002
明かりの落とされた部屋の中,光源は壁際に置かれた薄型テレビから漏れる光だけ。
両サイドに置かれたスピーカから響く音声は深夜ということもあって絞り気味だ。
浦原は図々しくも黒崎の膝を枕に二本目のビールを飲んでいる。
この場合「図々しく」は膝を枕にしていることとビールが二本目なのとの両方にかかる。
黒崎は膝の上に感じる重みを忌々しく思いながらも,それでいてどこかで諦めている自分を自覚していた。
「……つーか何しに来たんだよ」
「云いませんでしたっけ?」
答えになっていない答えを無視するとしばしの沈黙の後,「台風の目」と囁くように浦原が云った。
「台風の目?」
「台風の目ってのは正しくは熱帯低気圧の目と云います,熱帯低気圧の雲の渦巻きの中心部にできる雲のない空洞部分のこと。台風の目の空洞の外壁となる部分は雲が壁状を成して,目の外壁であるとともに目を囲む台風のそのもの広大なうち壁でもある。形状は発達段階や雲のまとまり方,海水の温度などの諸条件によって異なってきますが,一般的には直径だいたい20〜200km,……これって差がありすぎですよね十倍とか一般のひとくくりでしていい範囲に思えないんだけど。高さは約15kmとされてます。この高さってのは地表から対流圏界面までの対流圏一杯に広がるってことっス。形成から消滅までも説明した方がいい?」
「……その前に誰が台風の説明しろっつった」
「台風の説明じゃなくて台風の目の解説ね」
「台風にも台風の目にも別に興味ねぇよ」
「じゃあなんで聞いたの?」
「お前が云ったんだろ」
「アタシは黒崎サンが聞いたから説明したんスよ?」
「俺が聞いたのは『台風の目ってのはなんだ』,じゃなくて『お前が台風の目って云ったのはなんでだ』って意味だ」
「あぁ…だったら最初からそう云ってくださいよ。そしたらアタシだって無駄な説明なんかしなかったのに」
やれやれ,と云う風にため息混じりにぼやく浦原に,殺意がわいた。
しかしこんなことくらいでいちいち手を汚していたらこの変わり者とはつきあえない。
別に好んで付き合いたいとも思わないが,大学病院に席を置く以上厚生労働省にコネクションがあって邪魔になるということはないし,いつかどこかで黒崎自身の助けとなることがあるかもしれない。
否,いざそういう局面に至ってしまったとしてもできることなら,いや絶対にコイツの手だけは借りたくない,と喚く自分を押さえ込みながら黒崎は太い息を吐く。
「また遠くに行っちゃってる」
膝の上から揶揄するような声。
放っとけ,と唸るように返すと,「寂しいから行かないで」とありえないほど気持ちの悪い台詞が続いた。
粟立つ腕を擦りながら気色悪いといいかけると,それを遮るように「アタシが台風の目って云ったのは――」といきなり話が飛んだ。
否応なしに耳を傾けさせられたのに,返って来たのは沈黙。
おい,と呼びかけようとしたとき,漸く浦原が口を開いた。
「台風の目の下は風が穏やかで,雨もほとんど降らない。青空が見えることもある。でも,目の周囲はその台風の影響下で最も風雨が強い部分なんスよ」
声の響き方がさっきまでと違っていた。
意味がわかんねぇ,と口に仕掛けた言葉を飲み込んだ。
頭の片隅でコイツといると言葉を飲み込んでばかりだ,と今更なことに気付く。
「……目が通り過ぎた後は風向きがそれまでと逆になるんだろ」
「その通り。だから,ほんの少しの間ってわかってても休みたくて」
目元を隠すように覆う筋張った手の下から覗く顔に浮かぶのは疲労。
自身が台風みたいな存在のくせに,なにそんな顔してやがる。
想いは声にならずに胸の裡で空虚に響く。
気づかないうちに強張っていた肩から力を抜き,ソファの背に埋れるように凭れる。
膝の上の重さから意識を逸らし,テレビの画面に意識を集中させた。
膝の上で浦原が身じろぐ気配。
ごろりと寝返りを打つようにうつ伏せになると,黒崎の腹を抱え込むように腕を回し頬を腹に埋めてくる。
「何の真似だよ」
「こっちの方がよく眠れる」
「ベッド貸してやるから寝るならそっち行け」
黒崎の渋い声に浦原は答えない。
寝巻きの薄い布地越しに浦原の深い吐息を感じる。
閉じられた薄い瞼。
疲労の滲む横顔。
打算だ。
胸の裡にもやもやと蟠る言葉にならないいくつもの感情をそう結論付けてねじ伏せる。
これは打算だ。
浦原に対する好意などというものは黒崎の胸の裡をどれだけ忖度しても一片も見当たらない。
大学病院に席を置く以上厚生労働省にコネクションがあって邪魔になるということはないし,いつかどこかで黒崎自身の助けとなることがあるかもしれない。
だから。
腹に触れる呼吸のリズムが少しずつ落ちていく。
休みたいというのなら勝手に休んで行け。
いつかこの借りは必ず返してもらう。
打算だ。全部打算だ。
ひとりごちるいくつもの言葉のせいで映画の台詞がちっとも頭に入ってこない。
どうせなら寝入る前にもう一杯コーヒーを淹れさせるべきだった,と黒崎は膝の上の邪魔な頭のせいで手の届かないテーブルの上,半分も減らないうちに冷めてしまったコーヒーを見遣ってため息を吐いた。
台風の目の説明をだらだらする浦原さんが書きたかったんです。
2009.10.20