真冬の蛍


西條 葎





† † †



/// side U ///



――ハピバースディ,トゥ,ユー
耳の奥に残る声に,浦原は柵に載せた腕に顔を伏せた。
胸の奥がくすぐったいような,ほっこりとぬくもるような,そんな心地を噛み締める。

三十六歳の誕生日。
目が覚めたら日付が変わる半時間前だった。
部屋の暗さに明け方前か,と枕元を探って携帯電話を引っ張りだして愕然とした。
そして,不意に笑いが込み上げてきて,ひとしきり肩を揺らして笑った後ヴェランダへと出たのだった。

咥えた煙草に火を点し,強張った頬を両手でこすった。
目を瞑るとどこからか低い鐘の音が聞こえてきて,目を開くと視界がぼやけていた。
一度,二度,目を瞬かせると頬を雫が伝った。

なんだこれ。
そう思いながら,もう一度瞬きをした。
すると,目の縁を越えた雫がまた一筋,頬を伝う。

別に悲しいわけではなかった。
思い返せば去年も一昨年も似たようなものだった。
寝過ごさなくたって,祝ってくれる恋人がいるわけでもなし,共に騒げるような友人がいるわけでもない。
他の一日と同じように巡る二十四時間を,ただだらだらと過ごすだけなのだ。

なのに,なんでか。
細波すら立たない胸の裡を余所に頬を伝う涙は止まらず,浦原は半ば呆れた気持ちでそれを拭った。

「何か,あったんですか」

隣室のヴェランダとを区切る石膏ボード製のパーティションの向こうから声が聞こえて,思わず肩が揺れた。

パーティションはフレームとボードとの間に少し隙間があって,そこへ目を向ける,こちらを窺う申し訳なさそうな顔が見えた。
背後の窓から零れる明かりに照らされた鮮やかな髪色には覚えがあった。
寝ぼけたままゴミを出しに行くときに何度かすれ違ったことがある。
そのときに小さく会釈をするくらいしか接点はなかったけれど,なんで声をかけてくれたんだろう。

そんなことを考えながら「スミマセン,煩かったっスか」と詫びると,困った風な声が返って来た。

「いや,人の気配がするなって覗いたら,その,見えちゃったんで」

見なかったふりで部屋に戻ってしまうこともできただろうに,どうやら律儀な性質らしい。
好意なんてものを久しく他人から向けられたことのなかった浦原は,正直どう応じたものか途方に暮れていた。

「なんつーか,見なかったフリすんのもどうかって思って。その,話くらいは聞けるし。もし余計なお世話だったらアレだけど」

なんでもないです,そう云って部屋に戻るのが一番だろう。
けれども,たどたどしく継がれた声がまるで密閉されたビニル袋の中で窒息しそうになっているところに開けられた穴のように感じられて,気づくと浦原は酸素を求めて喘ぐかのように口を開いていた。

「実は,今日誕生日なんスよ」

そんな風に云って,事情を簡単に話した。
言葉にすると,自分でも呆れるくらいばかばかしい話で,こんなことを云ったらきっと呆れられてしまうに違いない。そう思った。
けれども隣人から返ってきたのは「煙草,まだ残ってる?」というまったく予想しなかったもので,浦原がはい,と答えるとほどなくして湯気の立つマグカップが差し出された。

戸惑いながらも受け取って,香りに誘われて口をつけるとコーヒーではなくホットウィスキィだった。
はちみつが溶かされているのか,舌に甘い。そして何よりも温かく,ぼーっとしているうちにすっかり冷え切っていた浦原の身体を内側から温めてくれた。
そして浦原がそのぬくもりを噛み締めていると,小さな咳払いが聞こえて歌が。

――ハピバースディ,トゥ,ユー
高くもなく,低くもなく,少し掠れたやさしい声だった。
歌の途中で名を聞かれ,「浦原です」と応えると,最初から歌いなおしてくれた。

部屋は隣り合っているものの,今まで一度も話したことすらないのに。
なんでこんなやさしくしてくれるんだろう。
耳に響くやさしい声に耳を傾けながら,浦原は両手で包み込むようにして持ったホットウィスキィのカップから伝わる熱が全身へと広がっていくのを感じていた。

一分にも満たない短い時間。
けれども,余韻は今も残っている。
口の端に咥えた煙草の煙すら甘く感じられるのに,どうしようもなく頬が緩んで,浦原は笑み崩れた。

頬を伝った涙は,もう跡すら残っていない。
ぬくもりと甘やかさだけがひたひたと満たしている。
衝動のままに笑みを漏らすと,今更なことにひとつ気がついた。

自分の名は告げたけれど,彼の名前を聞き忘れてしまった。
わかっていることと云えば,鮮やかなオレンジ色の髪をしていること。
自分と同じくスモーカであること。
礼儀正しく,そしてやさしいひとであること。

また,こんな風にここで話すことができるだろうか。
会えたら,次こそ名前を尋ねよう。
ドアの前に掲げられたプレートを見れば知ることはできるけれど,どうしてかそれをしたくはなかった。
もし会うことができたら今日のお礼を云って,できることなら今度は自分がコーヒーをご馳走したい。

親しくなりたい,などと図々しいことは望まない。
ただ,幸運にも得られた接点を大切にしたい。

耳の奥に残る,やさしい歌声を反芻しながら,空を仰ぐと,分厚い雲の隙間からほの白い月が顔を覗かせていた。