けた。
「オカエリナサイ」
「ただいま。っていうか先生に懐いてんだな」
「ここに置かせて貰ってるけど,いちおうアタシが飼い主っスから」
ね,レイン。と云って浦原はレインの首に手を回し,二三度撫でてから首輪をはずした。
浦原が用意していたのは大きな盥とそれから古びた手差しポット。
蚤取り専用のシャンプーなどだった。
「黒崎サン,レイン押さえてて」
「ん」
もがくレインの身体を後ろから抱え込むようにして押さえ,喉の下を擽るようになでる。
くぅん,と甘えた声で鳴くのが可愛かった。
浦原は慣れた仕草でポットから水の張った盥に湯を注ぐと温度を見ながらゆっくりと掻き混ぜた。
「こんなもんかな」
浦原に促され一護はそっとレインの身体を離した。
ほんの僅かな距離を駆け出したレインの身体を浦原の腕が受け止めてひょい,と持ち上げると盥の中に放り込んだ。
わん!わん!と吠えるレインに「煩い。いつものことでしょ」と云いながら手で掬った湯をかけていく。
一護も浦原の傍にしゃがみ込んで見様見真似で手伝った。
「耳に水が入らないように注意して。あとはテキトーで」
「テキトーって」
「そんなおっかなびっくりやんなくても大丈夫っスよ」
苦笑するように云って浦原は手で掬った水をぱしゃん,とレインの顔にかけた。
きゃん!と抗議するようにレインは鳴いたけれど,すぐにまたぱたぱたと尻尾を振り出した。
「可愛いな」
「そう?」
「うん,すっげえ可愛い」
云いながら濡れた手で何度もレインの頭を撫でた。
ぴんぴんと勢いよく振られる尻尾のせいで飛沫が腕や頬にかかる。
けれども一護はちっとも気にならず,頬を緩めたまま何度もレインの頭を撫でた。
だーんだーんにーなーがーくなるうー。(`フ´)♪゛
唄って誤魔化してみましたが続きます。(めいび)
2010.11.03