/// 002 ///
二年生に進級して,あっという間に一学期が過ぎて行った。
中間・期末と学年での順位が二十位以内に位置していたため,補修兼の夏期講習の受講も免れ,一護は毎日退屈な日々を過ごしていた。
七月が終わり,一日に決めた分量だけ課題を進めながら八月も半ばに差し掛かった。
盆には家族で母親の墓参りに行った。
他には友達と市民プールへ行ったり,映画に行ったり。
そんなことをしているうちに小遣いの残りが乏しくなり,仕方なく家で気塞いな日々を過ごしていたとき,三年生が引退して水泳部の部長に昇格した友人から電話がかかってきた。
大会で好成績を修めた褒美に,今日から三日間練習が休みになる。
プールを汚さないのを条件に,明日仲間内にプールを開放するから遊びに来ないか,との誘いだった。
一護は二つ返事で応じ,待ち合わせの時間を確認して電話を切った。
次の日,昼過ぎに家を出て13時前に待ち合わせのプール門前へ到着した。
同じクラスのヤツも居れば,知らない顔のヤツもいて,門前には十五六人の男ばかりが集まっていた。
「男ばっかで潤いはねーけど,水ン中入れば濡れるだろ。くれぐれも怪我したり,水汚したりしねーよーにな」
新・水泳部部長の号令に「おう!」と口々に応じぞろぞろと門を潜った。
更衣室の鍵は預かっていないからという理由でプールサイドでぎゃあぎゃあ言い合いながら着替えた。
そんな風にじゃれあってるうちにバランスを崩して服のままプールに落ちるヤツが出て,そこからは芋づるのように引きずり込まれ,一護も上に着ていたTシャツを脱いだだけの格好でプールに突き落とされた。
悲鳴と怒号,はしゃぎ声が夏空に響く。
「お前らなあ!」
呆れ半分の水泳部の部長に一喝され,ずぶ濡れのままプールサイドに上がり,改めて水着に着替えた。
濡れた服はプールサイドのフェンスに引っ掛けて干し,改めて水の中に入る。
馬鹿みたいに大声で笑って,喋って,泳いで,あっという間に時間が過ぎていった。
時間が午後三時を回ると,再び水泳部部長の号令の下,ぞろぞろとプールから上がり,疲れた身体に服を纏った。
このまま遊びに行くという者,疲れたから帰って昼寝するという者,それぞれ連れ立ってプール門を出たところで解散となった。
一護は誘ってくれた水泳部の友人に礼を云うため足を止め,友人がやってくるのを待った。
「サンキューな。すげえ楽しかった」
「俺は疲れたわ」
「まだなんかあんのか?」
「いや,当直の先生に門の鍵返して帰るだけだけど,暴れまくったせいかなんか頭痛くてよ」
云われていれば眉間に皺を寄せている。顔色もどことなくよくないように見えた。
「俺が返してきてやろっか?」
「…マジで?」
「お前の代理って云えばいいんだろ?」
「すげえ助かるわ」
「そんなの別にいいけど,お前帰り一人で大丈夫かよ。顔青いぞ」
「水に浸かって冷えたからだろ。真っ直ぐ帰っから大丈夫だって」
サンキューな,と手を振る友人を見送って一護は木札のついた鍵をぽん,と放り投げた。
友人曰く,当直の教員は校舎裏にある部活棟の一階の端にある当直室にいるとのことだった。
校内でそこと校長室だけがエアコンが設置されているというのは生徒なら誰もが知っていることだった。
校舎と管理棟を繋ぐ渡り廊下を横切って校舎裏へショートカットする。
胸の高さまでの塀を越えるときだけ周囲を見回したが,体育館の方からバスケ部とバレー部の練習する声が聞こえるだけだった。
左手に聳える校舎が日差しを遮り,ジリジリを膚を焼く日差しが遠のいたことにほっとしながら部室棟を目指す。
サッシ戸を開けて裸足のまま廊下を進んだ。
文芸部,将棋部,書道部と札の下げられた部室の前を抜け,一番奥の扉の前に立つ。
コンコンコン,とノックをして引き戸開けて,一護は立ちすくんだ。
畳敷きの部屋の真ん中に,半分に折った座布団を枕に寝ている男が居た。
天井近くに設えられたエアコンは沈黙している。
代わりに窓が開いていて,足許に置かれた小さな扇風機はぶーん,ぶーん,と唸りながら首をゆるゆると左右に振っていた。
外気と変わらないむっとするような空気がもったりと攪拌される部屋の真ん中で寝ているのは,浦原だった。
驚いたのはまさか会えるとは,と思ったからだけではない。
なんていうか,その格好が問題だった。
一護の視線の先には浦原の背中がある。
背中はむき出しだった。
むき出し。露になっていると云い直してもいい。
裸,なのだ。
何やってんだこの人。
一護は本気でそう思った。
裸と云っても正確には全裸ではない。
いちおう下着だけは身に着けている。
けれどもその格好は一護の父親の風呂上りの格好と変わらない。
たとえ授業のない夏休み中とは云え,仮にもここは職場じゃないのか。ありえないだろ。
一護はしみじみとそう思った。
「先生」
もし他の生徒が通り掛かってこんな姿を見たら不味い,と後ろ手に戸を閉めて,一護は寝入る浦原に声をかけた。
けれども浦原は一護に背を向けるように向こう側を向いたまま微動だにしない。
しばらく待ってみても起きる気配がないので,一護は埃のついた足を払ってそっと畳敷きの部屋に上がった。
足許を回って眠る浦原の顔が正面に見られる位置に膝をつく。
手を伸ばして肩を揺すろうとして,一護は手を止めた。
肩も腕もむき出して,どこに触っていいかわからなかった。
伸ばしかけた手を引っ込めて,眠る浦原の顔を見下ろす。
浦原に会うのは久しぶりだった。
二年生に進級して,クラス替えがあった。
担任は浦原ではなく,授業の担当も違うため,接点はほぼなくなった。
時折廊下などですれ違うが,授業を受けることもなくなれば話すことは何もない。
目が合ったときだけ小さく会釈を返す,それが精々。
一年生の最後の日,浦原がつれて帰った犬のこととか,聴きたいことはいくつもあったけれど,それを尋ねる機会も得られないままになっていた。
その浦原が,目の前にいる。
一護はしゃがみ込んだ膝を抱えると,まじまじと眠る浦原の顔を見つめた。
いつもかけている野暮ったい眼鏡は枕元に畳んで置かれている。
手に取って蔓を開くと,フレームが微妙に歪んでいるのがわかった。
「…ひっでぇの」
小さな声で云って,笑う。
風呂上りのオッサンのような格好で昼寝をしているのもひどいが,この眼鏡も相当酷い。
浦原が目を覚ます気配のないことを確認して,目を瞑ってその眼鏡をかけてみた。
蔓が曲がっているせいですぐにずり落ちてしまう。
だからいつも指で押し上げてるのか,と納得した。
押し上げながら指で触れると鼻の付け根のところに当たる押さえも今にも外れそうになってるのがわかった。
どんだけおんぼろなんだよ。
胸の裡で呟いて,そろそろと目を開けてみる。
と,まるで眩暈を起こしたようにぐわん,と世界が歪んで見えた。
相当度がきつい。
レンズの厚さはそんなでもないということは,乱視が強いということなのだろうか。
眉間の辺りになんとも云えない気持ち悪さを覚えながら一護はそっと眼鏡を外すと,浦原を起こさないようにそっと枕元に戻した。
改めて眠る浦原を見下ろす。
相変わらず髪の毛はぼさぼさだけれど,横を向いて眠っているせいでその間から額が見えている。
伏せられた瞼を縁取る睫は意外にも長くて,一護はへぇ,と小さく息を零した。
それにしてもよく寝てんな。
こんだけクソ暑い部屋で熟睡とか。脱水起こしたりしねーのかな。
部屋の中をぐるりと見回して,込み上げた欠伸をぷかりと放つ。
できれば起こして,少しでも話すことができたら,と思ったけれども,もしかしたら昨夜も遅くまで仕事だったのかも,と思いとどまった。
仕方なしに足許に放ってあった鍵を枕元,眼鏡の横に置いて立ち去ろうと手を伸ばした。
そのとき――。
「寝込みを襲うなんて酷い」
一護は思わず「ぎゃ!」と声を上げて尻餅をついてしまった。
心臓がありえない速度で鼓動を刻む。
どきどきを越えてばくばくばくばく,と頭の中にまで響いた。
「び,びっくりさすなよ!」
「そんなに驚かなくたって」
「いつから起きてたんだよ」
「最初から」
「は?」
「ドアが開く音で目が覚めました。でも動くの面倒だから寝たふりしてたんスよ」
「目,覚めてたんなら起きろよ!」
性格悪ィぞ!と一護が喚くと「ゴメンナサイね」と笑みを孕んだ声で謝られた。
ちっとも悪いなんて思ってない声。
けれどもそれ以上怒る気にもなれなくて,一護はどっかと胡坐を掻くと放り出してしまった鍵を引き寄せ,浦原へと差し出した。
「コレ」
「プール門の鍵?」
「そう。新垣のヤツ,頭痛ぇっつーから俺が預かって代わりに返しに来た」
「それはご苦労様」
浦原の手が鍵を受け取るのを待って,一護は「じゃ」と立ち上がろうとした。
「もう帰っちゃうの?」
「……つったって用ねぇし」
「つめたい飲み物出すんで,飲んできません?」
せっかく誘ってもらったのに,それを断る気にはなれなかった。
それに,プールの中で散々騒いで暴れたせいで喉も渇いていた。
一護は上げかけた腰を再び下ろし「貰う」とぶっきらぼうな声で云った。
「貰うけど…でもその前に格好なんとかしろよ」
ため息交じりの一護の声に,床の上に胡坐を掻いた浦原は自分の姿を見下ろして「あー」と云った。
うすく筋肉のついた腹は段になることこそなかったが,胡坐をかいているせいで脚の付け根から股間にぶら下がるものが垣間見えそうになっている。
一護は目のやり場に困って顔を背けた。
ごそごそと衣擦れの音がする。
「もー,暑くて暑くて」
げっそりとした声に視線を戻すと,カーキ色の地がけば立って色あせて見える厚手のワークパンツに脚を通し,ファスナを引き上げただけの格好で浦原が立ち上がるところだった。
「この部屋,エアコンついてんじゃねーの」
「ついてるけど,壊れてるんスよ。修理頼んだんだけどのんびりした業者サンで明後日にならないと来てくれないんだって」
「うわ,最悪じゃんそれ」
「ほんとサイアク」
ため息を吐いて,浦原は下着のゴムが見えるウエストをぼりぼりと掻きながら部屋の隅に置かれた冷蔵庫へと向かった。
浦原が掻いたその部分はたちまち赤くなって,畳のあとがくっきりと浮き出た。
「…酷ぇ」
「ねー」
「いや,先生が」
「え,アタシ?」
「だってうちの親父の風呂上りよりまだ酷ぇぞ,その格好」
浦原は冷蔵庫からコーラのボトルを二本取り出すと,一本を一護へ放った。
そして自分の分のキャップを捻じ切りながら戻ってくる。
「そんなこと云ったって仕方ないじゃないスか。この暑い中服なんか着て寝てたら全身汗疹だらけになっちゃいますよン」
「そうかもしんねーけどさ」
でも,だからって。
そう思いながら一護はコーラのキャップをはずし,つめたい炭酸をごくごくと飲み干した。
喉の奥が塞がったようになって,げふ,と息が漏れる。
浦原の方を見ると,ボトルを煽るように口をつけ,喉仏を上下させながら一護以上に勢いよく飲み干していた。
「そんな勢いよく飲んで,げっぷ出ねぇの?」
「んー?」
最後の一滴まで口の中に零し,一護に向き直った浦原は俄かに真顔になると思い切りげっぷを吐いた。
「失礼」
「ほんとだよ」
一護は呆れるよりも笑えてくるのを押さえることができなかった。
これ見よがしに吐き出したため息は揺れて,笑い声みたいに響いた。
片膝を立て,片脚を伸ばした浦原はふー,と息を吐くと,身体を捩るようにして背後に丸めて放ってあったTシャツの下からくしゃくしゃの煙草のパッケジを取り出した。
「吸ってもいい?」
「別にいいけど」
一護の応えに頷いて,浦原は皺だらけの煙草をパッケジから抜き出して口に咥える。
そして顔にかかる髪を無造作に掻き上げると目を伏せてライタを点した。
一護は見るともなしにその姿を見ていたが,すぐに視線が逸らせなくなった。
髪が掻き上げられたせいで露になった髪の生え際だとか,伏せられた瞼を縁取る睫が作り出す影だとか,そんなものに目が釘付けになる。
煙草は湿気ているのかなかなか火がつかなかった。
一護は漸く火のともった煙草を浦原がゆっくりと,気持ちよさそうに燻らせ天井を仰いで細く細く煙を吐き出すまでその姿に見入っていた。
「…何?」
口の端に煙草を咥えた浦原が左手で灰皿を引き寄せながら一護に尋ねる。
一護ははっとなって首を横に振ったが,何でか頬の辺りがやたらと熱く感じられた。
「なんでもない」
「そう?」
こくこく,と大げさなくらい頷いて,一護は誤魔化すように手の中のコーラのボトルに口をつけた。
「それにしても久しぶりっスね」
「もう担任じゃないしな」
「校内であっても会釈しかしてくれないし」
「…つったって,話すこととかないし」
「つめたいんだ」
詰るような声に,一護は言葉を詰まらせた。
そんなことを云ったって,仕方がないだろう。
口に出来ないそんな思いの変わりに,恨めしい目を浦原に向けると,浦原は口の端に煙草を咥えたまま,棚引く煙が煙いのか目を細めて一護を見て,そして笑った。
「――なんてね」
ひっそりと笑みを孕んだ声で継がれた言葉に,一護は顔を顰める。
「先生,性格悪いって云われねえ?」
「さっきも云われましたねぇ」
「ちっとも堪えてねえし」
ため息混じりに一護が云うと,浦原は喉を鳴らして笑った。
そして節の立った指で煙草を摘んで,灰皿の上でとんとん,と弾く。
その指がびっくりするほど長いことに一護は気がついた。
指だけじゃない。
無造作に投げ出された脚も,立てた膝を抱えるように回された腕もだ。
ただ長いだけじゃなくて,バランスも取れている。
「モデル体型」という言葉が脳裏に浮かんだ。
そう思って見直してみると,野暮ったい眼鏡をかけていない浦原の顔はどちらかというと整っていたような気がする。
むき出しの上半身にも無駄な肉はついていないし,なんていうか…色気のようなものがある。
そう思ってから一護は慌ててその思いを打ち消した。
男相手に色気も何もねーだろ!
眉間に皺を寄せて浦原を見る。
何?と云う風に片方の眉を引き上げて一護を見つめる浦原の目を見返して,一護はふっと浮かんだ疑問を口にした。
「…先生ってさ,もしかして結構若い?」
「え?」
「いや,スーツ着てないと若く見えるっていうか」
まさか身体が引き締まってるからだとか膚に張りがあるからなんて理由が口に出来るはずもなく,しどろもどろにそんな言葉を継いだ。
「逆に聞きますけど,黒崎サンには,アタシっていくつくらいに見えます?」
四十くらいだと思ってた,と喉元まで込み上げた言葉をぐっと飲み込んで,浦原を見る。
浦原は小さく首を傾げて一護を見ている。
「…三十八,とか」
「さんじゅうはち」
云うなり浦原は文字通りがっくりと項垂れた。
「あ,やっぱり違うんだ?」
「違うなんてもんじゃない。一回りも違いますよン」
「一回り?」
「干支で」
「干支…ってことは十二か?え,嘘だろ!?二十六!?」
「今年の十二月で二十七になりますけど」
「見えねえ!」
思わず勢い込んで云うと,浦原は口をへの字に曲げた。
「黒崎サン酷い」
「あ,いや,だって」
「酷い。道に非ずと書いて非道って云ってもいい。すごく傷ついた」
「ご,ごめ…」
慌てて一護が詫びると,浦原はすっかり短くなった煙草を灰皿でもみ消し,立てていた膝を倒して胡坐の姿勢になりながら深々とため息を吐いた。
「そりゃね,黒崎サンたちくらいの年頃の子から見たらアタシなんてオジサンでしょうけど」
「いや,今はもっと若く見えるし!」
柄にもなく,一護は必死になってフォローした。
「眼鏡!」
「…眼鏡?」
「そうだよ眼鏡!その眼鏡がオッサンくさく見せてるんだって」
一生懸命に言い募る一護を胡乱気に見て,浦原はかけていた眼鏡を外す。
そして,顔にかかる髪をゆっくりと掻き上げて掬い上げるように一護を見た。
「こうすると若く見える?」
一護はどき,と心臓が跳ねるのを感じながら,それでも激しく首を縦に何度も振った。
「み,見える」
浦原は掻き上げていた髪から指をほどくと,かったるそうに首を横に振り,手に持っていた眼鏡をかけた。
「そういうもんスかねえ」
「じ,自分で鏡見てみろよ」
「四半世紀も付き合ってる顔っスよ?眼鏡があってもなくてもアタシの目にたいした違いはありませんって」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんなんスよ」
くあああ,と欠伸を放ち,目尻に浮かんだ涙を眼鏡を押し上げるようにして指で拭う。
「まぁね,職業柄年上に見えるってのは悪いことでもないんスけど」
眠そうな声で云って,また新しい煙草を咥えて浦原は云った。
「若く見えると駄目なわけ?」
「生徒サンにはウケるかもしれないけど,親御サンは逆に見ますからねぇ」
「そっか」
そういうもんなのかもしれない。
よくわからないなりに一護が納得して,それから無駄に力の入っていた肩から意識して力を抜いた。
久しぶりに話す浦原は,数ヶ月前担任だったときと何も変わっていなかった。
素っ気無いけど,嫌な感じはしなくて,気持ちを楽に話すことができる。
一学期の成績を尋ねられれ,覚えてる限りの評価を口にすると「相変わらず音楽と美術はちょっと苦手?」と笑われた。
「去年の俺の成績なんか,先生覚えてんの」
「覚えてますよー。だって先生っスから」
何でもないことのように浦原は云うが,それってもしかしてすごいことじゃないのか?と一護は思った。
嘘をついてるとか,場当たり的なことを云っているとは不思議と思わなかった。
素直にすげーのな,と感心し,思ったままを口にした。
「さっきは性格悪いって貶したくせに」
「性格悪いのとはまた別だろ」
「アレ,そこは訂正してくれないんだ?」
「訂正する理由が見つからない」
「黒崎サンてば厳しいなァ…」
他愛のない話をしているうちに,時間はあっという間に過ぎていき,壁に設えられたスピーカから間延びしたチャイムの音が鳴り響いた。
「オヤ,門を閉める時間だ」
気づけば二時間近くが経っていた。
夏休み中は特別な申請がない限り午後五時で門を閉めるのだという。
それから校内に生徒や不審者がいないことを確認してからようやく開放されるんだ,と浦原は説明した。
説明しながら浦原は口に咥えていた煙草を灰皿に置いて傍らに丸めて置いてあった紺色のTシャツを被るように着込んだ。
さらにぼさぼさに乱れた髪を両手で梳き上げるように後ろに流すと,口に咥えた黒いゴムでひとつに括る。
そんな風にするとまた浦原の印象は変わった。
26歳だという年齢が,違和感なしにぴたりと重なる気がする,とじっと見つめていると,Tシャツを着込んだ浦原が肩に手を当て首をごきりと鳴らした。
一護は浦原が向き直るのに合わせて視線を逸らすと「じゃあ,俺もそろそろ帰る」と云いながら腰を上げた。
「んじゃ門まで一緒に行きましょっか」
灰皿から取り上げた煙草を口に咥えるとゆっくりと吸い付け,半分より少しだけ短くなったそれを灰皿に押し付けるようにしてもみ消した。
そして鼻から煙を吐き出しながら膝に手をやり「よっこらしょ」と立ち上がる。
一護は火照った身体を冷ますようにTシャツの裾をばさばさとやって空気を送り込みながら引き戸へ向かう浦原の後に続いた。
公民館のトイレにあるような茶色いビニル製のサンダルを引っ掛けた浦原はのんびりとした足取りで部室棟の入口へ向かった。
そして傍らの下駄箱からぼろぼろのビーチサンダルを取り出すとコンクリート敷きの床に放った。
ぱしん,と音が響いて,一護は足のかたちに黒ずんだビーチサンダルと浦原の顔を交互に見た。
「何?」
「いや,」
「そう?」
「うん」
見様によっては「カッコイイ」だとか「モデルみたい」と云えそうな姿をしているというのに,なんでこんなに無頓着なんだろう。
もったいない,と思う。
もちろんそんなの浦原にしてみたら余計なお世話だろう。
でも,やっぱり勿体無いよな。
一護はすぐ横を歩く浦原を盗み見て,小さくため息を吐いた。
門の前で手を振って別れようとすると,一護は浦原に呼び止められた。
「黒崎サン」
「…何?」
「今週の日曜日,暇?」
「暇だけど…何で」
「レインを引き取ってくれた友人のところに様子見に行こうかって思ってるんスけど,一緒に行きません?」
浦原の言葉は予想外で,一護は思わずきょとん,とした顔になった。
え,と目を見開いたまま浦原を見る。
「…もしかして忘れちゃった?」
「ンなわけないだろ!」
思わず勢い込んで言って,しまった,と思ったけれどええいままよ!とばかりに言葉を継いだ。
「ずっと気になってたんだけど,廊下で捕まえて聞くわけにもいかねぇし!――貰ってくれる人,いたんだ?」
胸の閊えがすっと取れたような心地がした。
ほっとした声でそういうと,浦原は笑って「今はおっきなお屋敷の広々とした庭で大事にされてますよン」と云った。
「でも…俺なんかがついて行ってもいいわけ?」
「よくなかったら誘わないっスよ」
なんでもない風に浦原は云って,吹き付ける風に目を細めた。
「…行く」
「ん。それじゃあ土曜日の夜にでもおうちに電話させてもらいましょ。夜は遅くならないと思うけど,門限とかある?」
「いちおう六時だけど,云っておけばもう少し遅くなっても平気」
「わかりました」
頷いた浦原に,一護は「電話,待ってる」と云って手を振った。
門に凭れて立つ浦原は,手を振り返してはくれなかったけれど,ずっとそこで見送ってくれていた。
角を曲がると一護は思わず空を見上げた。
朱色,茜色,橙色。
グラデーションを紡ぐ夕日に目を細め「日曜日,か」と呟く。
言葉にならない気持ちが溢れてきて,どうしようもなく走り出したくなった。
今まで踏んづけていた踵を固定するストラップを締め直し,前を向く。
そして込み上げる衝動のままに一護は走り出した。
続いてみました。まだ続きます(めいび)。
2010.06.10