真冬の蛍


西條 葎





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/// side I ///



12月31日。あと半時間で日付が変わり,新しい年になろうという頃。
今年最後の忘年会を抜け出して家に帰った一護は,ほろ酔いのまま風呂に湯を張るのを待つ間ヴェランダへ出て煙草を咥えた。

大学を出て四年。すっかり馴染んだたった一間きりの我が家は,禁煙と云うわけではなかったけれど一護はこうして外に出て煙草を燻らせるのが好きだった。
頬に感じるつめたい風も酔いがまだ残るせいで心地良く感じるほどで,咥えた煙草に火を点し深く吸いつけながら柵へと凭れ,空を仰いで細く煙を吐き出した。
遠くから聞こえる鐘の音は,煩悩を打ち消すという除夜の鐘だろう。
しかし除夜の鐘というのは日付が変わってから鳴らすものではないのだろうか。
日付を跨ぐようにして鳴らすものなのか?
よくわからない。が,別にどうでもいい。
つめたい柵に凭れてのんびりと煙草を燻らせていると,耳が微かな物音を拾った。

鼻を啜る,小さな音。
音のする方へと目を向けると,どうやら隣人も同じようにヴェランダで煙草を吸っているらしい。
棚引く煙が風に乗って漂ってくるのが見えた。
ヴェランダは隣室との境を石膏ボードのパーティションで仕切られているだけなので,少し身を引くとフレームとボードの隙間から隣人の姿が見えた。

伸ばしっぱなしの淡い色の髪に隠されたせいで目元は見えないが,その頬を伝う涙に,一護は思わず見入ってしまった。
柵へ肘をついて,掌で目元を拭う仕草。そして小さく鼻を啜り,ため息と共に煙を吐き出す。一度だけ響いた小さな嗚咽。

見てはいけないものをみてしまったような。胸にじわりと罪悪感が湧く。
目を逸らさなければ。そう思うのに,吸い寄せられたようになった目を動かすことができない。
けれども,こんな盗み見,不躾にもほどがある。

一護はゆっくりと一度瞬きをすると,再び柵へと凭れパーティション越しに隣人へと声をかけてみた。

「何か,あったんですか」

戸境の向こうで,身動ぎする気配。

「スミマセン,煩かったっスか」

苦笑混じりの静かな声がした。

「いや,人の気配がするなって覗いたら,その,見えちゃったんで」

声をかけたものの,なんと云っていいものか上手い言葉も見つからず,一護はたどたどしく言葉を継いだ。

「なんつーか,見なかったフリすんのもどうかって思って。その,話くらいは聞けるし。もし余計なお世話だったらアレだけど」

隣人からの応えはしばらくなかった。
一護は気まずい思いを噛み締めながら煙草の穂先に伸びた灰をエアコンの室外機の上に置いてあるキャンベルスープの空き缶へ弾き,そしてゆっくりと吸い付けた。

「実は,今日誕生日なんスよ」

ぽつり,呟くように聞こえて来た声は自嘲をはらんで掠れていた。
一護はおめでとう,と云いかけて慌てて口を噤んだ。

「昨日が仕事納めだったんスけど,日付が変わる直前に家に帰ってそのままベッドに倒れこんで気づいたらさっきで。何やってんだろ,て思ったら,去年も一昨年もそんなだったこと思い出しちゃって,そしたらなんか泣けてきちゃって…」

ふっ,と笑う気配。
齢なんスかね,と声に滲む自嘲が色濃くなる。
煙草の煙がふわり,棚引いてくるのを見つめ,一護は自分の咥えていた煙草を缶の縁で躙って消した。

「煙草,まだ残ってる?」
「え?…あ,まだ半分くらいは」
「ちょっと待ってて」

かこん,と音を立ててキャンベルの空き缶を足元に置くと,一護は部屋へと戻った。
キッチンでミルクパンに湯を沸かし,マグカップふたつに寝酒用の安ウィスキを注ぎ,はちみつをスプンに一杯ずつ落とす。
そしてお湯を注ぎ,スプンでぐるぐると掻き混ぜてはちみつを溶かすと,そのカップふたつを手にヴェランダへと戻った。

柵にもたれて,手を伸ばしてパーティションの向こうへとカップを差し出す。

「見えねえから取って」

パーティションの向こうから驚く気配が伝わってきたが,一護がそういうとカップがふっと軽くなり,一護は手を放した。
ほどなくして,ずず,と音がして,ふぅ,と息を吐く音が聞こえて来た。
一護はよし,と小さく頷き,自分のカップに口をつけると,新しい煙草に火を点し,一度吸いつけてから空を仰いだ。

 ハピバースディ,トゥ,ユー

  深夜だし,とボリュームを落とし気味にしたせいと,こんな風に誰かに歌ったのなんて十年ぶりくらいのことなので,声は変に掠れていた。
それでも途中で止めるわけにはいかず,一護は頬が熱くなるのを感じながら続けた。

  ハピバースディ,トゥ,ユー,
  ハピバースディ,ディア

   そこまで歌いかけて,隣人の名前を知らないことに気がついた。

「名前,なんての?」

一護の声に,ワンテンポ間を置いてから「浦原です」と声が返って来た。
一護はなんとなく頬が緩んでしまうのを感じながら,もう一度最初から歌った。

  ハピバースディ,トゥ,ユー
  ハピバースディ,トゥ,ユー
  ハピバースディ,ディア,浦原さん
  ハピバースディ,トゥ,ユー

空を厚く塗りつぶすようだった灰色の雲の隙間から月が顔を出し,一護は目を細めた。
パーティションの向こうから,ずび,と鼻をすする音がして,それからふわり,綻んだ声がした。

「ありがとう」
「どう致しまして」

くすぐったいような気持ちになりながら,ホットウィスキーを一口啜る。
隣からも同じようにカップに口をつける気配が伝わってきて,一護は口の端を引き上げた。

ごーーーん,と響いてくる除夜の鐘。
その音が途切れると,パーティションの向こうから隣人の声がした。

「どうしよう,なんかすごく嬉しい」
「仕事してると,あんま誕生日とか構ってられなくなるよな」
「大晦日なんて,それでなくともばたばたしてるうちに過ぎてっちゃいますしね」
「俺の友達で元旦生まれがいるんだけど,毎年ケーキ屋は休みだしごちそうは御節だし,プレゼントはお年玉で誤魔化されるって嘆いてたのがいたっけ」
「おせちとお年玉があるだけマシじゃないっスか。アタシなんて蕎麦っスよ蕎麦」
「蕎麦…美味いけどごちそうとは違うよな」
「でしょう?」

ふふ,と笑う声に,なんだかほっとする。
カップから啜ったホットウィスキーのはちみつの甘さが胸のうちに広がるような心地がした。

「ごちそうさまでした」

声と同時に,パーティションの向こうから伸びた手が空のカップを差し出した。
一護は「ん」と咥え煙草のままそれを受け取って,とりあえず室外機の上に置いた。

最後に一口吸い付けた煙草をキャンベルスープの空き缶へと投げ込み,「そろそろ部屋入るな」と声をかける。

「本当に,ありがとうございました」
「そんなしみじみ礼云われるほどたいしたことしてねって。外寒いし,浦原さんもほどほどに部屋入った方がいいぞ」
「そうします」
「じゃ,おやすみ」
「おやすみなさい」

空のカップふたつを手に部屋へと戻る。
後ろ手にサッシ戸を閉めると,一護は笑いを堪えるような顔でバスルームへと向かった。











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