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/// 003 ///



土曜日の夜,浦原から一護の家に電話がかかってきた。
夕方からこっち,ずっとなんとなく電話の前を離れず気にしていた為,鳴った電話を取り上げたのも一護だった。

「はい,黒崎です」

少し緊張し低くなった声で応えると,電話の向こうで「もしもし,」と浦原の声がした。

「…先生?」
「ハイ。黒崎サン?木曜日に云った件で電話させて貰ったんですけど,お父サンはご在宅?」
「今,風呂入ってる」
「オヤ,タイミング悪かったっスね」

耳に押し当てた電話機の向こうでくすりと浦原が笑う気配。
一護は知らず強張っていた肩から力が抜けるのを感じた。

「どうしよう。また遅くにかけなおした方がいい?」
「いや,そろそろ出ると思うんだけど…」
「じゃ,少し話してましょっか」
「うん」

うん,と云ったものの,何を話していいかわからない。
一護は電話機を持つ手が緊張のせいか汗ばむのを感じながら,それでもなんとか「先生,また学校?」と尋ねた。

「えぇ。今日は漸く当直室のクーラー業者サンが直しに来てくれたんで,午後からはゆっくり眠れて」
「…それっていいのか」
「だって他にすることもないし」
「先生,毎日学校行ってんの」
「家族がいる先生方は日直嫌がりますからね。こういうところで点数稼いでおかないと」

点数,というのはよくわからないけれど,不思議と嫌な感じはしなかった。
なので,大変なんだな,と素直な声で云うと,また電話機の向こうで浦原が笑った。

「え,何」
「大変なことなんかないっスよ。図書室から借りてきた本を持ち込んで,欠伸しながら読んでるだけだし。眠くなったら昼寝するし」
「……パンツ一枚でか」
「クーラー直ったから流石にそれは」
「あのとき,すげえびっくりした」
「うん,驚いてましたね」

くすくす笑う声が耳にくすぐったい。
一護が小さくため息を吐くと,「ただ,」と笑みを孕んだままの声で浦原が云った。

「油断してると誰とも喋らないまま一日終わっちゃうとかがね」
「え,誰ともって」
「あぁ,体育館やプールの鍵を借りに来る生徒さんとは喋りますけど,でも『ハイ』とか『えぇ』とかがせいぜいだし」
「そういうもん?」
「そういうもんス」
「だから」
「?」
「黒崎サン,もし暇ならまた遊びに来て?」

どきん,と心臓が大きく鳴った。
胸がぎゅっと痛くなって,何でか顔が赤くなる。
なんで,と自分の反応を訝りながらも,電話機に押し付けた耳から一瞬にして身体中に熱が伝播していくのはどうしようもなくて,一護はぐっと息を詰めた。

「…黒崎サン?」

コードレスの電話機から訝るような浦原の声。
一護は何か云わなきゃ,と口を開いたが,出てきたのは喘ぐような息だけだった。

そのとき居間のドアが開いて腰にタオルを巻きつけただけの格好の父親が意味不明な歌を歌いながら入ってきた。
いつもだったら顔を顰めて文句のひとつも云うところだけど,今日だけは天の助けとばかりに一護は「親父,出た。代わる」とブツ切れに言って握り締めた電話機を父親に差し出した。

「なんだァ?」
「学校の,先生。去年の担任の」

赤い顔のまま一護がそういうと父親は片方の眉をひょい,と上げ「お前,何しでかしたんだ」と云いながらも電話機を受け取った。

「お待たせして申し訳ありません。黒崎です」

自作の歌を歌うときのだみ声とはまったく違う余所行きの声で父親が応じるのを聞きながら,一護はソファの上で膝を抱えた。
食事用のテーブルに出来た料理を運ぶ妹が立ったまま電話に応じる父親と一護交互に見て,心配げな視線を向けてくる。

「お兄ちゃん,大丈夫?」
「あぁ。別になんかしたわけとかじゃねえし」
「そう?」
「おう。……明日ちょっと出かけるから,そのことで」
「え,先生と出かけるの?」

訝るような妹の声に,上手く応えられず,一護は顔を歪めた。
犬を拾ったこととか,順を追って話せばいいのだろうけど,なんでかそうしたくなかった。

「誘われたんだ」

それだけ云うと,妹はふぅん,と云った後笑顔になって「よかったね」と云った。

「よかった,って」
「だって,お兄ちゃん嫌そうにしてないし。いい先生なんでしょ?」

妹――遊子の言葉に,一護は複雑な気持ちながらも頷いた。
いい先生か,と云われれば確かにそうだ。
浦原は,なんていうか他の教員とは違う。
一護は膝を抱えたまま視線を父親の方へ向けた。
父親は磊落に笑いながら電話に応じている。
そして視線が一護の方へ向くと,電話機を持ったのと逆の手が一護を呼びつけるようにちょいちょい,と動いた。

一護は慌ててソファから立ち上がると父親の元へ向かった。
ふん,と鼻から太い息を吐き出すと同時に電話機が一護へと突きつけられる。
一護がそれを受け取ると父親は服を着るためかさっさと居間を出て行ってしまった。

「――もしもし,黒崎サン?」

ドアの向こうへと消える父親の背中を見ていると,耳に押し当てた電話機から浦原の声がした。

「あ,先生ゴメン」
「いえ,お父サンには諒解頂いたんで,明日の待ち合わせについていい?」
「うん」

思わずメモを取ろうと視線が部屋の中を彷徨ったが,そこまですることでもないか,とすぐに聞こえてくる声に意識を集中させた。

「黒崎サンちから駅前まで出るには,バスっスよね」
「あ,うん。自転車(チャリ)でも行けるけど――俺の今壊れてて」

パンクだけなら道具を買ってきて自分で直すこともできたがブレーキの効きも甘くなってきていた。
自転車屋に持ち込まなければ,と思いつつ,大概のところは徒歩で間に合うし徒歩できつければバスで向かえば用は足りる。
徒歩で十五分,乗れない自転車を引いて炎天下の中修理に行くのが面倒なのもあってそのままになっていた。

「そしたら駅前で待ち合わせしましょ。アタシ迎えに行くんで」
「え,住所教えてくれたら俺ひとりでも」
「ん,でもちょっとわかりにくいところにあるんで。時間は十時で大丈夫?」
「あ,うん」
「お父サンには先に伝えましたけど,お昼ごはんと夜ごはんはこっちで用意しますんで」
「え,それって…,その,いいの?」
「あーなんかアタシが生徒サン連れてくるって云ったら浮竹サンが――ってレインの飼い主なんスけど,――すっごく張り切っちゃって。それとレインを拾ったときにもお世話になったんだって話をしたらそれは自分からもお礼しなきゃって。――なんだか面倒な話になっちゃってゴメンナサイ」

ため息混じりの浦原の声。
学校の,多分職員室。
あのごちゃごちゃした机の上に頬杖をついて,コードレスじゃない褪せたピンク色の電話の受話器を耳元に寄せてしゃべる浦原の姿が浮かんだ。
あんまりにも簡単に想像できたものだから,小さく笑みがこぼれてしまう。

「黒崎サン?」
「あ,ごめん。ええと,わかった。待ち合わせは十時で,昼と夜のメシはごちそうになる,ってことだよな」
「ハイ」
「楽しみにしてる」

つい,だった。
つい,本音が口を衝いて出た。
云ってしまったからしまった,と思ったけれども全ては後の祭りだった。
またしても顔がかぁ,と赤くなり,何か言い繕わなければ,と思うのに口だけじゃなく喉まで強張ってしまい声が出ない。

「――アタシも」
「えっ,」
「アタシも明日,楽しみにしてますね」

電話機から聞こえる,浦原の声。
微かにノイズ混じりの,でも深い声音は,がちがちになっていた一護の身体からするりと強張りを解いた。

まだ耳や頬の辺りは熱かったけれども一護はいつもの調子を取り戻して「じゃあ,また明日」と云って電話を切った。
火照る耳朶を摘みながら電話機を充電器の上に戻し,「お兄ちゃん電話終わった?ごはんできたってお父さんと夏梨ちゃん呼んできて」と台所から云う遊子の声に「おう」と応える。

明日,十時に駅前。 九時半に家を出れば余裕で間に合うよな。
そんなことを云いながらドアを潜る。
暗い廊下に出るとどきどきどきどき,と身体の中で心臓が煩く鳴っているのに気がついた。
電話は苦手だ。そう思った。
顔を見て喋ればなんでもないことも,変に緊張してどきどきしてしまう。
変に思われなければよかったけれど。
不意に過ぎった予感に顔が歪む。けれどもそれはすぐに「アタシも明日,楽しみにしてますね」という浦原の声に掻き消され,一護はほっと息を吐いた。

早く明日になればいい。
そう思いながら父親の部屋をノックする。
食事が出来た旨を告げて,そのまま妹たちの部屋へ向かう。
午前中学校のプールへ出かけて,午後は昼寝をしてしまった為部屋に篭って課題をしていた妹は一護の声に疲れた顔で出てくると「一兄,ごはん食べた後ちょっと宿題見てくんない」と云った。
一護が応諾するとほっとした顔になり,小さく欠伸を漏らす。
自分の肩よりまだ低い頭にぽん,と手を載せると「あんまり無理すんなよ。まだ一週間あるだろ休み」と云った。

「そうなんだけどさ,やるべきことが終わってないのって気持ち悪いじゃん」

口を尖らせる妹の言葉に,一護は苦笑しながら「そうだな」と頷いた。
この辺は兄妹だな,と思った。
一護も明日出かけるなら今日は少し夜更かしをして課題を進めておこう,と考えたばかりだった。
確かにやるべきことが終わっていないのは気持ちが悪い。
それに,なんだか今日はこのまま風呂に入ってベッドに入っても眠れる気がしなかった。

「お兄ちゃーん,夏梨ちゃーん,まだー?お父さんが痺れ切らしてるよー」

台所から響く遊子の声に,二人顔を見合わせて肩を竦める。

「今行く!」

一護が声を張り上げて応じると,二人連れ立って階段を下りた。











いつもの夕食を終え,一護が食器を片付けている間に妹たちは風呂へと向かった。
四人分の食器を洗う一護の後ろで父親は片付けばかりの食卓で広げた新聞を読みながら二本目のビールを飲んでいる。

「お前,あの先生と仲いいのか」

父親の問いは唐突だった。
しかし「あの先生」というのが浦原のことを指しているというのはすぐにわかった。
一護は一瞬言葉に詰まってから「他のよりは」と曖昧な答えを返した。
髪の色のこと,そしてそれに目をつけるガラの悪い上級生や他校の生徒たちとのいざこざのせいもあって,一護の評判は校内で,というより教員たちの間であんまりよくはない。
成績がよいのと一護が自ら喧嘩を売り歩いているわけではないということから表立ってあれこれ云われることはないが,隙を見せたらどうなることかわからない,というのが現状だった。
だからどうしても教員と接するときは一歩も二歩も引いた態度になってしまう。
それに比べれば浦原とは少し,――ほんの少しだけれど距離が近い気がした。

「あの先生にはお前のアタマのことでも世話になってるからな。ちゃんと」
「は?」
「…何だ」
「や,アタマのことって何」
「あぁ,云ってなかったか。入学前,お前が制服の採寸してるとき親は説明会に出てただろ。終わった後に声をかけられたんだよ。まぁ確かにお前の頭は人目引くからな。で,地毛だって説明して,必要なら床屋の説明書でもなんでも用意するって云ったんだがあの先生は必要ないってさ。――お前,入学してからも他の教師にアタマのこと云われたりしなかっただろ」

一護が頷くと父親は「いい先生が担任についてくれてよかったな」と云った。

「俺,知らねえよそんなの」
「逆ならともかく,別に厄介なことがなかったんだからいいじゃねーか」
「そうだけど,でも…」
「明日会うんだろ?じゃあそんとき改めて礼云っとけ」

父親はそういうと手の中で缶をぐしゃりと潰しアルミ缶用のゴミ箱にそれを放り込むと「俺ァ寝るからな」と欠伸しながら出て行った。
今日も一日ごくろうさん〜と歌うだみ声を聞きながら一護はその場に立ち尽くしていた。
確かに変な視線は向けられることがあった。けれども生徒指導の教員も,風紀委員の顧問も視線をくれるだけで一護に絡んでくることはなかった。
喧嘩の傷を顔に残したときには一言二言嫌味を垂れられることはあったけれども,そのときですら髪については云われたことがない。
変に思いながらも面倒がないならそれに越したことはない,とやり過ごしていたけれど,まさかそんなことがあったなんて。

脳裏に浮かんだ浦原の面影。
背中を丸めて取れかけた釦をちくちくと縫い付ける姿だとか,質素な弁当を淡々と口へと運ぶ姿だとか。
そこについ数日前に見た姿が重なる。
汗ばんだ膚もそのままに,喉を鳴らして一息にコーラを飲む姿だとか,長い脚をだらしなく伸ばしかったるそうに煙草を吸う姿。
さんじゅうはち,と呟きながらがっくりと項垂れた姿や,本当の年齢を教えてもらい驚く一護に,口をへの字に曲げた姿だとか。

やばい,と一護は思った。
無意識だった。
やばいって,何が。
思った端から首を傾げた。
しかし自問に対する答えはなく,一護はひとり残された台所でぼんやりと時計を見た。
時刻は二十一時半を回ったところだった。
あと,十二時間後。
そう思った瞬間,かっと顔が熱くなった。

――アタシも明日,楽しみにしてますね。
なんでもない一言のはずなのに,耳の奥から響く声に,また心臓が煩くなる。
一護は顔を歪めたまま流し台に向き直るとコップに水を継ぎ喉を鳴らして飲み干した。
つめたい水が喉を通って胃の底へと落ちていく。
ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。

「おにいちゃーん,お風呂空いたよー」

ドアの向こう,浴室から妹の呼ぶ声がする。
一護は空になったグラスを流し台に置くと「今行く」と応えた。
風呂に入ろう。
そうすればこのもやもやした気持ちも落ち着くはずだ。
とりあえず,明日先生に会ったら礼を云おう。
先生はなんていうだろうか。
また口の端で小さく笑って「先生っスから」って云うんだろうか。

浦原の声を記憶の中から掬い上げた途端俄かにどきどきと煩くなった心臓を服の上から押さえて一護は顔を歪めた。
本当に,一体なんなんだろう。
なんでこんな――。

答えは出ないまま一護は何度も首を傾げながら浴室へ向かった。













忘れた頃にまた続いてみました。
ほんとはこの次の場面が書きたかったのに。
そんなわけでまだ続きます。(めいび)
2010.10.18

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