Happy birthday to...
ユンケル・ロイヤル
* * *
交差する視線。
その翠色の眼を見返すのは二度目。
男は一護にとって標的でしかない。……はず、だった。
「えっと、キミは藍染サンの私兵の子っスよねぇ?商売敵のアタシを殺しにわざわざこんな辺境まで?」
向けられた銃口など眼中に無いといった穏やかな微笑で、浦原は射殺さんばかりの眼光で自分を睨め付ける刺客を見詰め返した。
黒いジャケットに黒い革手袋。
手にしたサイレンサ付きの銃も艶のない黒。
黒ずくめの彼のその髪だけが燃える夕焼けのような鮮やかな色彩で、ロッジの静けさの中に浮かび上がる。
7日間で地球を2周半する程の移動距離を記録した激務の後、纏まった商談の後始末を部下に丸投げし、麓のホテルから車で小一時間ほども離れた小さな山小屋に浦原が引き籠もって4日。
ボスである老翁からの叱咤の電話も、浦原の身の安全を案じる部下の気遣いも適当にあしらって、久しぶりにたったひとりでだらだらと過ごした。
食料は部下である大男が保存の利く厳選素材を大量に仕入れてくれてあったし、眼を通す雑誌や書物も充分に用意してある。
PCと衛星携帯と電源さえあれば、大抵のことは事足りる御時世。
ヘルシンキから遠く、フィンランドの山中では初夏と云っても夜の冷気は侮れない。
浦原は寝室を使わずに、夜は火を入れた暖炉の傍で本を読んだり、焙ったマシュマロでクッキィサンドを作って食べたりと気忙しい日常では出来ないことをしてやり過ごし、日中は陽が南中するまで眠って眼が醒めたらロッジの周りをぶらぶらと散歩したり、南側にある湖の畔で昼寝をしたりして過ごした。
本当は2、3日目で今、浦原に銃を向ける彼が訪れてくれるだろうと思っていたのだけれど、彼がやってきたのはそろそろここでの怠慢な生活にも飽きてきた4日目の夕暮れ。
勝ち気そうな眼に似合わず、用心深い性格らしい。
兵士として用心深いのは、勇敢なことよりも美徳だけれど。
西日の差し込むフロアの絨毯を踏んだ彼が、銃口を浦原の眉間に留めたまま口を開いた。
「商売敵って、何だ?」
声は彼のその外見を裏切らない程度に若い。
もしかしたら未だ十代の域を出ていない少年兵。
武器商人として数多の戦場を渡り歩いてきた浦原は、眼の前の彼よりも幼い子供達がその躯よりも大きな銃を担いで躊躇いなく引き金を弾く様を知っている。
そして、それら多くの子供達を先導しているのはぎらついた眼をした権力欲に取り憑かれた大人達であることも。
「アタシが、藍染サンの商売敵。ってこと」
ぎゅ、と彼の眉間に影。
その琥珀色の眼にぽつ、と灯った色は怒りの色をしていた。
「ふざけんな。あのひとはテメェみたく汚い商売はしねぇ」
「戦争の道具を売るのに綺麗も汚いもないでしょ?」
「少なくともテロリストにミサイルを売ったりしねぇよ」
「ふぅん…キミ、知らないんスか」
意味深に口元を引き上げた浦原に、怪訝な表情を押し殺そうとして失敗した一護が眼で問うた。「何を?」と。
黒い革手袋に包まれた指先は、トリガにかかったまま。
「あのミサイルは囮ですよ荷揚げ先の港を特定する為のね。今頃アタシの部下がその港を特定して、その港にある同国行きのコンテナを押さえてるはずだ。そのコンテナには、何が入ってると思います?」
「………狂信者どもの呪いグッズ?」
「ぶっぶー、近いけどハズレ。じゃあ第一ヒント……2メートル×30センチの円筒形の筒がぎっしりッス」
「知るかよ、ンなこと…」
苛ついた仕草で一護が銃口を振って先を促す。
意外に短気な一面を発見、と浦原はますます笑みを深める。
「キミのボス、10日前に発電用の機材を買い付けてヘリに取り付ける好感度センサと一緒に納品してるでしょう」
「なんでテメェがんなこと…」
「知ってますとも。そのセンサだってホントはウチからお買い上げ頂く予定だったんスから。お客様横取りされちゃって、アタシボスから大目玉だったんですよー?キミも見たことあるでしょ、ウチの小煩い爺サン」
大袈裟に方を竦めて見せた浦原に、醒めた視線が突き刺さる。
「……で、ソレが入ってるコンテナの封印ロゴ、キミのボスの指輪と同じ紋章がついてるんですよ。因みにその発電機材の納品相手は仲介人でバックにアタシの商品を買ったヤツらの仲間がいます。それで、その機材ってのがね問題でして……ソレ、二年前にアフリカでIAEAの査察団が見失ったウラン235用の遠心分離器だって知ってる?」
「デタラメを、」
云うな、と継がれた地を這う声色。
オレンジの髪が怒気を孕んで逆立つ錯覚。
客観視すれば一触即発の空気の中、浦原はうっとりと眼を眇めた。
「デタラメなんかじゃ無いっス」
「テメェ等の…小細工だろうが!」
「まさか。そんなことして何の儲けがあるってンです?大体ね、キミが藍染サンをどう思ってるのか知りませんけど、あの人の方がアタシ何かよりもずっと悪質っス。こんな可愛い子にヒトゴロシさせて…」
「今日、俺が来たのはあの人の依頼じゃねぇ!つか可愛いとか云うな!」
怒号と同時に銃声。
威嚇の弾丸は、浦原の髪先を掠めて暖炉の上にあったランプを砕いた。
「じゃあ、このあいだドバイでウチのボスを狙撃しようとしたのもキミの独断?」
業界屈指の闇商人である男は、己に当たる弾丸は存在しないとでも思っているのか一護の放った銃弾など微塵にも気に留めない様子で小首を傾げてみせる。
指摘された事項に、一護は唇を噛んで口を噤んだ。
7日前、一護は浦原の組織のトップを狙撃するはずだった。
だがそれは一護の雇い主である藍染が、是と云って明確な命を下したわけではない。
藍染は何時ももっと曖昧な表現で一護を促した。
『誰某が邪魔なんだ、一護どうしたらいいかな?』
『一護、キミの家族を死に追いやった武器が憎いだろう?それを売り歩いてるヤツらを見つけたよ』
『あの人物さえいなれば僕はとても仕事がやりやすいんだけどね』
『キミの妹達が生きていたら、今のキミを誇りに思うだろう』
山本元柳斎の狙撃に関しても、藍染はただ「彼が兵器運搬界の傀儡師、彼さえ引退してくれれば世の中はもっと円滑に廻る」と困った様な顔で笑っただけ。
一護にライフルを差し出したのはその脇に控えていた顔色の悪い男。
男は何も云わずに一護にケース入りのライフルを手渡し、一護もいつものように何も云わすにソレを受け取った。
そうして、一護は一月半の時間を掛けて標的の動向を探り、忍耐強く周到な策を練った。
射程ギリギリからの狙撃、外さない自身はあった。
なのに、あの日、照準機の中に車から降りた老人を収めた、と思った瞬間、今一護が拳銃を突き付けている眼の前の男が割り込んできた。
ち、と舌を打ったそのとき、男は一護の方を向いて笑ったのだ。まるで、一護の存在を知っているように。
驚きに眼を見開いた一護がトリガの指をほんの少し弛めると、男はまるでタイミングを計ったように片目を瞑って見せた。
―――バレている。
一護の顔から血の気が引いた。
弾かれたように照準機から眼を離すと、一護は頭から被っていた対赤外素材の外套をかなぐり捨てライフルをバラし、銃身を弾ごと製図用のアジャストケースに突っ込んで建設途中のビルの階段を駆け下りた。
標的から、ココまでの距離は約700メートル。
どうしてバレた?
何故、此処から撃つと?
ぐるぐると纏まらない思考のまま、一護は市街地を行くバスに飛び乗ったのだった。
あの時、照準機の中から確かに一護を見返した緑色の眼。
距離的に見えるはずはないということは理解しているが、それでも確かにあの時、この男は一護の存在を知っていた。
そしてその眼は今、確実に一護を捕らえ微笑すら浮かべている。
「アンタのボスは、戦争屋に餌を与える悪趣味なジジィじゃねぇか」
苦い物を吐き捨てるように発せられた言葉は、浦原の問いへの答えではなかったが銃を構えた暗殺者である少年の立ち位置を明確にするには充分。
「戦争屋が嫌いなんスねぇ…武器が憎い?」
「……ああ」
室内に満ちてくる夜の影を背景に、怒りの陽炎が見えた気がした。
心底、ヒトゴロシの道具を憎んでいるのにそれを手に、戦う少年。
浦原は自分の内に、歓喜に近い要素が湧き上がってくるのを自覚した。
それを押し殺すようにその顔から微笑を掻き消すと、据えられた銃口に構わず大きく足を踏み出した。
二度目の銃声。
放たれた弾丸は浦原の左肩に灼熱を植え付けた。
ああ、熱いなぁ。
そんな呑気な感想を思い浮かべながら、浦原は再度自分の右胸を捕らえた銃口を一瞥。
歩を弛めること無く、まっすぐ琥珀色の眼を見詰めながら左腕を持ち上げそっと突き付けられた銃身を握り込んだ。
「て、めぇ…!」
至近距離で、浦原と一護の視線が交差。
琥珀の中には困惑と少しの畏怖。一方の翠色の眼に浮かぶ表情は無い。
「アタシを殺すなら、ヒトツだけお願いが」
無表情のまま、浦原は自身の心臓の上に銃口を宛がい静かな声で囁いた。
少年が警戒と困惑を綯い交ぜにした顔で浦原を見上げた瞬間、銃口はそのままに一気に距離を詰めた浦原が眼の前の細い躯を傍らのソファに押し倒す。
三度目の銃声は、無い。
呆然として、無謀とも云える行動を起こした男を見上げた一護に、柔らかい微笑みが返される。
「アタシを殺したあと、キミは藍染と手を切りなさい」
それがアタシの遺言。
窓から入り込む最後の西日が、遠くの峰に落ちた。
薄紫色に沈んだ部屋に沈黙は長く横たわる。
一護にのし掛かった浦原の左肩から滴る赤い血が、心臓を捕らえたままの銃を伝って一護の手首を汚した。
「なんで」
「なんで?」
鸚鵡返しの問い。
小首を傾げた浦原に苛立たしげな舌打ちをして、一護が浦原を睨みつける。
「なんで、アンタそんな真似すんだ?」
「そんな真似って、どんな真似?」
「自分を殺す相手に、お願いとかすんな!」
「だって、癪じゃないスか。アタシはね、こんな商売してますから何時こうなってもおかしくないですけど、キミは何も知らないまま擬態を纏ったあの男のところに帰るんだ」
「アンタの話なんか、俺が聞き入れる訳ねぇだろっ」
「じゃあ、せめて藍染をもっとよく見て?本当にアタシと違う人間かどうか…そのくらいは良いでしょう?なんせ武器商界トップの業績を誇るこのアタシが、命と引き替えにするお願いなんですから」
睦言を囁く距離でそう云って、浦原は掴んでいた銃身から手を解き「一生のオネガイ」と溜息混じりに眼を閉じた。
訳わかんねぇ。
眼を閉じたまま動かない男を見上げて、一護もまた動けないまま眉間に皺を寄せる。
トリガを引いて、邪魔者を消して、今度は間違いなくあの老人を殺す。
両親を、妹達を奪った兵器を世界にばら撒くヤツらを亡き者に。
そう思ってこんな山奥まで来たのに、指が動かない。
喩え、この男の話に少しの真実があって、藍染が一護の見ているのと違う顔を持っていたとしても、この男の所業に関する事実は変わらない。
この男のあるところに、血生臭い戦場が生まれるのは変わらない。
歩むところが戦場になる、それは一護自身にとっても変わらなかったけれど。
「殺さないの?」
早くしてよ、とでも云いたげに片目を開いた浦原が血で汚れたほうの手の甲で一護の頬を撫でる。
心底面白くないその仕草に舌打ちして、一護は銃身を突き上げながら凄んで見せた。
「煩え。今ちょっと考え中だ」
「執行猶予までくれるの?」
「調子に乗んな」
「じゃあ、乗せないで」
「ちょっと待ってろ」
苛立たしげに吐き捨てて、一護は銃を構えたまま肘をつき浦原の下から這い出すとソファの隅に膝をたてて座り込む。
「アタシの夢は腹上死だったんですけど…」
「黙れ」
誰がテメェの屍を被ってやるものか!
がう、と吠えた一護の言葉を受けて残念そうに肩を落とした浦原も、よっこらせとソファに凭れ掛かる。
「キミ名前は?」
「なんでテメェにそんなこと」
「知りたいじゃないですか、自分を殺す人間の名前とか。あの世に云って今までアタシが地獄送りにしたヤツらに自慢しないと」
「なんで自慢なんだ」
「それは秘密」
「訳、わかんねぇ…アンタ」
夜の帳が小さな山小屋を包んで、部屋の中は同じソファに腰掛けていても互いの表情が解らなくなる明度に近づいている。
肌に忍び寄る冷気が、硬化したままの一護の躯を更に硬くする。
狙撃をするときは暑さもも寒さも厭わず何時間も同じ体勢でいられるのに、こんなに至近距離で標的を捕らえている今の方がずっと時間を長く感じた。
「暖炉に火を入れても良い?」
「死人になるアンタに、暖気は必要ねぇだろ」
「キミが寒いでしょ」
「命乞いならもっと解りやすくやれ」
「命乞いなんてしませんってば、勿体ない」
勿体ないって、何だ。
いよいよ訳がワカラナイ。
眼の前の男は、もしかしてとんでもない馬鹿なのかもしれない。
困惑を眉間に表したまま一護は構えていた銃を、立てた両膝の間に降ろした。
ぱちん、と薪が爆ぜてオレンジの炎が相変わらず停滞した室内を照らす。
片手で器用に火を熾した浦原は、そのままソファの同じ位置に戻って深く腰掛けると天井の梁を眺めたまま動かなくなった。
緩く上下する胸、呼吸はあるようだから死んではいまい。
左肩の疵は痛まないのだろうか?
暖炉の火を入れたとき、炎に浮かんで垣間見えた左肩はその片腕を覆うシャツの袖を真っ赤に染めていた。
一護は膝の間に落とした銃を両手で握ったまま、照らし出される浦原の眠るような横顔を眺めていた。
どのくらい時間が経っただろう、遠くで聞こえ始めた微かな梟の声にぽつりとぶっきらぼうな声が被さった。
「……一護」
追従して答えるように、ぱちん、と薪が爆ぜる。
眼を閉じて仰向けになっていた浦原の眼がゆっくりと開いて、その視線が声の主の方に流れた。
「イチゴ……?」
「一等賞の『一』に守護の『護』だ…『苺』じゃねー」
「……一護サン、っスね」
ソファの背凭れに頬をくっつけたまま、浦原はくふりと笑う。
暫し沈黙。
今度の沈黙は、先ほどよりもずっと短くてそれを破ったのは浦原の方だった。
「ねぇ、一護サン…アタシに雇われません?」
「ざっけんな」
「アタシを見張ってればいい。キミは武器を憎んでる、でも武器に依存しない生き方は知らない…図星でしょ?そういう矛盾が世の中を構成してるんです、武器商人は世界一その矛盾に素直な職業ですよ。アタシの野望はね『世界平和』ですから」
「馬鹿か、アンタ」
「よく言われますけど」
「俺はウェポン・ディーラなんかまっぴらだ」
「じゃあボディ・ガードは?」
「アンタを真っ先に撃つかもだぜ」
「オッケィですよ?メリハリのある関係って好きですから。報酬も弾みますし」
「金なんか、いらない」
「じゃあ……うーん…アタシ武器を売る他に是といって出来ること無いんですが…料理は、テッサイのが巧いしなぁ…」
眉をハの字にして困った顔で笑う浦原に、一護は呆れたように溜息を吐いた。
手の中の銃の重さが急に馬鹿馬鹿しくなった気がする。
うーん、と唸りながら天井に視線を戻し思案していた浦原が「あ、」と小さく声を上げ取っておきを思い付いたように一護の方へ向き直った。
「ね、一護さんシャンプーしてあげる。昔、夜一サンが腕を骨折したときにね、洗ってあげて褒められたんですよ?「貴様は何をやってもろくなことに為らんがコレだけは褒めて遣わす」って」
「誰だよ、ヨルイチサンて…つかなんでオマエに洗髪されねーといけねーんだ、どんな罰ゲームだよ」
「否、ホント巧いんですから。ね?オネガイ…洗わせて?」
ちょいちょい、と右手を拱いて浦原が笑う。
無防備を通り越して、緩みきったと云って差し支えないその顔に暗殺者は深い溜息を見舞った。
ああ、なんて馬鹿馬鹿しい。
一護は銃のトリガから指を解くと、それをポンっとソファの上に放りだし膝の上に肘をついて項垂れた。
「一護サン?」
「……っせえ…」
「一護サン、もしかしてシャンプー嫌い?アタシ、眼に泡とか入れたりしませんよン?」
項垂れた一護の頭が小刻みに震えているのを見て、浦原はソファから少し腰を浮かせて彼の元に躙り寄った。途端。
「餓鬼じゃあるまいしそんなわけあるかッ!」
脚の間に放りだしていた拳銃を再び手に取った一護が、それを浦原の眉間めがけて投げつけた。
ごつ。と鈍い音。
飛び道具として用法は違えど、放った者の目論見を果たした鉄の武器は浦原の額を強かに打ってソファの上に落ちた。
「頭がイタイ!」
「黙れ!テメェには弾を使うのも惜しいわ!」
「酷い…こんな…ああ、もうぜったいたんこぶ出来たっスよ、これ…」
額を抑えたままソファに突っ伏す浦原を、ふん、と冷たく見下ろし一護は立ち上がる。
「馬鹿に付き合ってると腹、減ってきた…キッチン借りるぜ」
「ええ?シャンプーは?」
「未だ云うか」
もう一撃いっとくか?険呑な眼差しで暖炉のぞばにあった火掻棒を手にした一護に、ソファの上で顔だけ向き直った浦原がへらっと笑う。
「否、その…ゴメンナサイ」
「アンタに雇われる云々はこの際保留だ。腹減ってると判断鈍るだろ、メシの後考える」
からん、と火掻棒を放りだして背を向けた一護の後から「アタシもお腹空きましたー」という甘えた声が追いかけてくる。
なんで俺がテメェの分まで用意しなくちゃならねぇんだ、という罵声を飲み込んで一護は毒殺を選べばよかったと心底思った。
結局、人間空きっ腹の時は思考が鈍るが、満たされた後は更に雑多なことがどうでもよくなる。
でなければ、あれから4年経った今、自分が此処にいるはずがない。
髪の間を滑る長い指先が時々耳の上を擽るように、悪戯を仕掛けてくる。
態とらしいそれに舌打ちを遣って、一護はバズタブの縁にのせた頭を軽く振った。
「つれないなぁ…一護サンてば」
「釣られるか馬鹿野郎」
「あの時はマシュマロサンドでつれたのに…」
額の上で零れた含み笑いに、一護は閉じていた眼を開いて間近にある翠の眼を睨みつけた。
ギロリ、と擬音がしそうな眼光も厭わず微笑したままそれを受け止めた浦原はオレンジの前髪の生え際辺りを柔らかく擦る。
ゆっくりと泡の間を滑る指が一護の表情を元通りに解いてゆく。
「流しますよー」
丁度良い温度の温い湯が、シャワーの蛇口から注がれる。
一護の頭を支える大きな手のひら。
流れた白い泡の端から覗く鮮やかなオレンジの濡れ色。
猫の子が喉を鳴らすように、一護の唇から満足げな溜息が零れた。
『髪、洗わせてやってもいいぞ』
一護が初めてそう云ったのは、あの山小屋で邂逅してから丁度一年経ったくらいの頃のこと。
以来、毎年同じ日にだけ一護はぶっきらぼうな口調で『洗わせてやる』と浦原にそれを赦した。
その決まった日以外は、どんなに浦原が頼み込んでも頸を縦に振らないのだけれど。
その日が何の日か、浦原は知っていた。
知っていて、それでも一護には知らないふりを通していた。
これからもそれは変わらないだろうと思っている。
一護の放つ銃弾が浦原の心臓を貫くその日まで。
鼻歌交じりにオレンジの髪にコンデショナを付けて、それもさっぱりと洗い流した浦原はきゅ、シャワーのとコックを捻り傍らにあった柔らかいタオルで滴る水滴を拭う。
はふー、と満たされた長い息を吐いた一護の頬に飛んだちいさな泡の跡をタオルの端でそっと撫でた。
「ハイ、できあがりー」
「ん、サンキュ」
「毎日でも洗ってあげるのに」
「いらねぇ…」
毎年繰り返されるそんな遣り取り。
一護は何も云わないが、彼が自分の生まれた日にだけ浦原にそれを望むのはこの行為が特別であることの象徴なのだろうと、浦原は若干プラス思考気味に考えている。
本当は祝いの言葉を付け足したいところだが、彼が自分の過去を明かしてくれるその日まで口を噤むことに決めたのは『アンタを殺すのはもすこしアンタを知ってからにする』と云った一護の言葉があったから。
もっと彼が浦原自身のことを知りたいと思ってくれれば良い。
眼の前で細い首を廻す一護の濡れた髪を眺めて浦原はそう思った。
「なぁ」
「なんです?」
泡だらけのバスタブに半身を浸したまま、一護が浦原のほうへと振り返る。
琥珀色の眼が、白いシャツの袖を肘まで捲ってタオルを絞る雇い主を見上げる。
「なんで、あのとき俺が狙撃する位置が分かったんだ?」
「あのとき?」
「ドバイで俺が爺さんを狙ったとき」
「どうしたんです?急にそんなこと…」
「なんか、思い出した…ずっと引っ掛かってたんだ…」
一護が初めてこの男を見たのは、照準機の中。
記憶に強く刻まれている悪戯っぽく片目を閉じたあときの浦原の表情。
面白くない過去を思い出したのか一護が眉間にぎゅっと影を刻んだ。
「知りたい?」
「教えろ」
彼が望むなら教えても良い。
そのくらいのプレゼントなら易い。けれど、秘密は秘密であるからこそ花なのだ。
当時、好景気に沸いていたアラブ都市では金さえ積めばなんだって手に入った。
まして、目立つ髪色の余所者の情報など買うまでもなく。
乱立ラッシュのビル群のなか、浦原がアタリを付けた狙撃ポイントは三箇所あった。
本当は、その全てに眼を走らせたのだけれど。
彼が自分に興味を持つなら、秘密は多いほど良いじゃないか。
浦原は、あの時とおなじように片目を瞑ると洗いたての髪を撫でて云った。
「秘密。来年また髪を洗わせてくれたら教えてあげる」
ちゅ、と額に軽いくちづけ。
怒声と泡が飛び散ったのを交わしながら浦原が笑う。
来年は『オメデトウ』の言葉を贈れると良いなぁ、と思いながら。
Fin.
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