So Far


西條 葎





† † †



午前四時過ぎ。
明け方まではまだ遠い,深い夜に満たされた部屋の中,枕元に置かれた小さなボリュームで曲を奏でる。
Blackbird.
メロディを耳が拾うなり,眠りから覚めるより早く一護の手は枕の下に半分埋もれるようにして置かれていた携帯電話を引き寄せた。


『……一護,サン?』


ゴメンナサイ,起こしちゃった?
申し訳なさそうに響く声に,一護は喉の奥で唸るようにして「や,へーき」と答えた。


貼りつく瞼を手の甲で擦って,手を伸ばしてベッドの下に転がしてある目覚まし時計を掴む。
暗闇の中緑色に発光するバックライトに照らされた時刻は04:21だった。


「――おはよ」


寝起きのかすれ声で尋ねると,電話機の向こうでどこかほっとしたようなひっそりと笑う気配がする。
また,眠れなかったのか?とか,何してたの,とか浮かんでくる疑問を込み上げた欠伸と一緒に飲み込んで一護はいつもと同じ台詞を口にした。


「散歩する?」


電話機の向こうで一瞬の沈黙。そして「起きられる?」と気遣うようなやわらかな声。
一護は頷きながら「30分後にいつもんとこでいい?」と返す。


「寒いから,あったかくしてきてくださいねン」
「ん」


じゃあ,また後で。
浦原の声が途切れ,電話機が沈黙する。
一護はぱたん,と携帯電話を閉じ,毛布の中でうん,と伸びをするように身体を伸ばすとのそのそと起き上がった。
パジャマを脱いでジーンズと長袖のTシャツを着込む。
明け方前の空気はひんやりと冷たく,ぞわりと鳥肌が立ったがそれを無視してぞんざいに服を纏っていく。
Tシャツの上にフード付のパーカを着込み,しばし迷った末に首元にマフラをぐるりと巻きつけた。
去年のクリスマスに浦原から貰った縞模様のマフラ。


パーカのポケットに携帯電話と財布,それから家の鍵を突っ込むとやわらかなウール地に鼻先まで埋めるようにして,そうっと部屋を出た。
家の中はしん,と静まり返っている。
父親も,双子の妹たちもぐっすりと眠っているようだった。
一護は後ろ手に部屋のドアを閉め,明かりのともらない廊下の静寂にじっと耳を済ませた後足音を殺して階段を降りた。
玄関で靴を履き,息を詰めて玄関のドアを開ける。
最大限の注意を払って鍵を回し,かしゃん,と小さな音を立てて錠が落ちるのを確認した後,まだ暗い通りへ足を踏み出した。


つめたい空気に身を竦ませながらポケットから小さなミュージックプレイヤを引き出してイヤホンを耳に差し込む。
赤い小さな本体をヨットパーカの襟元に止めて再生釦を押すとピーター・ガブリエルの掠れた声がじん,と滲みるように耳から全身に広がっていく。
一護が生まれるずっと前の音楽。
so,というこのアルバムは1986年に発表されたものだという。
浦原の店の奥にある茶の間で宿題をやっているときにちょうどかかった曲に顔を上げて耳を傾けていたら浦原がそう教えてくれた。
「もう一回」とねだって同じ曲を最初から繰り返して聴かせて貰った。
その日の帰りしな「よかったら持って行く?」と渡されたCDのプラスチックケースにはどこか遠くを見るような目をした男の写真が印刷されていて少し青みがかっているせいかちょっと不気味に見えたのを覚えている。
でも,曲はどれも耳に心地よかった。


in your eyes
the light the heat...


たどたどしいながらも漸く聴き取れるようになった歌詞を小声で口ずさみながら一護は歩幅を大きくした。


浦原との待ち合わせは一護の家から歩いて10分ほどのところにある公園だ。
ぽつん,と点る水銀灯のしらじらとした明かりに照らされた公園は朝や夕方に見るのよりもずっと寂しげに見える。
山吹色の柵を跨いで公園内に足を踏み入れ,早足で遊具のある区画を目指す。
木立を抜けてがらん,と視界が開けると,ブランコの傍にほんの少し猫背の人影を見つけた。


ミュージックプレイヤのスイッチを切ってイヤホンを耳からはずして首にひっかけると,たん,と地面を蹴って駆け出すと,その音を耳で拾ったのか咥え煙草の人影がゆっくりと振り返った。


「ごめん,遅くなった」
「全然」


シャツの上に薄手のコートを羽織った浦原は目を細めて一護を見,そして口の端をふわりと綻ばせて笑った。


「マフラー」


嬉しそうな声音に,一護は頬がふわ,と熱くなるのを感じた。


「寒くない?」
「あったかい」
「よかった」


一護は照れ隠しに俯くと,足元に蟠る影をじ,と見つめ,それから大股に浦原に歩み寄った。
わざとぞんざいな仕草でブランコを取り囲む草色の柵を跨ぎ,浦原のすぐ横に寄りかかる。
浦原は唇に咥えた煙草を左手で摘んで,ポケットからステンレス製のタンブラを取り出した。


「コーヒー飲む?」
「うん」


手渡されたタンブラの中には熱々のミルクコーヒー。
ぱちん,と蓋を開けてそっと口をつけると香ばしいいい匂いが鼻先を擽った。


「音楽,聴く?」


首に引っ掛けてあったイヤホンの片方を差し出すと,浦原が頷いてそれを受取った。


「何聴いてたの?」
「ピーター・ガブリエル」
「mercy street?」
「いや,in your eyes」


水銀灯の寂しい明かりの下,身を寄せ合って小さな声で言葉を交わす。
斜交いに並びあっているため二人して右側の耳に差し込んだイヤホンからは寂しげな曲の最後のフレーズが響いていた。


「シャッフルにしてるから次何がかかるかわかんないんだけど」


続いて聞こえてきたのはがさついたギターの音。
浦原が何?と目で問うてくるのに,一護は「アシッドマン」と答えた。


視線を落とした浦原が膝の上に置いた指先で小さくリズムと取るのを見ながら一護も耳を澄ませた。







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