in fragments


001



§・§・§



明かりも音もない静まり返った部屋の中,一護は自分の身体の中から響く濁った音を聴いていた。
シャワーを浴びたきりろくに拭いてもいない髪を伝ってバスローブの肩へと滲みるつめたさに背筋に戦慄くような悪寒が走る。
身体の節々は重苦しく痛み,喉は塞がったように腫れている。
典型的な風邪の諸症状。そんな中立て続けに舞い込む仕事のせいで体調は坂道を転がるように悪化の一途を辿っていた。

それでも仕事に穴を開けるわけにはいかない。
一護はベッドサイドへのナイトテーブルの上,色とりどりの紙片に埋もれた煙草のパッケジを手探りで見つけ出すと箱を揺すって飛び出た一本を引き抜いて口の端に咥えた。
そして今度はライターを探すため,数枚の紙片が床へと落としながら手元に引き寄せ,顔を傾けて煙草の穂先に火を点す。

悲鳴を上げる気管支を踏み躙るように深く吸い付けると,発作的に込み上げた咳を無理矢理堪えて顔を顰めたまま立ち上がり,羽織っていたバスローブを肩から落とした。
クロゼットにずらりと並んだ同じ型のスーツの中から一着を引き出し,ベッドの上へと放る。
シャツへ袖を通し,スーツの下だけ身につけ,ベルトを留める。
靴下を履き,靴へと足を突っ込み,襟を立ててネクタイを回し,灰皿へ灰を落とす。

ネクタイの結び目はセミ・ウィンザーノット。
何も考えずとも,指が勝手に動いて結び目を調える。
ジャケットを羽織り,コートを腕に抱えるようにして持つとここまででちょうど咥えた煙草がフィルタから数ミリを残して燃え尽きるのが常だった。

濡れた髪はぞんざいにタオルで水気を拭った後,両手で後ろへと撫で付け,長く伸びた後ろ髪だけを細紐でひとつに括った。
短くなった煙草を最後の仕上げとばかりに深く吸いつけフィルタの付け根に引かれた線ぎりぎりまで火種が迫った吸殻を灰皿へ押し付け,ナイトテーブルに立てかけてあった一振りの刀を手に,一護は寝室を後にした。

寝室同様,明かりを点さないままリヴィングを横切る。
鎧戸を締め切っているせいで見ることは敵わないが外は雨。
また風邪が悪化する,と当たり前な考えが脳裏を過ぎったが,ため息ともつかない息を吐くうちにどうでもよくなった。

ドアに施錠し,螺旋階段を降りる。
カツン,カツン,と物寂しい足音を響かせながらよく云えば趣のある,悪く云えば古びたアパートメントの螺旋階段を下りるとドアに嵌めこまれた鉄枠のついた硝子越しに呼んでおいたタクシーが待っているのを確認して外へ出た。

数日前の天気予報では「春の嵐」と云っていた雨は止むことなく今日も世界を閉ざすかのごとく降り続いている。
エントランスから伸びる石畳を足早に抜けてタクシーの後部座席に乗り込むと,昨日とも一昨日とも違う運転手なのに「この雨には本当に参りますね」と同じ話題を振られた。
脚の間に立てた刀は運転手の目にはステッキか傘か図面を入れる細長いケースか兎に角人目を引かないありきたりのものに見えているはずだ。
そういうめくらましが施されている。

一護は運転手の言葉に曖昧に頷いて目的地を告げた。
煙草を吸いたかったが窓硝子にはこれみよがしに「禁煙」のステッカが貼られている。内ポケットに伸ばしかけた手を引き抜いて,諦めの息を吐いてシートに深く背を預けた。

半時間ほどで目的地に辿り着き,一護は取り壊しを待つ傾きかけたビルの前でタクシーを降りた。
こんなところで?と怪訝な顔をする運転手は一護が支払った高額紙幣を受け取り釣りはいらない,と云うと満面の笑みで一護を送り出した。
雨で出歩く人も少なく,稼ぎが少ないらしい。
これもまた昨日も一昨日も繰り返したやりとりだった。

ありがとうございました,という声を振り切るように外に出て,立入禁止の札の下がるドアの前,張り出した庇の下に佇んだ。
漸く咥えた煙草に火をともす刹那,喉が痙攣し激しく咳き込んだ。
冗談じゃねえ,と目尻に浮かんだ涙を親指の腹で拭って構わず火を点す。
視線はビルの向かい,細い一方通行の通りを挟んだ向かいにある公園へと向けたまま,深く煙草を吸い付ける。

首の後ろがざわつくような感じ。
まだだ。
そう判断し,眇めるように目を細めて雨の向こうの気配を探る。
咥えた煙草が半分の長さになるころ,首の後ろのざわつくような感じが様子を変えた。
ちりり,と神経を焼くような――というのが一番近いだろうか。
一護は惜しむように煙草を深く吸いつけ,そのまま雨の中へ吸殻を放り投げると,それが弧を描いて水溜りに落下するのと同時に足を踏み出した。

細身の黒いスーツもネクタイも羽織ったコートも黒。中に着込んだシャツだけが白い。
タクシーのルームミラー越しに寄越された運転手の視線には雨の夜更けに急遽呼び出されたサラリーマンにでも映ったはずだ。
そしてその印象は間違いではない。これから向かう先は「現場」でこなさなければいけない「仕事」があった。

髪に,肩に雨が滲みこんで行く。
けれども意識は向かう先で膨らんでいく「気配」に集中し,最早寒気すら感じなくなっていた。
手にした刀軽く揺すると,ほどこされためくらましが解け本来の姿を顕した。

刀身も鍔も柄も黒一色の一振りの刀。
銘を「斬月」という。
右手で柄を握り,一護は雨の中駆け出した。

膨れ上がる気配が雨煙の中実体を伴って顕現する。
「それ」を呼ぶ名は世間には知られていない。
人を喰らう化け物。虚無の化身。一護たちの組織では「虚(ホロウ)」と呼んでいた。

世界は人だけのものではない。
動物が居て,植物が在って,そして名を持たぬ者が存在する。
人とは違う理を生きる者たち。
彼らは生きとし生けるもの全ての「生命力」を得ることによって存在する。
人を狩る存在として迫害された時期もあったというが,あるときを境に彼らの中にも自治が生まれ人と共存するための秩序を持つようになった。

彼らは人を喰らわない。
無用な争いを避けるため数多の人間たちから少しずつ影響のない程度に生命力を得て生きている。
そうやって人に紛れて暮らす者たちとは異なる,本能のままに人を狩る存在。それら「虚」を狩るのが一護の仕事だった。

鉄の武器でも鉛の弾でも「虚」を倒すことは敵わない。
手にした一振りの刀は斬魄刀と呼ばれ特殊な鍛えられ方をしそれを可能にする刀だった。

雨に濡れて佇む一護の前に,虚が顕現する。
闇夜に浮かび上がる白い膨れ上がった巨体。
生物で云うなら顔と呼ばれる部位には深海魚のようなグロテスクな仮面があった。
そして胸の辺りに吸い込まれそうな漆黒を満たした孔が開いている。

削りの甘い金属と金属を擦り合わせるような不快な音が轟き,虚が身体を震わせた。
一護の存在に気付いたらしい。
仮面の奥の瞳が獲物を見つけた歓喜に深い紫色に輝く。

戦闘本能とも云える昏く熱い塊が背筋を伝って脳天へと突き抜けようとしているのがわかる。
全身の細胞が狂喜し,無意識に口の端が引き上がる。

虚が身体を震わせると鋸刃のついた鞭のような触手が一護目掛けて何本も伸ばされた。
それらを掻い潜り,距離を詰める。
仰け反るように虚が仰向き,仮面の下に開いた口から光弾が飛んでくる。
膝を深く曲げ,跳躍することでそれを避け,光弾の影から飛んできた触手は斬月を一閃して切り落とした。

虚の口から音ならぬ絶叫が響き,何発もの白光弾が一護へ向けて放たれる。
避けるのはそう難しくはないが,これでは距離が詰めにくい。
一護は石畳の上でのたうつ本体と切り離された触手を掴むと虚の仮面目掛けて投げつけた。

仮面にぶち当たった触手はずるりと滑って虚の本体に触れ,そこかしこから伸びた細い触手に巻きつかれ吸収されるように再生されていく。
餌である一護に反撃されたことへの,怒りの咆哮。
そこに出来た一瞬の隙を一護は見逃さなかった。
地を蹴って虚の背後に回り込み,怒りに燃えた虚が首を巡らせる暇を与えず跳躍し頭上から一刀両断する。
ずぶずぶと斬月がめり込む感触。
裂け目から青白い光が溢れてくる。
広場を包み込む闇が虚の身体から溢れる光に塗りつぶされた。
けれどもそれも,一瞬のこと。
人の身では決して拾うことの出来ない,それでいていつまでも耳に残る断末魔の絶叫を残し虚は消失した。

再び闇に沈んだ広場に佇み,一護は斬月を濡らす虚の体液を雨で洗い流した。
空を仰ぐと,黒灰色の雲から絶え間なく落ちる雨が顔を伝った。

胸が大きく上下する。
呼吸が乱れ,寒気が戻って来る。
一護は大きく息を吸い込むと斬月を提げるのと別の手で顔を拭い,公園の外へ向けて歩き出した。

ずぶ濡れの一護を見てタクシーの運転手は露骨に顔を顰めた。
一護はスーツのポケットからマネ・クリップを取り出すと二枚の高額紙幣を引き抜き,それを運転手に突き出しアパートメントの住所を告げた。

暖房で温められた車内の空気に触れ,寒気が更に際立つのはどうしようもないことだった。
けれども歩いて帰るには距離があるし,体力も限界に近かった。
タクシーを降りて二時間前に下った階段をのろのろと昇る。
途中何度か激しく咳き込み,足が止まった。
それでも何とか四階の部屋まで辿り着き,三箇所の鍵を開けて部屋に入ると一護はそのままの格好で風呂場へ直行した。

服を着たまま頭から熱いシャワーを浴びる。
寒気が完全に引いていくことはなかったが,辛うじて息がつける程度になるとそのまま服と靴を脱ぎ,バスタブに栓をした。

スーツを脱いだところで力つき,シャツはそのままでバスタブに座り込み,手探りで排水口へと栓を押し込んだ。
頭の天辺から降り注ぐ熱い湯に打たれながら,一護は何度も咳き込んだ。
バスタブに湯が満ちる頃,漸く咳が収まり,一護はバスタブの縁に頭を凭れさせ身体を伸ばした。
そして湯の中で鉛が詰まったように重たい腕を動かしてシャツを脱ぐ。
水を吸い込んで重くなったシャツを丸めて,脱ぎ捨てたスーツの上へと落とした。
びしゃり,耳が拾った音に斬月に切り落とされた触手が立てた音が重なった。

ここまでは届かない雨音を思い,一護はため息を吐いた。
いつになったら止むんだろう。
早く止むといい。
止んでくれ。
こんな弱った身体で毎晩ずぶ濡れになって仕事をしていたら,治る風邪も治らない。

しかし,一護が雨を嫌うのはそれだけの理由ではなかった。
閉じた瞼の裏,遠い昔に塞がった筈の今はもう見えない傷口がじくりと痛むような心地がした。

Phantom pain.
わかっている。
けれども「くだらない」と切って捨てることのできない痛み。
瞑った瞼の裏に浮かぶ面影は,色褪せた写真のように細部がおぼろげになってしまっている。

かあさん。
唇が動いても,音は結ばない。
ゆず。かりん。親父。
全てを喪って,なのに自分だけが残っている。

――止めなさい。自分を哀れんで何になるの。誰が選んだことなの。それはキミ自身に他ならないでしょう?

耳の奥に蘇る声。

「煩ぇよ」

罅割れた声が,湯気に曇るバスルームに響く。
身体がボロボロなんだ。そんな時くらいいいだろうが。

目を開けると,天井のまるい明かりが瞳を焼いた。
傍にいないくせに,記憶の中でまで説教臭い。
再び目を瞑ると,瞼の裏に浮かんだのは愛しい家族の面影ではなく,真冬の月のような淡い色の髪に深い翠色の瞳を持つ男の姿だった。