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The seven deadly sins, plus.


ユンケル・ロイヤル








『天使』は人を幸せにしたりなどしない。
 否、”しない”という表現は不適切だ。
正しくは、”出来ない”と云うべきか。


天使が誇るその素晴らしき『微々たる』能力と云ったら、ほんの少し人の肩に手を添えて上手くいけばその人物の思考を微かにプラス側に傾けることが出来る…かもしれない、と云う程度のささやかな作用しか果たせない。
これ以上ないくらい善良で、眠りに落ちる瞬間に思い付いた翌朝には剥がれ落ちてしまって形跡もなくなってしまうとっておきのアイデアくらい哀しい存在だ。


人間よりもずっとあやふやで、不甲斐ない中途半端ないきもの。
もしかしたら、いきものと云う認識すら違うのかも知れない。


感触もなく、感覚もなく、久遠の時を彷徨う亡霊にして傍観者。
喜怒哀楽の温度も知らず、己の存在理由すら持たない。
人の感情の鮮やかさに比べれば、天使の感性は限りなくグレィスケールだ。
神話やおとぎ話の中で天使は神の使徒として描かれはするけれど、人のほうが余程神に愛され、祝福されているに違いない。


その証に、天使の視覚は色彩を持たないのだから。
浦原の世界に色と云う概念は存在しない。
風も、雨も、喜びも、哀しみも、何もない。
赦されたのは只、傍観し、思考することのみ。
眼下に広がるコンクリィトの街並み。
遠くに見える観覧車、その向こうには水平線に仕切られた海と空の果て。


街一番の高さを誇る鉄塔の上で、浦原はしゃがみこんで膝に肘を立てると頬杖を突いて白い陽光が注ぐ薄墨色の景色を眺めた。
その出で立ちは、翼もなければ、頭上の光輪もない。
天使特有の漆黒のコートを纏ってはいるけれど形容としては人のそれと大差ない。
所詮、天使は死後の国へ送る為に迎えにゆく臨終間際の人の眼にしか映ることは叶わないけれど。


だがごく稀に幼い子供等は平生でも天使を見ることが出来るらしい。
何時だったか、浦原がやはり建物の上からぼんやりと街を眺めていたとき――その時はビル屋上の鉄柵の上に立っていたのだけれど――足下から寄越された視線に気が付いて眼を向けると、おさげ髪を二つに結った小さな少女が浦原を見上げひらひらと手を振ってきた。
にこ、と微笑まれたので浦原も同じように微笑みを作って手を振り返すと、少女は嬉しそうに笑って、訝しんで此方を見上げた浦原の姿を見ることが出来ない母親に手を引かれ、何度か振り返りながら遠離っていった。


鳥や、犬や、猫。
それらの温もりに触れ実感することはできないけれど、動物にも天使の姿は見えるらしい。
今も、鉄塔の上で屈み込む浦原を牽制するように黒い烏が彎曲した軌道を描いて旋回し、最終警告のような鳴き声を寄越してくる。
風を捕らえて空を切る翼を眺めて、浦原は風の作用を受け止めることのない自分の髪をそっと掻き上げた。


さらり、指の間に髪の感触。
だが、それだけ。
自分以外が自分に何かをもたらすことはないのだ。
どんなに高い所に上っても、浦原の漆黒のコートは風に靡くことはない。
どんなに鳥が滑空していようとも、浦原の髪が風に浚われることはない。
この世界は天使を遮断し、そして中途半端に許容して存続している。
優しさと残酷さがコインのように一体になっている、といえば解りやすいのだろうか。
唇の隙間から零れた吐息は浦原の薄い唇を通り抜けて、灰色の世界に溶けた。


「なんじゃ、喜助。天使のくせに物憂げじゃのぅ」


頬杖をついたまま、声の方へ視線を流すと何時から其処にいたのだろうか一匹の黒猫が尻尾を揺らして此方を見遣っている。
思い出せないくらい長い時を彷徨ってきたけれど彼女の姿を見る度に、自分はこれ以上の漆黒を知らない、と浦原は思う。
艶やかな黒い毛並みを撫でてみたいと思ったことが無いと云えば嘘だが、喩え同僚といえど自分以外は自分の外側。
触れようと試みた所で指先に触れることは無い。


「夜一サン…天使にだって感傷に浸る権利はありますよ?」
「何を、感情の本質も知らぬくせに生意気な」
「アナタがそれを云いますか?」


自分だって、それは同じだろうに。
諦観の滲んだ苦笑を零して浦原はゆらり立ち上がると、そっと眼を閉じて耳を澄ませた。


天使に赦されたもうひとつのちから。
それは人の心を聞くことが出来る、という能力だ。


対象となる人物に心を向ければ、その人間の思考が囁きとなって浦原に届く。
その囁きは、喜びであったり、怒りであったり、哀しみや苦しみに満ちたものであったり、様々にその本質を変えながら浦原の中に流れ込んでくるのだ。
色彩を持たぬ天使が触れられる、唯一である鮮やかな感情たち。
今、浦原の意識の矛先は眼の前を旋回する黒い烏だった。


ガァガァと鳴く鳥から流れ込んでくるそれは、警戒と敵意。
そしてそれらにプロテクトされた微かな畏れ。
人のかたちをした、人ならざる者への畏怖。


「嫌われちゃったみたいスね」


浦原は片目だけで傍らの小さな黒猫に視線を落とすと、肩を竦めて見せた。


「好かれる理由もあるまい」
「そりゃそうだ」


簡素且つ的を射た友人の返答に口端を僅かに持ち上げて、浦原は羊のような雲がふわふわと浮かぶ空へ右手を伸ばし、陽の光を遮るように自分の手のひらのシルエットを眺める。


実体のないからだ。
それでも、光を遮るこのからだ。
かたちは人間のそれと大差ないのに、人間のように壊れたりなどしない。
人のからだはすぐに壊れてしまうことを浦原は知っている。


傷つき、艶やかな漆黒の体液を零れさせて動かなくなった人間を数え切れないほど見てきた。
そんなとき、決まって彼らの感情は哀しみと畏れに染まっていることが多かった。


もちろん、例外も少しはある。
揺るぎない信念を持ってそれに殉ずる者も、稀に見たことがあったから。
死の淵に沈んでゆく人間を見る度、浦原は彼らの傍らに立って、そっとそのからだに手を翳し少しでも畏れが遠のけば良いと思うのだ。
穏やかに潰える魂は、僅かだということも知っていたけれど。


「ねぇ、夜一サン。なにか面白いことないですかねぇ」
「貴様の『面白いこと』の定義なぞ儂の知ったことか」
「つれないなァ…。天使の鑑っスね、夜一サンって」
「うむ、貴様とは対極におる」


細く眼を眇めた毒舌も滑らかな黒猫の言葉に反論も敵わぬまま、漆黒のコートを纏った天使は地上数百メートルの鉄骨の上を歩き出す。


「じゃあ今日はあの観覧車にでも乗りましょうか」


視界の端に小さく見える放射状の骨骼を有する円形の、遊具と呼ぶには余りにも巨大な建造物。


「ふん、バビロニアが栄える遥か古来より馬鹿と不良天使は高い所を好むと云うからの」
「……夜一サンだって好きじゃないですか、高い所」
「例外もある、という最たる事例じゃ」
「………」









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