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片翼の天使


西條 葎





§



太陽の姿などどこにも見えないというのにこの暑さはなんだ。
見上げた遥か上,細く見える空全体が真っ白に発光している。
直截降り注ぐ光の熱さではなく,熱されたコンクリートが四方八方から発する熱。
これじゃあまるでオーブントースタの中にいるみたいじゃねーか。
一護は熱されたアスファルトの油でべとつく地面を蹴りつけながら毒づいた。


後ろから罵声を上げつつ追ってくる足音は二人分。
その気になれば潰す自信はあったができることなら顔を見られたくない事情があった。


鼻をくすぐる揚げ物の匂いに空腹を覚えても足を止めている暇は今はない。
店の軒先からぶら下がった肉の塊を避け,ひっくり返ったペール缶を飛び越える。
迷路のように入り組んだ路地もここで生まれ育った一護にしてみれば庭に等しくどこに抜けどこに出るかなど考えるまでもない。


ていうか暑ィんだよッ!
腹立ち紛れに道端に倒れていた空のビールケースを引っつかんで遠心力プラスで背後に投げつける。
うわぁ!と間の抜けた声を耳が拾っていい気味…,とほくそ笑んだのも束の間,手首を掴まれて細い路地に引っ張り込まれた。


「なッ!」


罵声が口をついて出るより先にぴたりと口を掌で覆われた。


「なーにやってるんスか」


白いシャツの胸に抱きこまれて見上げれば,そこにはよく見知った顔。


「離せ…浦原ッ!」


一護を抱きすくめるの浦原喜助という医者で,――もちろん法の手など届かない文字通り無法地帯であるこの街で認可の下りた正式な医師であるはずがなく非合法な薬を用い非合法な治療を行う闇医者だ。
しかしその腕が滅法よいことから誰からも一目置かれこの界隈では知らぬ者はないというある意味「顔」だった。


「なんでこんなの被ってンの?」


いいながらずるりと一護の頭から黒髪のウィッグを剥ぐ。
汗でぺたりとしてしまった髪をちょいちょいと直しながら間近に迫った足音を聞きつけにぃ,と笑った。


「ほんとに黒崎サンたら追いかけっこが好きっスねぇ」


反論は着ていたシャツの中にウィッグをねじ込まれた気持ちの悪さと顎先を捉えて噛み付くように重ねられた唇によって阻まれてしまう。
追っ手だった二人分の足音が近づいてくる。


「――こっちだ!逃げ込むのを見たぞ」


喚きながら路地に踏み込んできた。
浦原,テメェ…!
唇を重ねたままきつくにらみ上げれば瞳だけでふわり,微笑まれる。
そしてその目は一際深く口付けながら左手に逸れていき,間近で見上げる一護をも戦慄させるほどの冷たい光を点した。


「……なんなんスか?ひとのお楽しみのところに踏み込んで」


聞く者の背筋をぞっとさせるような凍て付いた声音。
顔の向きを拘束するようにすぐ横に腕を突かれているためそちらに視線を向けることができなかったが,踏み込んできた二人がそれぞれに口篭る気配は知れた。


「なんだテメェ!」


食って掛かろうとした一人を慌てて「バカ!相手見てから噛みつけ!」と別の一人が押しとどめるのが聞こえる。
一護は浦原に拘束されたままじっと耳を澄ませていた。


「あ…浦原先生!すみませんこっちに黒髪のガキが逃げ込んできませんでしたか?」


これは食って掛かろうとしたヤツを押しとどめたヤツの声。
こいつがリーダー格らしい。
追いかけてきた男たちの風体を思い出して声と照らし合わせる。
黒いスーツに黒いサングラス。
二人とも似たり寄ったりだけれど後ろに控えていた男には頬に傷があった。
アイツか…。


「黒髪…?さぁ,アタシは見ませんでしたけど」
「そう,ですか…」


男が口篭ると先ほど食って掛かったヤツが「ちくしょう,あのガキどこ行きやがった!」と再び声を荒げるのが聞こえた。


「なんでもいいけどさっさと消えて貰えません?一仕事やっつけてようやく…って降りてきたのに邪魔されるなんて冗談じゃない」
「あ…スミマセンでした!」


てんでばらばらに頭を下げて二人は路地から出て行った。
浦原はふぅ,と息を吐くと再び一護の向き直り,鼻の頭にちゅ,と唇を落として壮絶に人の悪い笑みを浮かべた。


「ハイ,これでまた貸しヒトツ,ね」
「…ッ!誰が手ェ貸せっつった!」
「こんなモノ被らずにそのままシゴトすればイチイチ雑魚に絡まれることもないのに」


そう云いながら髪をやさしく梳く。
浦原はことあるごとに「橙色の髪の子,アタシの大事な披験体(ペット)なんである程度の悪戯は大目に見てあげてくださいねン」とこの街の有力者たちに吹聴して回っていた。
それはある意味事実だったが一護にしてみれば虎の衣を借る狐なんて冗談じゃない。
だから一護は仕事の際はキャップなりウィッグなりで鮮やかな橙色の髪を隠すのが常だった。


「つーか離せっての。あちーし気持ち悪ィんだよ」
「せっかくだからお茶付き合いません?蒸し立ての花巻買って来たんスよ」


是と答えないなら離してあげない。
抱きしめる腕に力を込められ言外にそう云われ,一護は苦々しげに息を吐いた。


「そんかしそれでさっきの貸しはチャラな」
「ええー,お茶ご馳走してあげるのになんでー」
「語尾を伸ばすな鬱陶しい。付き合うから離せっての」


つまんなーい。
まるで子供みたいに云って浦原はようやく抱きしめる腕から力を抜いた。
浦原の肩に手をつき,ぐい,と身体を引き剥がした一護はTシャツの中に手を突っ込むと腹に張り付くウィッグを引き抜き,手近に合ったペール缶に放り込んだ。


「さーて,行きましょっか」


ほんの少し先を行く浦原が上機嫌な声で手招きしている。
逆の手に下げられた白い紙袋は決して小振りなものではなく,自分が最初からメンツに組み込まれていたことを知る。
凡そどこぞの誰かが自分が追い掛け回されていることを浦原に耳打ちした,とかそんなところか。


ちくしょう。
一護は息苦しさを感じて足元の空き缶を力一杯蹴り飛ばした。











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