あみだにさした大きなの黒い傘を雨粒叩くぱらぱらという音を聞きながらウラハラは薄暗い道を歩いていた。
一護の元気がなくなることを別にすれば,ウラハラは雨が嫌いではなかった。
山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし
月も水底に旅空がある
一護の本棚から拝借して読んだ本にあった自由律詩の一節を口ずさみながら傘をくるりと回し,水溜りを避けつつゆっくりと歩く。
見上げた街灯や信号機は放つ光まで濡れそぼり,普段よりも鮮やかを増しているように見えた。
一護のアルバイト先である酒場まではウラハラの脚で30分の距離にある。
一護は普段はバスで行くという。未成年のため22時でアルバイトはおしまいだったが,週末など忙しいときは日付が変わるころまで残ることもあった。
バスが終わってしまうと一護は歩いて帰ってくる。
ウラハラは独自の勘で一護が遅くなるとわかると帰り道の途中で待ち伏せした。
道のりの中ほどまではバス通りに沿って,その後は路地を右手に入って細い道を行く。
真っ黒で毛並みのよい犬のいる家(ウラハラほどの猫になると犬如きは大した脅威ではない),庭に夾竹桃のある家(この花が一護は好きなんだという),窓に「男三十これからが勝負」と筆文字で書かれたTシャツがいつもかけられている家(アレはカーテンの代わりかなんかなのか?と一護は通るたびに首を傾げる)の前を通るコース。
店まで行くと怒る一護も,待ち伏せには寛容だった。
「なんだよ,ひとりじゃ留守番もできねぇの」
ぶっきらぼうな声で云うのに,その顔はどこか嬉しげでウラハラはいつも何も云わずに一護に擦り寄る。
冷たい頬をぴたりと押し当て,熱を分けてもらう。夜の匂いに染まってしまった上着ごとぎゅっと抱きしめる。
腕の中で一護は「苦しいから放せ」と不平を垂れながらも無理に解こうとはせずにウラハラの好きなようにさせてくれる。
もしかしたら。
猫に推測など余計な代物だったが,ウラハラは敢えて推測する。
もしかしたら,一護は嬉しかったのかもしれない。もしかしたら一護も自分のことを好きなのかもしれない。
悲観・楽観を別にして,それは幸せな推測だった。
そうだったらいい。そうじゃなくても別に構わないけど。
猫は見返りなど求めない。
したいことはする。して欲しいことはして欲しいと云う。だめなら諦める。諦められなかったら更にねだる。それだけだ。
傘を叩く雨音は強まったり弱まったり。
木の陰に入れば弱まるし,そこから出ればまた強くなる。
大きな黒い傘は二人用だ。
ウラハラひとりでは大きすぎるし一護と二人だと少し小さい。けれどもその分ぴったりと寄り添えばなにも問題はない。
ウラハラはこの傘を気に入っていた。
雨脚が勢いを増してきたので傘を真っ直ぐにさした。
傘に半分遮られた街並みを雨が叩くのを眺めながら雨に纏わる歌を口ずさむ。
「あめふり」から始まってスピッツ,北島三郎,RCサセクション,東京事変,奥田民生ときて季節はずれにもほどがある山下達郎までを,歌詞があやふやなところは鼻歌でごまかしながら,どこまでも上機嫌に。
歌った歌はどれもこれも一護が口ずさんでいたもの。一護はラジオが好きで日曜日は大概かけっぱなしにしている。
洗濯物を干すときも,昼寝のときも,すぐにくしゃくしゃになってしまうウラハラの毛並みにブラシをかけるときも。
ずっと一護の近くに居るから必然的にウラハラも覚えてしまった。でも口ずさむのはひとりのときだけ。
歌はウラハラにとって手持ち無沙汰の解消手段だった。
一護といるときは必要ない。
一護といたら手持ち無沙汰になどならないから。
そうこうするうちに黒地に緑色の刺々した文字で「Bar 空座」書かれた看板が遠目に浮かび上がった。そここそが目指す一護のアルバイト先だった。
ウラハラは雨が避けられて時間が潰せる場所,と辺りを見回して店の向かいの少し手前にあるコンビニエンスストアに目をつけた。
雑誌でも読んで時間が来るのを待とう。
腕時計をつける習慣がなかったので正確な時刻はわからなかったけれど,15分もすれば一護は出てくるはずだった。
店の軒先に入ると傘をつぼめてくるくると巻き傘立てに押し込む。
手についてしまった雫をいい加減に振って払い落とし,「引く」と書かれたドアを肩で押し開けながら店に入ると,この雨のせいか客の姿はほとんどなく,窓に面した雑誌コーナにひとり見えるだけだった。
ウラハラもその横に立ち,適当な雑誌を手に取ってページを捲った。
しかし記事の内容など頭に入るはずもなく,視線は一護の働く店の方向と雑誌のページを行ったり来たり繰り返す。
店に入るときにちらりと見た時計では時刻は22時の10分前だった。ガラス越しに映る時計を改めて確認すると22時を5分過ぎたところだった。
まだかな。
待つのは嫌いじゃない。待てば会えるとわかっているから。
迎えに来たウラハラを見て,一護はどんな顔を擦るだろう。
これは推測ではなくて想像。猫にだって想像力くらいはある。
怒った顔をするか,それともいつもの待ち伏せみたいに怒った顔のすぐ下に嬉しい顔を見せてくれるか。
早く会いたい。
ウラハラは声に出さずに一護の名を呼んだ。
しかしウラハラの期待をよそに一護は待てど暮らせどいっかな出てくる気配がなかった。
こんな雨なのに店が混んでいるというのか。
もしかしたら前に云っていた嫌いな客に絡まれているのかもしれない。
店で働くようになって半年,一護はようやくマスタの試験に合格し,水割りとロックを客に出す許可を貰っていた。
そしてその客は一護の作る酒を目当てに通ってくるのだという。
「ありがたいっちゃありがたいんだけど,なんていうかねちっこいんだよな。あの人」
愚痴など滅多に零さない一護が,あの時ばかりは困ったような顔で疲れた声でそう云った。
元からそんなに喋るほうではない一護にその客はあれこれ楽しげに話しかけてくるのだという。
学生という身分は隠しているのに,どこの学校だとか,好きな教科はなんだとか,休みの日は何して過ごすのだとか,恋人はいるのかだとか。
楽しげなのはその客だけで,一護は毎回答えに困る。曖昧に笑ったり,それとなくマスタに助けを求めたりするのだと云っていた。
しかしあくまで相手は客で,そうそう邪険にするわけにはいかない。
その客がやってきた夜は一護がすごく草臥れた顔で帰ってくるので聞かなくてもわかるまでになっていた。
ウラハラは会ったこともないその客に問答無用で嫌悪感を抱いた。
一護を困らせるヤツはウラハラの敵。
顔を合わせることがあったらどうしてやろうか。
かたちよく整えられた爪は使いようによっては武器になる。普段は一護のつくった食事を取り,一護の肌に甘噛みの痕を残すためにしか使われない歯も,同様だった。
喉笛食いちぎってやろうか。
ウラハラの目に獰猛な光が点る。
一護に飼われて随分経つが,ウラハラの本性は野生のままだった。
それにしても遅い。
お店。入ろうか。
ウラハラの耳がぺたりと横たわる。
「今度同じ真似しやがったら許さねーからな」
触れたら火傷しそうな激しい目。
怒った一護は鮮やかできれいだ。だけれども口を利いてくれなくなるのは困る。傍に置いてくれなくなるのはもっと困る。
さて,どうしたものか。
ウラハラは手にしたまま読む気のすっかり失せた雑誌を閉じるとレジスタに向かった。
「KOOL一箱。それとライタも」
店員の顔も見ずにそう告げる。
程なくしてカウンタに置かれたソフトパッケジの煙草を受け取って小銭を渡す。
一緒に差し出されたライタは,橙色だった。一護の髪と同じ色。
それだけでふわり,機嫌がよくなって店員に向けて「にぃ」と笑うとウラハラは踵を返して店を後にした。
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書いたのにupするの忘れてた。(汗)
(2006.05.18)