des jours heureux
――しあわせな日々――
*・*・*
002.
こぽこぽとコーヒーメーカが立てる音を聞きながら,一護は小さく欠伸を漏らした。
仕事中はかけっぱなしの伊達眼鏡をデスクの上に置き,床を蹴って椅子から立ち上がる。
白衣のポケットに左手を突っ込み,空のマグカップを右手に給湯スペースへと向かった。
音が止まるのを待ちながら,換気扇を回した下で煙草を咥える。
一度は浦原と約束した禁煙だったが,それまでの喫煙歴が長かったため敢無く失敗に終わっていた。
それでも「節煙」は守られ,多いときは日に四,五箱空にしていた煙草の量が三日で一箱にまで激減した。
家の中は禁煙。
どうしても我慢できないときはベランダで一服。
けれども視界の端に心配顔の浦原の姿がちらつくので結局半分の吸わないうちに消してしまうことが多い。
年に二回受ける定期健診の結果も至って良好で,発作もここ一年は一度も起こしてない。
そう簡単にはくたばるか,とことあるごとに云うのだけれど,ことが自分の身にかかる限り浦原の心配性は留まることを知らない。
ベッドに誘うだけでも毎回攻防戦を繰り広げなければならないほどだ。
昨日のことを思い出し,一護は小さく笑みを零した。
なんだかんだいっても,自分自身そんな浦原とのやりとりを気に入っていた。
自分の身体を気遣い,なるべく負担にならないようにと必死に自制する浦原を篭絡するのは,性質が悪いと自覚しつつも一護のこの上ない愉しみだった。
自分を見つめる瞳の色が変わると同時に,背に回された腕に篭る力が引き離すものから引き寄せるものに変わる。
その瞬間,皮膚が粟立ち,零れる吐息が熱を帯びる。
「セーンセイ!」
司書室のドアが開くと同時に,歌うような声が響く。
一護はいつの間にか保温に切り替わっていたコーヒーメーカからサーバを外しカップへと注いだ。
白いカップにはすっかり薄くなってしまった落書き。
よく目を凝らせばそれは「I LOVE YOU FROM K」と読めるはずだった。
「黒崎先生,いないの?」
焦れたような声も無視してカップにコーヒーを注ぎきると,ようやく給湯スペースを後にした。
司書室の中をうろうろしていたのは昼休みになるとやってくる常連の女子生徒だった。
「図書室では静かにっていつも云ってるだろ」
ため息を吐きながら姿を見せた一護に,女子生徒の顔がぱっと笑顔になる。
「先生,居た!」
「だから喚くなっつーの。なんの用だよ」
「何の用って酷い!今日は何の日だか忘れちゃったの?」
「三月の第二月曜日で,午後からは恒例の職員会議がある日だな」
「セーンーセーイー?」
恨みがましい目を向けられ,一護はため息を吐いた。
揶揄ったところで面白いわけでもない。
そこをどけ,と女子生徒をデスクの前からどかすと,引き出しから取り出した紙袋から小奇麗にラッピングされたギモーヴを取り出した。
「これだろ,目当ては」
「わ…すごい!マシュマロだ。ラッピングかわいい!どこのお店の?」
「いや,作った」
「先生が?」
「ンなわけねぇだろ。うちのが作ったんだよ」
云って苦笑すると,途端に生徒の目が上がる。
「え,じゃあこれ『噂の彼女』の手作りなの!?」
「噂のって何だ。誰が撒いてやがんだそんなの」
「えー,ここに出入りしてる子はみんな知ってるんじゃない?先生が毎日持ってくるお弁当も彼女の手作りでしょ?」
云われて一護はちらりとデスクの上へと目を向けた。
そこには放っておくと平気で昼食を抜く一護の為,浦原が持たせるサンドイッチの包みがあった。
一緒に置かれた小さな魔法瓶にはスープまで用意されている。
それが浦原の手によるものだと口にしたことはなかったが,たとえ子どもでも女の観察眼は侮りがたい,と一護は小さくため息を吐いた。
「私なんかもたまに彼氏のお弁当作るけど,毎日とか絶対無理。先生ほんとに愛されてるんだねー」
なんでか嬉しそうに云う生徒に肩を竦め「メシ食うからそろそろ出て行け」と追い払った。
「もっと彼女の話聞かせてよー」
「煩ぇ。あんまり喚くと出入り禁止にすんぞ」
「何それ。横暴!ってゆーか先生!」
「何だよ」
「ちゃんと彼女にもお返ししなきゃ駄目だよ?」
「は?」
「先生がなんて云ってこれ作ってもらったか知らないけど,いくら生徒だからってきっと彼女内心じゃいい気持ちしてないよ?そこんところフォローしてあげないと」
「…貰って置いてお前が云うなよ」
「それとこれとはべーつ!バレンタインに上げたのは,いつも先生と図書館にお世話になってるお礼だもん。初めてだったんだからね!手作り」
「あーそーかよ」
「うわ,有難味がない!……でもまぁこんなの作れる彼女が居たらそんなもんかもね」
くすりと笑って,生徒がぴょんとドアから出て行く。
しかしすぐにまたひょこりと顔を覗かせると「ちゃんとフォローしなよ!」とダメ押しのように云って,ぱたぱたと足音を響かせて去っていった。
「フォロー,なぁ」
首の後ろに手をやり,ぐるりと首を回しながら一護はデスクへと戻った。
ほんの少し冷めてしまったコーヒーを啜り,デスクの端に置いたカレンダを見る。
13時から15時までが職員会議と記されている以外は空欄だった。
来客の予定も,授業で図書室を使うこともない。
仕事がないわけではなかったが,そのどれもが急を要するものでないことを頭の中で確認しつつ,一護はサンドイッチの包みを剥いだ。
時刻は二十時過ぎ。
玄関でドアが開く気配がして,一護はキィを叩く手を止め,顔を上げた。
ほどなくしてドアが開き,「ただいま帰りました」と浦原の声がする。
ドアが開くのと同じタイミングで再びキィをたたき始め「お帰り」と声をかけると,一瞬止まった足音がゆっくりと近づいてくる。ソファの背がゆっくりと沈み,唇に挟んだ火のついていない煙草がそっと攫われた。
モニタから目を離し,顔を上げると,ヘッドフォンがそっと外されこめかみに唇の感触。
そして耳元でもう一度「ただいま」と声が継がれた。
「首尾は」
一ヶ月前にもしたやりとりをもう一度繰り返す。
間近から感じる浦原の気配で,今日も一日盛況のうちに仕事を終えたことが伝わってきたが,それを浦原の口から聞きたかった。
「今日も完売でした」
「昨日のアレ,店にも出したのか」
「えぇ。お店用には季節だしいちごの味のと国産のレモンが手に入ったんで,それを使ったのを」
「ふぅん,それも美味そうだな。他には?」
「一番よく出たのは,シュークリーム」
「シュークリーム?なんでまた」
一護の物問い声に,ひっそりと笑うと浦原はそっと立ち上がった。
「とりあえず,ごはん作りますね。食べながらゆっくり話聞いてもらっていい?」
お預けを喰らった格好だったが,否はない。
上着を脱いでキッチンに向かう浦原を見送って,ヘッドフォンを被り直して再びキィを叩き始めた。
生姜醤油に漬け込んだ鶏肉を焼いたのと,新玉ねぎのサラダ。それから春菊の胡麻和えに蕪と油揚げの味噌汁。
半時間ほどで夕食の支度が整い,浦原に呼ばれた一護はコンピュータをスリープモードにするとダイニングテーブルへと向かった。
「で?」
鶏肉を一切れ,炊き立てのごはんの上にワンクッションさせて口へと運びながら尋ねると,浦原が口元を綻ばせた。
「今日来てくれたのは,店の常連のお客さんたちの旦那さんたちがほとんどで,みんな奥さんに云われて来て下さったそうなんです。あの店で買ってきて・て」
「へぇ。すげえじゃねえか」
「ね。でもほら,男の人ってあんまりお菓子屋なんかに出入りしないでしょう。だから云われた通りに来てみたものの,何を買っていいかわからずにみんな困った顔をしてて。ギモーヴはどちらかというと昨日の方が出たんスよ。いくつも買って職場や何かのお返し用なのかな。そういうお客さんが多かった。で,今日は家に帰る前に寄られたお客さんがほとんどで,ケースの中に並んだケーキをしばらく眺めた後に,揃って指差したのが」
「シュークリームか。まぁ確かにメジャだしな。どんな味かわかる分買いやすいってわけか」
「そう。でも予測もついてたんで,今日はちょっと多めに作っておいてよかった」
「どんなの出したんだ?っつーかよく考えたら俺,お前のシュークリーム食ったことねえな」
「そういうと思って,二つ持って帰ってきたんで後でコーヒーと一緒に食べてみて」
そして食後に出されたシュークリームは,ふんわりと膨らんだシューの上にさくさくのクッキーがかけられた生地にコアントロの効いたチーズクリームがたっぷりと詰まったものと,生クリームとカスタードクリームがたっぷりと詰まったオーソドックスなものの二種類だった。
どちらもボリュームはかなりあったが,クリームの甘さが控えめで食後であるにもかかわらず,一護はぺろりと二つ平らげた。
ソファに座る一護の足許に座って,腿に頬を預けたまま幸せそうに眺める浦原を見下ろしながら指をぺろりと舐め「ごっそさん」と云うと,その顔が一際嬉しそうに綻んだ。
一護はくすりと笑うと,ジーンズのポケットに手を突っ込み浦原の名を呼んだ。
「何?」
「手,出せ」
浦原が差し出したのは右手。
「逆だ。逆」
一護の言葉に「一体,何スか?」と不思議そうにしながらも素直に従った浦原の左手を手に取り,一護は手の中に隠し持った銀色のリングを,そっと薬指に嵌めた。
目に映る浦原の顔から表情が消え,一瞬の間を置いて目が大きく見開かれる。
「一護サン,これ」
「先月,美味いレーズンサンド食わせて貰ったからな」
「え,でも,だって」
云いながら浦原は信じられない面持ちで自分の指と一護とを交互に見つめた。
一護はそんな浦原を眺めながら,ポケットの中からもうひとつ同じ誂えのリングを手にとって,浦原へと差し出す。
「ほら」
「え」
浦原の指がリングを摘み,そして一護を見つめる。
一護は「酷ぇ間抜け面だな」と笑いながら自分の左手を差し出した。
浦原の手が一護の手に触れる。
指先が震えているのがわかる。
顔を見ると,今にも泣き出しそうに歪んでいた。
銀色のリングが,そっと左手の薬指に嵌められる。
同時に浦原が一護の手を握り締め,そしてくぐもった声で嗚咽を漏らした。
「何年経ってもお前のそれは直らねえのな」
云いながら空いている右手で頭を撫でると「だって」と掠れた声がした。
いつもはつめたい浦原の手。
素材に余分な熱を伝えないから便利なんだ,と云っているそのひんやりとした手が,今は嘘みたいに熱を帯びている。
手の甲に濡れた感触。
浦原の瞳から零れ落ちた涙だ。
一護は右手で浦原の頭を押さえるようにぎゅ,と力を篭めると,そのまま耳元で囁いた。
「少しは安心したか,馬鹿」
「…え,」
「くだらねぇ嫉妬なんざしやがって。それとも見抜かれてねえとでも思ったか?」
喉を鳴らして囁くと,視界で浦原の耳がかっと赤く染まる。
「ご,ごめんなさい」
そう云って慌てて顔を上げようとするのを,押さえつけるようにして遮る。
「お前だけだ」
浦原の肩がびく,と震える。
「俺には,お前だけだよ。浦原」
重ねて云うと,押さえつける力を撥ね退けるように身体を起こした浦原が伸び上がって一護を抱きしめた。
苦しいほどにぎゅ,と抱きしめられ,その力強さとは裏腹に耳元では子どものように泣きじゃくる声がする。
何度も何度も耳元で名が呼ばれ,一護は応える代わりに震える浦原の背をそっと撫でた。
絡められた浦原の指と,泣きじゃくる浦原の背を宥めるように叩く自分の指に嵌められた同じリングが,天井からの明かりを受けて瞬くように輝いていた。
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