Happy birthday to...
西條 葎
* * *
「あのね,アタシは校医じゃないんスよ?」
「そんなの知ってる。でもあるだろ,救急箱」
染料では出しえない鮮やかな橙色の髪の下,眉間にきついな皺を寄せて一護は云った。
顔のそこここに痣や擦り傷が散っている。
体育の授業中に転んだとかそういうわけではない。
明らかな喧嘩の跡。
キィキィと小動物の悲鳴めいた音を立てるキャスタ付の古びた椅子。
どこからか勝手に持ち込んできたそれが一護の指定席で。
背凭れに頬杖をついて血の滲む口の端にそっと触れ「イテ」と顔を顰める。
ありふれた夕方の景色。
浦原は火のついていない煙草を咥えたまま片方の眉をひょいと上げ,胡乱下に一護を見遣ると,小さく息を吐いて立ち上がった。
給湯室に置かれたスカスカの食器棚の上に置かれた救急箱を取りに行くために。
「だいたいね,何で喧嘩なんかするの」
フィルタに歯を立て,煙草を上下にゆらゆらとさせながら浦原が戻ってくる。
視界の端に白衣の裾がひらひらと揺れるのを見て,一護は笑いを噛み殺した。
不承不承を装っても,この司書は酷く自分に甘い。
自分だけに。
そのことが齎す,途方もない優越感。背骨がぐんにゃりとしそうなほどの甘い陶酔。
「ハイ,こっち向いて。消毒してあげる」
「…痛くすんなよ」
「なぁにコドモみたいなこと云ってんスか。自業自得」
そんな憎まれ口を叩くくせに,消毒薬を染ませたガーゼを傷口に押し当てる手はどこまでも優しい。
額。目の横。頬。耳の下。
幾度かガーゼを替えながら,丹念に拭っていく。
大人しくされるがままになっていた一護だったが,最後の仕上げとばかりに一際酷い唇の端の傷にガーゼが伸ばされると,その手をぎゅ,と掴んで「ここはいい」と顔を背けた。
「どうして」
「絶対しみる。ていうか口ンとこにそんなんつけたら苦ぇだろ」
さっきざっと水で洗ったし,舐めときゃ治る。
ため息混じりに付け足して「サンキュ」と眉間に皺を寄せたまま礼を云う。
頭上で小さく息を吐く音。
ため息。
どうして,と見上げると,窓から差し込む夕日を受けて,淡い色の髪が燃え立つように見えた。
それに見蕩れた。
一瞬の空隙。
顎を掴まれている,ということに気付いたときは遅かった。
目の前に浦原の顔。
しかし眼差しを隠すように伸ばしっぱなしの髪が散り,表情は読めない。
きつく掴まれた顎先を目一杯上向けられ,喉の筋が攣った。
チリ,と焼け付くような痛み。
口の端に濡れる感触。
見開いた視線の先に映る,浦原の,舌。
「――に,しやがる」
「…舐めておけば治るんデショ?」
そう云って唇だけで笑う浦原は酷くきれいで,一護は言葉をなくした。
黒崎一護。15歳。
空座第一高校一年三組に在籍。
図書委員に名を連ねるわけでも,文芸部に在籍するわけでもないのに頻繁にこうして図書室――もとい,司書室に顔を出す理由は,すべてこの部屋の主,司書の浦原にあった。
浦原喜助。35歳。
空座第一高校図書室司書。
高校生のときに発病した心疾患の為,ずっと職に就いていなかったが教育委員会にコネのある祖父の薦めで司書の職に就いたのだという。
伸ばしっぱなしの真冬の月のような淡い色の髪に不精髭。足元はどこの便所から盗んできたんだ,というようなゴム製のサンダル。
身形に構わないかと思えば,愛車は教員用駐車場で一際目を引くイタリア製のスポーツカーだったりする。
――別にアタシの好みじゃなくて,イトコとね,賭けをして勝ったんスよ。
――どんな大層な賭けだよ,それ。
――アタシがね,ハタチまで生きられるかどうか。
冗談だろ。
そういいかけて一護は口を噤んだ。
浦原はいつもと同じように微笑っていた。
けれども,それが冗談などではないことが一護にはわかった。わかってしまった。だから。
一護は胸の中で蟠る想いが言葉を為そうとするのを邪魔するように空を仰いだ。
夏の空。
雲ひとつなく,まるでそれ自体が発光しているかのように眩しい,青。
そして,傍ら,自分より10センチほど高い位置から棚引く煙草の煙。
あれは,夏休みの直前だった。
期末試験終了後,一学年上の不良どもに呼び出しを受けていたのだけれど「暑い」というのを理由にバックレようとした。
それを他のクラスのいきがった雑魚が告げ口した。
捕まったのは校舎裏。
15対1とか冗談じゃねぇ。
このクソ暑い中なんだってそんな無駄に元気なんだよヤンキーだったら大人しくかったるそーにしてやがれ!
とはいえ,降りかかる火の粉は振り払わねばならない。
リストバンドを巻いた手首をぶらぶらと振って,深呼吸をひとつ。
一護はずらりと並ぶ頭の悪そうな面々を見回し,一番偉そうなヤツに狙いを定めると一直線に飛び掛った。
しばらくの後一護だけがその場に残された。
対峙した15人のうち,まだまだイケそうなのは何人かいたが,顔中を鼻血でぐしゃぐしゃにしたリーダー格と思しきヤツや,ぼろ雑巾のようになって蹲る仲間たちを目にしただけで戦意喪失し,そいつらを担ぐようにして消えていった。
捨て台詞もなかった。
暑すぎた。
ひとりになって,ほっと息を吐く。
校舎の壁に寄りかかって,ずるずるとしゃがみ込むと,もう立てない気がした。
――熱中症。
冗談では済まされないその三文字が,耳の奥で鳴り響くような鼓動と連動するように頭の中で膨張し,縮小した。
ぴしゃり。
冷たいものが顔に落ちてきた。
それが濡らされたハンカチだと理解するまでにしばらく時間が要った。
額の上に冷たく重たいものがこつん,と載せられる。
「生きてます?」
声。
知らない。
大人。
教員か。
最悪。
のろのろと手を上げ,額の上に載せられたものを振り払う。
顔に載せられたびしょぬれのハンカチを掴んで,重たい瞼を開くと,真夏の太陽を背に,白衣姿の,見知らぬ男が立っていた。
「こんなところでお昼寝してると,死にますよン」
男はどこか面白がる風に云うと,手にしたボトルを差し出した。
「飲んで」
「…らね」
「熱中症,舐めてるとほんとに死にますよ」
「……らう」
手渡されたボトルは,蓋が開けられていた。
至れり尽くせり。
そんな言葉が浮かんで,小さく笑う。
500ミリのペットボトルを一息に飲み干すと,ほんの少しダルさが引いた。
「動けるようなら立って。無理なら」
「…無理」
でも,もうちょいしたら動けるから,サンキュ。
そう,言葉を都合としたのに,いうより早く抱き上げられていた。
「……にすんだよ」
「放っておけないデショ。見つけちゃったものは」
それにしてもキミ,軽いっスね〜。
茶化すように云って,男は引き摺るような足音を立てて,一護を校舎内に運んだ。
とっくに生徒は下校しているらしく,校舎の中はしん,と静まり返っていた。
学校の中って,こんなに涼しかったっけ。
ぼんやりとそんなことを考えた。
自分を抱き上げる男は何も云わなかった。
ゆっくりとではあったが,呼吸ひとつ乱さず階段を四階まで昇り,どこかの部屋へ一護を運んだ。
ソファらしきものに横たえられて,始めてそこが図書室だとわかった。
「もう一本つめたいの持ってきてあげる。でも,今度は一気じゃなくてゆっくり飲むこと」
まるで医者のように云って白衣の裾を翻し,男は姿を消した。
そして一分もしないうちにスポーツ飲料のボトルを手に戻ってきた。
「…悪い」
「オヤ,意外と素直なんスね」
男はそういうと白衣のポケットから取り出した煙草を一本咥えて唇で揺らした。
「一応禁煙なんで」
そのまま一護が横たわるソファの傍らに腰を下ろし,煙草を取り出したのと逆のポケットから取り出したピル・ケースをかしゃりと鳴らした。
「…フリスク?」
「だったら,いいんスけどね。ちょっと,発作」
見れば,男の顔色は真っ青だった。
うすい唇が震え,苦しそうに息を継ぐ。
その,尋常ならざる様子に一護ががばりと身体を起こすと「だーいじょーぶっスよ。慣れてるんで」と男は笑った。
紙のように血の気のない真っ白な顔のまま。
そしてピルケースから取り出した錠剤を一粒口の中に放り込むと,眉間に皺を寄せたままきつく目を瞑り,一護の足元,ソファの座面に頭を凭れさせた。
閉じられた瞼が小刻みに震えている。
ギリ,と奥歯を食いしばる音が微かに漏れる。
喉に引き連れるように筋が浮き,苦しげに顔が歪む。
「大,丈夫…かよ。なぁ」
掠れた声で呼びかけると,ほんの一瞬瞼が開いて,男の目が一護を見た。
ずくん,心臓が,まるで蹴飛ばされたように跳ねた。
すぐに力尽きたように瞼は閉じられてしまったが,その一瞬で,たった一瞬で一護は囚われてしまったのだった。
あの日から,浦原は一護にとって特別な存在になってしまった。
教員なんかとはなるべく接点をもたないように,と心がけてやってきていたつもりなのに,時間が空くと足が図書室に向いてしまう。
いつも開け放たれている司書室のドアに寄りかかり,コ・コンとドアを叩くとデスクに向かい仕事をしているらしい浦原の顔がゆっくりとこちらを向き,そして「今日もサボリ?」と一護の視線を根こそぎ奪う,あの笑顔になる。
それだけでもうどうしていいかわからなくなる。
心臓がぎゅうと痛くなって顔が歪む。
そんな一護の様子を見て,浦原はまた笑う。
全部を知っているような,それでいて何もわかっていないような笑い方で。
「すっごい皺」
云いながら眉間に唇が押し当てられる。
そのままふ,と笑う気配がして,一護は腕を突き出すと抱きしめようとする浦原の身体を無理矢理押し退けた。
「…人で遊ぶなっていっつも云ってンだろ」
「遊んでなんかないっスよ?」
「嘘吐け」
「どうして嘘なんて思うの」
袋小路に追い詰められて奥歯をギチリと噛み締めたまま見下ろす浦原を睨みつける。
浦原はそんな一護の険しい目などいっかな気にならない,という風に手を伸ばし,やさしく,泣きたくなるほどやさしく一護の髪を梳く。
まるで愛しくて愛しくて堪らない,とでも云うように。
触るな。
そう云えたらどれだけいいか。
いっそのこと一発殴りつけてそのまま二度とここに足を踏み入れずにいられたら,どれだけいいか。
でも一護はもうそれが出来ないことを知っていた。
初めて浦原とキスした日から一ヶ月,一護は必死になって浦原を避けた。
キスをしかけたのは一護からだった。
浦原は避けなかった。拒まなかった。
唇が触れた一瞬だけ驚いたように目を見開いて睫が触れる距離で一護を見つめ,そのままゆっくりと目を瞑った。
初めて触れた他人の唇。
そのやわらかさ。
包み込まれるような浦原の匂い。
触れていたのはほんの僅かな時間のことなのに,まるで時間が飴細工のように引き伸ばされて感じられた。
唇が触れても,離れても,浦原は変わらなかった。
なんで,も,どうして,もなかった。
仕掛けた一護の方が動揺し,どうしていいかわらかなくなって逃げ出した。
一ヶ月,図書室はおろか,学校に居る間は必要最低限しか教室から離れなかった。
浦原が司書室から出ることは稀だ。
せいぜいが会議か,来客で管理棟を歩く程度。
だから,そうしていればもう会わずに済むはずだった。
――それなのに。
昼休み。
生憎の雨で屋上に上がることもできず教室で友人たちと昼食を摂った。
その後はこのところ眠りの浅い日が続いているため机に突っ伏し午後の授業が始まるまで仮眠を摂ろうと思った。
しかしその目論見は黒板の上に据え付けられたスピーカから響いた呼び出しのためのベルによってあっけなく崩された。
「あー,ええと,一年三組,黒崎サン。至急西校舎四階図書室まで来てください。…繰り返した方がいいのかな,コレ」
聞きなれない声に教室が一瞬静まり返る。
机に突っ伏して寝ている一護に視線が集中する。
しかし一護はそれどころじゃなかった。
スピーカから聞こえてきた声。
まさか,そんな。
馬鹿な。
なんで――。
ガタン,と椅子を揺らして立ち上がった。
もう,何も考えられなかった。
教室を飛び出し,廊下を駆け抜ける。
途中,顔見知りから「なんで図書室なんかに呼び出し食らってんだよ一護!」といくつも声がかかったが,それに応じる余裕すらなかった。
階段を二段抜かしで駆け上がり,息をつく間もなく図書室のドアに体当たりをする勢いで開ける。
がらん,とした人気のない図書室。
明かりがついていないせいで梅雨の終わりの雨に煙る窓の外がやけに眩しく感じられた。
「わ,早い。アタシ今ここに戻ってきたばかりなのに」
「……んの,用,だよ」
乱れた息の下から呻るように云って,背中でドアを閉めるように寄りかかる。
耳のすぐ奥でずくずくと鼓動が煩い。
心臓が痛くて,肺が痛くて,膝が震える。
そんな一護を見て,浦原が微笑んだ。
そして左足をほんの少し引き摺るいつもの歩き方でゆっくりと一護に近づいた。
窓の外から差し込む光が,浦原の身体で遮られる。
影に飲み込まれるような感じがして,一護の膝からずるり,力が抜けた。
壁に背中を預けたままずり落ちるようにしゃがみ込むと目の前に立った浦原の影が覆いかぶさるように伸び,一瞬視界が奪われた。
くしゃり,くしゃり,髪を撫でられる。
その掌がゆっくりと頬にすべり,それから顎先を捉えた。
小さく首を横に振るが,浦原は宥めるように頬を撫で,決して強くはないが有無を云わせないだけの力で一護を上向かせた。
件名に逸らした視線に,それでも浦原の姿が映りこむ。
それから逃げたくてきつく目を瞑った。
ほんの一瞬。
視覚を遮断され鋭敏になった触覚。
唇に触れたやわらかなもの。
押し付けられて,すぐに離れて,下唇を食むように歯が立てられた。
驚いて思わず目を見開くと,深い深い色の瞳が覗き込むようにこちらを見つめ,そのまま深く貪るように口付けられた。
呼吸の自由すら奪われ,口の端から溢れた唾液が顎を伝う。
苦しくなって顔を顰めても,浦原の背に伸ばした手でシャツを掴んで引き離そうとしても,浦原の身体はびくともせずに,いい様にされるだけされて,ぐったりとした頃,唐突に放された。
「会いたかったから」
どちらのものかわからない唾液で濡れた唇を指で拭って,浦原が云った。
その言葉が,先ほど自分が口にした問いへの答えだと理解するまでにしばらくの時が要った。
会いたかった,から。
理解した瞬間,それは嘘だ,と直感した。
会いたかったなんて嘘だ。
そう思うのに,身体が勝手に反応した。
身体の深いところから熱が突き上げ,顔が真っ赤に染まる。
一護は口を掌で覆い,頭を膝の間に垂れた。
嘘だ。
絶対に嘘だ。
わかってるのに,なんでこんな。
なんでこんな嬉しいんだ。
捕らわれた。
囚われてしまった。
振り切ればいつでもなかったことにできるはずだった細い細い鎖。
それが一瞬にしてどんなにもがいても切れないだけの強度をもった。
――違う。
雁字搦めに縛る鎖は今も尚細く,そして脆い。
でも,その鎖を引き千切ることはもう自分にはできない。
捕らわれたのは心。
もう,浦原から目が逸らせない。
すぐ傍で自分を見下ろす浦原を見上げて,一度は小さく息を吐く。
「…性質悪ィよな,ほんと」
「毒ってのはね,強ければ強いほど舌に甘いんですって」
「……自分で云うかそれ」
「でも,嫌いじゃないでショ?」
「……嫌いだよ。誰が好き好んでそんなもんに手ぇ出すか」
「嘘」
再び寄せられた唇が,やわらかく一護の言葉を奪う。
嫌いだよ。
お前なんか大嫌いだ。
散々ひとで遊びやがって。
本当は好きじゃないくせに。
面白がってるだけなんだろ。
そのくせこんなにしやがって。
サイアクだ。
サイテイだ。
「ね,一護サン」
唇に唇を触れ合わせたまま名を呼ばれる。
その微かな刺激にぞわり,皮膚が粟立ち,背骨に蜜でも流し込まれたかのように力が抜けていく。
「何か,欲しいものある?」
「……んで,だよ」
「今日,お誕生日でショ」
またキス。
触れ,押し潰し,離れて,また触れる。
その合間に紡がれる言葉に正常な思考などが保てるはずもなく。
囁かれる声の甘さに
触れ合う唇の甘さに
一護はただ,溺れるだけだった。
Fin.
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