des jours heureux
――しあわせな日々――
*・*・*
001.
時は一月ほど前に遡る。
バレンタイン・ディ当日の夜明け前。
浦原は一人自分の城たる小さな洋菓子店で菓子作りに勤しんでいた。
洋酒を使ったボンボンに,絹のような口解けの生チョコレート。
今作ってるのはプラリネと呼ばれるアーモンドのペーストを使ったチョコレートだった。
作業場に満ちる甘い匂い。
ステンレス製のバットに並べられたチョコレートたち。三時に店にやってきて,今は午前五時。
開店まであと五時間しかなかった。
去年の秋の終わりにオープンした店は,「最愛の恋人の名を冠した店で働く」という浦原の夢が叶い,その名を「パティスリ・黒崎」といった。
しかし,そこに辿り着くまでの道のりが大変だった。
予てから独立するときは開業資金の半分を援助してくれる,という話はしていたが,店名を決める段階で恋人の眉間に壮絶な皺が寄った。
「あのな,お前の店だろ?」
「そっスよ。だからこそこの名前にしたいんです」
店の名前が綴られた紙を,恋人――一護の方へと寄せながら浦原はきっぱりと言い放った。
けれども一護は応じない。
「…遊びでやるわけじゃねぇんだぞ」
「そんなこと,十分すぎるほどわかってます」
「だったら…――こんなこと云いたくねぇけど,世間体だってあるだろうがよ」
「そんなの,アタシが気にするとでも?」
口の端に淡く笑みを刷き,どこまでも穏やかな口調で,けれども一ミリも譲るつもりはない,と頑迷に浦原は言い張った。
見詰め合うことしばし。折れたのは一護の方だった。
それは,知り合って十年,一緒に暮らすようになって七年,今までに一度としてなかったことだった。
「お前がそこまで覚悟決めてるならもう何も云わねえ。でも一応系列ってことになるんだから,親御さんにはちゃんと相談しておけよ」
ため息を吐きながらそう云った一護に,浦原は嬉しくなって飛びついた。
元から両親が浦原の判断に反対することなどありえない。
「相談」ではなく「報告」の電話をかけると,電話の向こうで母親は「あなた本当にあの先生が大好きなのね」とくすくす笑った。
仕入れなどの都合から同じ町内の駅を挟んで反対側にある実家と系列と云うことになってはいたが,ここは完全に浦原の「城」だった。
作業場の調理器具は元より,オフホワイトと淡いオレンジ色の内装も,ケーキの箱を入れる紙袋のデザインに至るまで全て浦原が自分で決めた。
実家の店先に置いたフライヤーに一護が開店祝い代わりに作ってくれたホームページのurlを載せ,後は地域のミニコミ誌の取材を受けたくらいで宣伝と云う宣はしていなかったが,口コミで少しずつ客も増え,開店して三ヶ月,店の経営は順調だった。
そして二月。バレンタイン。
一月の終わり辺りから常連客たちにどんなチョコレートが並ぶのか今から楽しみ,と声をかけられ,プレッシャな反面期待されて背筋が伸びる思いでこの日に臨んだ。
見た目の派手さよりも,味で勝負。
口の放り込むのにちょうどよい大きさと,二つ三つと口にしたときしつこく感じることのない風味,そして口溶け。
なんども試作し,一護にも協力を仰いだ。
甘党の一護は散々名店と呼ばれるあちこちのチョコレートを食べてきただけあって,浦原の気がつかなかったような助言をいくつもくれた。
ひとりの贈り主としてイベントに臨みたいという気持ちはあったが,まずはこの日を無事に乗り切るのが先,と浦原は口元を引き締めた。
三個入りと五個入り,それぞれ100ずつのチョコレートは夕方を待たずに売り切れた。
常連客は元より,初見のお客たちもなぜか揃って二つずつ買っていく。
常連客の一人に理由を聞くと,プレゼント用と自分用なのだ,とはにかみながら教えてくれた。
普段は生ケーキと焼き菓子を数種類しか置いていないため,今日限定のチョコレートを自分が味わえず恋人だけが味わうのは許せない,と云う常連客は,口調こそ冗談めかしていたが目が本気だった。
ありがとうございます,と微笑んで,浦原は紙でできた小さな薔薇の花を添えた箱を紙袋に収め客へと手渡した。
どうしても,という客のために別で取り置きしておいた二十個分のチョコレートも夜七時には全てなくなり,家路に着いたのは午後八時過ぎだった。
手に提げた紙袋を揺らさないように気をつけながら部屋へと戻ると,リヴィングに明かりがついていた。
「ただいま帰りました」
「お帰り」
リヴィングのソファに,恋人の姿があった。
ヘッドフォンをして,膝の上に置いたノート型のコンピュータのキィボードをかたかたと叩いている。
自分の声が聞こえたわけではなさそうだったが,ドアが開いた気配で気づいてくれたのか。
浦原がその場に立ち尽くしていると,モニタに向けられていた目が逸らされ,ソファの背に凭れるようにして浦原の方を向いた。
「何突っ立ってんだよ。店,どうだった」
ヘッドフォンを外しながら継がれた声に,浦原は堪らなくなってソファへと駆け寄った。
ソファの背越しに恋人の身体を抱きしめ,「完売っス。どのお客さんにもみんな喜んで貰えました」と耳元で報告する。
頭の上にぽん,と掌が載せられる感触。
そのままくしゃりくしゃりと撫でられ「よかったな」とやさしい声が滲み入るように響いた。
ぎゅ,と抱きしめる腕に力を篭めたまま目を開けた浦原は,一護の身体の向こう,テーブルの上にラッピングが解かれた小さな包が三つ並んでいるのに気がついた。
ラッピングが解かれていないものも二つある。
「一護サン,あれ何?」
「あー,貰った」
「誰に?」
「図書委員の委員長と,文芸部の部長。あとは常連」
一目で手作りと知れる拙いラッピング。
他人に向けられたものや,自分に向けられたものなら可愛らしいと微笑むこともできるが,殊更それが一護に向けられたものだと浦原は瞳につめたい光を浮かべた。
「浦原?」
一護の声に目を伏せ,そっと腕を解く。
そしてテーブルの上に置かれたコーヒーカップを手に取ると「冷めちゃってますね。新しいの淹れてきましょ」と台所へ向かった。
丁寧に淹れなおしたコーヒーと,皿に並べた焼き菓子をトレイに載せて一護の元へ向かう。
恭しい手つきでテーブルの上にマグカップと皿を並べると,一護の目がきらりと輝くのがわかった。
「浦原,コレ」
「レーズンサンドっス。一護サン好きでしょ?試作とか,いろいろ手伝って貰って本当に助かったんで,そのお礼にって昨日から仕込んでたの」
浦原の言葉を,一護は聞いていなかった。
手が真っ直ぐに皿に伸び,真っ白い歯がさっくりと焼き上げたクッキーに齧りつく。
苦味のつよい豆を挽いて淹れたコーヒーを啜って,満足げな息を吐くのを見守ると,浦原は何気ない仕草でテーブルの上に並んでいたチョコレートたちを横に置かれていた紙袋に収めた。
「夕飯の材料で足りないのがあるんで,ちょっと買ってきますね」
それだけ云うと,後ろを振り返らず真っ直ぐに部屋を出る。
仕事用の鞄に口を閉じた紙袋を捩じ込むと,浦原は財布だけ持って外へと飛び出した。
翌日,浦原は店の作業場の片隅で項垂れていた。
ものすごくみっともない真似をした,と昨日の自分の振る舞いを深く後悔していた。
くだらない嫉妬だ。
それを抱くだけではなく,露にしてしまった。
きっと,一護も呆れただろう。
何も云わないでいてくれたのは,やさしいからで,きっと内心は。
そう考えると頭を抱え込んでのた打ち回りたいような心地がした。
しかしその一方では,一護が司書を務める学校を卒業して八年。
今はもう伝手がないため,どんな少女たちが一護にチョコレートを贈ったのか調べる術もない。
昨日の夜はいっそのこと卒業生であることを盾に,学校へ行こうかとまで考えたが,一晩休んで冷静さを取り戻すと自分の考えの至らなさに只管項垂れるばかりだった。
嫌われてしまったらどうしよう。
浦原はそのことばかりを考えている。
実際のところ,昨日の自分の振る舞い自体を悔いているというよりも,なんでもっとスマートに振舞えなかったかとそのことを悔いていた。
恋人の地位を手に入れて八年。
一緒に暮らすようになって七年。
その年月は伊達ではない。
そう思おうとするのに,その端から「でも」と不安が湧いてくる。
作業台に並べたチョコレートを,一粒摘んで口へと放り込む。
市販品のチョコレートを溶かして作り直したとすぐに知れる安っぽい味。
でも,もしこの中に一護への真っ直ぐな思いが篭められているとしたら。
その思いが一護の心を少しでも揺らすようなことがあるとしたら。
とてもじゃないが,正気を保っていられる自信がない。
別の包みから摘んだチョコレートを口に放り込む。
安っぽい甘さが口の中に広がるのを感じながら,浦原は伏せた瞼の下で瞳に昏い光を浮かべた。
そして,一ヶ月後。
週末を利用して一泊二日の定期健診に出かけた一護が帰宅したのは,午後八時過ぎのことだった。
病院を出たところでかけてくれた電話で「何か軽いものを」とリクエストされ,夕食の支度に取り掛かっていた浦原は鍋の火を細めると上着を脱ぐ一護にそっと近づいた。
「お帰りなさい」
「おう」
「検査,どうでした?」
「医者がお前のこと褒めてたぞ」
「え?」
「ひとりで暮らしていたときとは比べ物にならない栄養状態,それから規則正しい生活。この調子なら百まで生きることだって夢じゃない,とよ」
苦笑しながら云う一護に,浦原は顔をくしゃくしゃにして「よかった」と囁いた。
手を伸ばして,一護の頬に触れる。
目頭が熱くなり,鼻の奥がツン,とするのを誤魔化すように天井を仰向いた。
一護が立ち上がる気配。
目が潤んでいるのを誤魔化すように,目を伏せると,伸び上がった一護がそっと目尻に唇を押し付けた。
「泣き虫」
喉を鳴らすようにして笑う声。
浦原は,「だって」と小さな声で云ったものの,それ以上何も云えなくなって一護の身体をそっと抱きしめた。
「にしても,三キロだぜ太ったの」
ため息混じりに一護が云う。
「それでもまだ痩せ過ぎだって云われませんでした?」
「云われたけどよ。これ以上身体重くなったら俺がしんどいっつーの」
お前だってそうだろ?
鼻先で囁くようにそう云われ,きょとん,としたのも束の間。
浦原は顔を真っ赤にしたまま俯いた。
一護の肩に顔を伏せるようにしたまま「あと十キロ増えたってアタシは一護サン抱え上げられますよ」と囁くと,途端に一護が噴出した。
「…なんで笑うの」
「だって,お前。流石に十キロはねえよ。下手すりゃ中年太りだぞ俺」
くすくす笑う一護に,浦原はそっと唇を寄せた。
どんな姿になったって,あなたがそこに居て,笑っていてくれれば自分はそれだけで幸せなのだ,と。
泣くのをこらえているせいで言葉にすることはできなかったけれど,精一杯の想いを篭めて,口付けた。
時間をかけて煮込んだ鶏肉と野菜のポトフに,やわらかな白パンで夕食を摂り,一護はワインを一杯だけ飲んだ。
浦原はこのあとちょっと作りたいものがあるから,と遠慮し,食事の後家を空けた二日分のメールチェックをする為ソファで仕事用のノート型のコンピュータを開いた一護にカフェオレを淹れた後,キッチンへと立った。
店から持ち帰ったグラニュー糖をガラス製のボウルに開け,中央に凹みを作りそこに水飴を落とす。
板ゼラチンを水につけ,五分ほど待つ間に,バットの底にクッキングシートを敷き,コーンスターチと粉砂糖を合わせたものを振っておく。
別なボウルに卵白を入れ,しっかりと角が立つまで泡立てる。
カシャカシャと小気味よく響く音を立てながらビーダーを使っていると,ソファから「何作ってるんだ?」と一護の声がした。
浦原はひっそりと笑みを零すと「内緒」とだけ返し,作業に集中した。
鍋にグラニュー糖と水飴,それから水を加えて120度になるまで加熱する。
それを泡立てた卵白に少しずつ加えながらビーダーで泡立てる。
糖液を加えたメレンゲが熱いうちにふやかした板ゼラチンを水気を切って加えて混ぜ,半分にはりんごのワイン煮を作ったときのシロップを混ぜ,もう半分には自家製のマーマレードを混ぜ込んだ。
そしてそれぞれをコーンスターチと粉砂糖を振っておいたバットに流し込み,冷蔵庫へ仕舞った。
モニタに向かって真剣な面持ちでキィボードを叩いている一護をその場に残し,バスルームへ向かう。
髪と身体を洗い,湯を張ったバスタブに長々と身体を伸ばしながらほっと息をついた。
冷蔵庫の中で冷えるのを待っているのはギモーヴだった。
綴りはGuimauve,英語ではMarshmallow――マシュマロ。
明日は三月の十四日。
一月ほど前のバレンタインディに対して男性がお返しを渡すホワイトディだった。
そもそもホワイトディとはバレンタインディにチョコレートを貰ったお返しに全国飴菓子工業協同組合が「ホワイトディ」として催事化したことが始まりと云われている。この辺は両親からの受け売りで細かいことは覚えていないのだが,この全飴協がキャンペーンを打つ更に何年か前に,九州にある老舗菓子屋がバレンタインディのチョコレートのお返しとして白いマシュマロを売り出したのが最初という話もあるらしい。
「週明け,先月チョコレートくれたヤツらに何か返さねえと拙いから何か見繕ってくれっか」
定期健診に行く前一護に云われ,考えた末にこれに決めた。
「学校のルールを破ってるんだから,わざわざお返しなんかしなくたっていいのに」
バスタブの中で膝を抱え,不貞腐れた声で呟く。
一護の耳に届いていないとわかるからこそ口に出せる不満だった。
もし,貰った子たちが変な期待をしたらどうするの。
一護サンはやさしいから,思い詰めた表情でやってこられたりしたら,きっと突き放したりできない。
でも,だからといって自分にそれを止める手立てがない。
何か,いい手はないだろうか。
頭がゆだるほど思い詰めても,よい案はひとつとして浮かばなかった。
濡れた頭をタオルで括り,部屋着に着替えてバスルームを出る。リヴィングへと続くドアを開けると,キッチンで冷蔵庫を覗いている一護の後姿が見えた。
「盗み食いっスか?」
背後から近づいて,腰を抱くように腕を回しながらこめかみに口付ける。
「これ,何」
「ギモーヴ」
「あー,マシュマロか」
「そ。後は切り分けるだけっスけど,見る?」
あぁ,と頷いた一護にひっそりと笑みを零して,浦原は支度に取り掛かった。
ダイニングテーブルに冷蔵庫から取り出したバットを置き,コーンスターチと粉砂糖を混ぜたものを上から満遍なく振り掛ける。
包丁にも同じものをふりかけ,三センチ角になるように切り分ける。
りんごのワイン煮を使ったものはほのかなピンク色に,マーマレードを混ぜ込んだものは皮のオレンジ色とほのかな黄色が鮮やかなギモーヴの完成だった。
「味見,する?」
云いながらマーマレードのをひとつ摘んで一護へと差し出すと,白い歯が半分ほど齧りとって行った。
残りを自分の口へと押し込んで,味を確認する。
うん,悪くない。
「美味い」
「ほんと?」
「嘘云うかよ。俺が」
「よかった」
買い込んでおいた透明のセロファンとレースペーパを使ってバットの上に残ったギモーヴへ手を伸ばす一護を横目にひっそりと笑いながら簡単にラッピングした包みを五つ,紙袋に入れる。
「じゃ,これ明日用の」
「サンキュ」
「残ったのはどうします?家に置いておく?」
「学校持ってく。明日午後からクソかったるい会議あるの思い出した」
「あはは。じゃあ瓶に詰めておきますねン」
洗って乾燥させて置いたジャムの瓶にパウダを落としたギモーヴを詰め,しっかりと蓋をする。
それをラッピングした包みと同じ紙袋に仕舞うと,すぐ傍に一護が立った。
「どうしたんスか」
「いいもんやるよ」
囁きと同時に,唇が塞がれる。
オレンジの香りがほのかにしみた舌が,ゆっくりと押し込まれ浦原の舌を絡め取っていく。
どくん,と心臓が跳ね,同時に下半身へと血が集まっていく。
浦原は慌てて一護のシャツの背を掴むと,身を離そうといた。
けれども先手を打つように伸ばされた一護の両手が,頭を抱え込むようにして支えているせいで逃れようとしても逃れられない。
頭の芯が甘く痺れたようになって,浦原は一護の背に回した手にぎゅ,と力を篭めた。
口の端から零れる吐息に,一護が淡く嗤う。
浦原は眉間に皺を寄せながら「お願い」と掠れた声で懇願した。
――これ以上,追い詰めないで。止まらなくなるから。
けれども一護は口の端を引き上げるだけで,引き結んだ浦原の唇の合わせ目を挑発するようにゆっくりと舌先でなぞった。
「やだね」
囁く声が甘い。
まるでギモーヴに混ぜ込んだ甘い甘いシロップみたいだ。
「連れてけよ,ベッド」
あと十キロ増えても抱き上げられるんだろ?
笑みを孕んだ声に,浦原はきつく目を閉じた。
解けた唇の間に差し込まれる甘い舌。耳の下を擽る手と,シャツの裾から忍び込み,背骨を辿るもう一方の手。
零れた吐息は,酒が滲みたように熱く火照っていた。
だらりと垂らした腕に力を入れ,一護の腰へと回す。
同時に腰を落とし,一護の膝裏へと腕を差込み,一呼吸で抱え上げた。
間近から見上げる一護の目が笑っている。
腕が首へと回され,再び口付けられる刹那,囁かれたのは「ざまぁみろ」とあんまりな一言だった。
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