001
10連勤を終え明日は久しぶりの休日,という日の夜更け。
たっぷりと長湯して寛いだ黒崎は寝巻きを下だけ身につけ上着は手に,まだ湯気の引かない裸の肩にバスタオルを引っ掛けた格好でバスルームを後にした。
冷蔵庫にはビールが二本冷えている。
翌日も出勤の予定があるときは一本だけ,と決めているが,明日は心行くまで朝寝ができる。
こういうとき気遣うべき家族がいない自分の身軽さが愛しくなる。
脈絡のない鼻歌を口ずさみながら冷蔵庫へと向かう足を,不意に鳴り響いたインタホンのチャイムが止めた。
ぴーん・ぽーん。
独特の鳴らし方はドアの向こうに立つのが誰かを窺うより先に黒崎に報せてくる。
脳裏に浮かぶのはイタリア製と思しき濃色の細身のスーツを纏った長身。
上等なのはスーツだけでなく目を凝らして見ればシャツもネクタイも身に纏うすべてがそうらしいということが知れるが,いつもどこかみすぼらしく丸まって見える猫背と注意力散漫なせいでしょっちゅうあちこちに蹴躓くという身のこなしの為その価値を台無しにしている。
浦原。フルネームは浦原喜助。
ひょろりと伸びた背の上には真冬の月のように淡い色の髪。それだけでも奉じる職にあるまじき非常識なのにいつも伸ばしっぱなしでその上寝癖なのか四方八方好き放題に跳ねている。
厚生労働省大臣官房秘書課付技官と医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室室長という身形からは想像のつかないふたつの肩書きを持つ。
伝え聞いたところに寄れば通称「ロジカル・モンスター」又の名を「火喰い鳥」。
二つ目の俗称の由来は誰ともなく言い出した「この男が通った後はぺんぺん草も生えない」という繰言に端を発しているらしい。
些か大仰な,と奴を知らない人間は云うが,黒崎自身そう嘯くには些か浦原を知りすぎていた。
この歩く傍迷惑としか云い様のない性質の悪い男と黒崎は数ヶ月前黒崎の勤務先である空座大学医学部附属病院で起きた相次ぐ術中死の調査の際に知り合った。
第一印象から強烈な,としか言いようのない対面だったが,胡散臭い,近寄るな,と云わんばかりの黒崎に対し浦原はどんな風に好意を持ったものだかことあるごとに顔を見せ迷惑としか言いようのない懐き方をしてくる。
今もそうだ。
ぴーん・ぽーん。
きっかり間を七秒ずつ空けて23回目のチャイムが鳴る。
黒崎は視線をドアから背後の窓にちらりと向け,帰宅して空気の入れ替えをした後,しっかり締めたと思っていたはずのカーテンが数センチ開いているのを見遣りため息を吐いて玄関へ向かった。
「……何しにきやがった」
ドアを開けるとゼロハリバートンの黒いアタッシェケースを提げた浦原が当然のようにそこに居た。
姿を目にした瞬間,条件反射でドアを閉じようとしたのをす,と伸びた浦原の手が止める。
「黒崎サン居留守使うなんて往生際が悪い」
「居留守だってわかってんだったら何でそうされるか察して帰れよ」
「そんなことできるわけないでしょ。乗ってきたの新幹線の最終だし」
「いくらここが地方都市とは云え駅前にはビジネスホテルだってあるだろが」
「黒崎サンに会いに来たのにどうしてホテルに泊まらなきゃいけないの?」
「お前の都合なんて俺の知ったことじゃねぇって何回云えば理解する」
「それこそ黒崎サンの都合なんてアタシの知ったことじゃない。それよりいい加減に入れてもらえません?じゃないと目を盗んで合鍵作って次からは部屋の中で待ちますよン?」
黒崎は突拍子もない浦原の言葉に度肝を抜かれ,その顔をマジマジと見た。
伸ばしっぱなしの前髪の下から覗く深い緑色の瞳はやわらかく笑んでいるがその奥に隠そうともしない本気を読み取り,がっくりと肩を落とす。
You win!
学生時代何度かゲーセンで遊んだ格闘ゲームの勝利を告げる表示が浦原の頭上に見えた気がした。
支えていたドアから手を離しさっさと部屋に戻る。
「いらっしゃい」も「どうぞお入りください」もなくても,そうすれば浦原が勝手に入ってくることを黒崎は(知りたくもないのに)知っていた。
肩に引っ掛けてあったバスタオルを洗面所に放り込み,手に掴んだままだった寝巻きを羽織る。
後ろから続く足音を振り返らずに「もてなす気なんかねぇからな」と唸るように告げた自分の声が負け惜しみのように聞こえて眉間に皺を寄せた。
クダラナイ物思いとクダラナイ応酬のせいで長湯で温まった身体がすっかり冷めてしまった。
冷蔵庫からビールの缶を取り出して口をつけるが,そのせいでちっとも美味しくない。
指先を冷やす缶を恨めしげに見つめると,傍らから伸びた手がひょい,とそれを攫っていった。
「何しやがる」
「コーヒー淹れたげる。それからコレ,お土産」
押し付けられた袋と浦原の顔を交互に見,浦原がいつの間にか上着を脱いでいることに気づく。
うす青色のクレリックシャツはそうファッションに詳しい方ではない黒崎の目にも人目で上等とわかる仕立てのよさだった。
けれども胸のポケットについた食べ零しの滲みだとか,ネクタイピンの留め方が悪いのか皺の寄った錆赤色のネクタイだとかのせいでどうにもこうにもみすぼらしい。
そんな姿を見ているうちに「お前いつの間に上着脱いだんだ勝手に寛いでんな図々しい」と喉元まで出かけた文句は諦めのため息に化けてしまった。
押し付けられた袋を手に無言でキッチンを離脱する。
ケトルを火にかける気配を感じながらソファに腰を下ろし押し付けられた袋をひっくり返すと膝の上に二枚のDVDが滑り落ちた。
「お前,コレ…」
呟く声にタイミングを合わせたかのように目の前にマグカップが差し出される。
香ばしいコーヒーの匂い。
「ほら,知り合ったばっかりの頃観たい・て云ってたじゃないスか」
それは件の術中死の原因が明らかになった直後のこと。
事後の処置の為あちこち引っ張りまわされたときに確かにそんな話をした気がする。
些細な,口にした本人ですら数時間後には忘れてしまうような他愛のない世間話。
「覚えてねぇよ」
「嘘」
笑みを孕んだ声。
睨むように目を上げると,黒崎から取り上げたビールの缶に口をつけたまま浦原は微笑っていた。
「二本分の御代は膝枕でお願いします」
「ちょっと待て。さっき土産って云わなかったかお前」
「云いましたっけ?じゃあいいや。一本はお土産で,もう一本の御代が膝枕」
「人んちのビール勝手に飲んでおいてなんて言い草だ」
「これの御代はコーヒー淹れてあげたでしょ」
ああ云えばこういう。
つーといえばかーどころじゃなくて平家物語の冒頭くらいの長広舌が返される。
普段のこいつは「ロジカル・モンスター」というより「屁理屈魔人」だ。
とは云え好い様にされるのは冗談じゃないし,譲らなければならない道理もない。
黒崎がふざけるのもいい加減にしろ,と口を開こうとした,その刹那――。
睨み付けた視線の先,浦原の口許に寄せられていたビールの缶が右手から左手へ移された。
何気ない動作に気を取られているとギシ,とソファが軋んだ音を立てる。
顔の直ぐ横にビールの缶を摘んだままの手が突かれ顎先につめたい指が触れた。
天井に設えた丸いシーリングライトの明かりを浦原の影が遮る。
そして鼻先が触れるほどの距離で紡がれたのは耳を覆いたくなるような内容だった。
「素直に膝枕を提供するのと,このままキスして押し倒して○○を××してあられもない格好で△△を□□してっておねだりさせられるのとどっちがいい?」
どっちも御免だふざけるな!
口を開こうとすると言葉を先読みしたように距離が詰められ,その都度ひゅっと喉が鳴り言葉が奥に落っこちる。
「放せ」も「どけ」も駄目だった。
「ね,どっち?」
浦原の唇から零れるアルコールの甘さを孕んだ吐息が鼻先を掠め唇に触れる。
黒崎は息を詰めたまま浦原を睨み付けた。
鋭いを通り越して険しい黒崎の視線を,浦原は悠々と受け止め更に距離を詰める。
残された距離は,ほんの数ミリ。少しでも身動ぎすると唇と唇が触れてしまう。
「…勝手に,しろ」
「勝手に?それはキスして欲しいってこと?」
「ンなわけねーだろ!」
「ちゃんと云ってくれないとわからない」
わからないわけあるか!
そう喚きたいのに更に距離を詰められて黒崎は罵倒を飲み込んだ。
「ね,云って」
間近から見つめてくる深い緑色の瞳。
甘ったるい掠れ声。
「ね,云って?」
距離がゼロになる一瞬前,黒崎はきつく目を瞑り眉間に深い皺を刻んだまま不承不承白旗を上げた。
ここんとこずっと読んでる「チーム・バ○スタの栄光」シリーズのパラレルです
長ったらしい役職持ってる官僚浦原さんと大学病院で隙間産業営む一護とか想像したらもう止まらなく…。
もう一本続きます。
2009.10.19