Therefore kiss
-- cite the word as a justification for kiss --
どんよりと曇った日曜日の午後。
一護はいつものように浦原商店奥の店主の自室にいた。
10月も終わりになると縁側では幾分肌寒い。そんなわけで障子戸のみを開け放し,座敷の中ほどに並べた二枚の座布団のうちの片方に陣取っていた。
今日のお茶は小ぶりな茶器で出されたうす甘い八宝茶と甘い中にも微かなクセがあって後引く味の月餅だった。
一護の知る餡とは色も風味のまったく違うそれは,浦原に聞いたところ「多分蓮の実かなんかじゃないスかねぇ」とのことだった。
「ハスノミってアレか?穴の開いてる…」
「それはレンコン。アレは根っこていうか地下茎でしょ」
「……オマエむかつく」
ぶつぶつと文句を云いながらもしっかり二つ(もちろん浦原の分も一護が平らげた)食し,小腹の満ちた心地よさのままうつ伏せにごろりと寝転がり,頬杖をついて気に入りの煙管の手入れをする浦原の手元を眺めていた。
浦原は一護の話に相槌を打ちながら慣れた手つきで煙管を分解し,ひとつひとつのパーツを覗き込み,汚れを取り,柔らかな布で磨く,というのを繰り返していた。
よどみなく動く手と,その指の向こうに見える浦原の表情。
見るともなしに,というにはざわつく鼓動をひた隠しにしながら一護は言葉を継ぐ。
「あー,一護サンちょっと待ってて?」
何か道具が足りなくなったのか,浦原はそう云い置くと立ち上がりながらくしゃりと一護の頭を撫で,そのまま部屋を出て行った。
ひとり取り残された一護は頬杖を崩し伏せた腕に頬を預けると,足先をぶらぶらと揺らしながら浦原がそっと布の上に置いていった煙管と見つめた。
煙管の価値など一護にはわかりもしない。
浦原は高価だから大事にする,というよりも手に馴染んだり都合がよかったりそういう点で重宝するものを好むから,これももしかしたらびっくりするくらい安価なものなのかもしれない。
というよりも価値なんかどうでもよかった。
浦原の指が,それをそっと摘む様子。
薄い唇が吸い口をはさみ,目を細めて煙を呑む,あの姿。
思い出そうとしなくても脳裏に簡単に描き出せる。
何度か「吸ってみる?」と差し出されたことがある。
浦原の手から吸う煙草は,美味いとは思わなかった。ただ,浦原の匂いだ,と思っただけだった。
でも――。
一護は顔を上げて立てた左手で顎を支えると,右手をそっと煙管に伸ばした。
竹なのだろうか,節のある細い筒の部分を持ち,ためつすがめつしてみる。
金色の吸い口をじっと見つめているうちに,つい,魔が差した。
手にした煙管にそっと唇を寄せ,吸い口に触れる。
意味などなかった。ただ,なんとなく。
ひやりと冷たい感触に,はっと我に返り,一護は慌てて煙管を元の位置に戻した。
ごそごそと身体を起し,座布団の上に胡坐をかいてがしがしと頭を掻き毟る。
今した自分の行為がひどく気恥ずかしく感じられた。
俺,何やってんだ……。
火照る頬を両の掌で包み込み,ごしごしと擦る。
それでも足りなくて「うー」と小さな声で唸っていると,いきなりずし,と背中に加重がかかった。
ごき,と腰が嫌な音を立てる。
「わー,すごい音」
「すごい音,じゃねぇよ何すんだ!」
驚きと痛みで一護は思わず喚いた。
加重がかかったのは他の誰でもない浦原のせいだった。
まるでおんぶお化けのように猫背になった背中に覆いかぶさり,顎を肩に乗せ両手を前にだらりと垂らしている。
頬に触れる無精髭の感触がくすぐったかった。
「そんなことより」
「ってあっさり流すなッ!」
「一護サン今日夜,お寿司食べに行きません?」
「へ?」
声がひっくり返った一護に,浦原はくすりと笑うと「だからお寿司。ご馳走しますよン?」と耳元で囁いた。
「だっ!どういう風の吹き回しだよッ!」
「えーとね,これから急遽一件集金行かなきゃいけないことになったんスよ。まったく日曜だってのにねぇ。だから」
「だから,って理由になってなくね?全然理由になってなくね?」
耳元を擽る声がどうしようもなくくすぐったくて,一護は掌で浦原の口元を覆うとぐいぐい向こうに押しやった。
「いちごひゃん,いひゃい…」
「つーか,は な せ !!」
顔を真っ赤にして抵抗する一護に,浦原は仕方なくほんのわずかだけ身体を起した。
その隙をついて一護は浦原から逃げようと前かがみになったが,ジーンズの後ろを掴まれてあっけなく引き戻される。
浦原の腕は一護の腰に回され,一護は背中から浦原に寄りかかる恰好になってしまった。
「無闇にくっつくなって云ってるだろッ!」
「恋人ってのは無闇にくっつくモンでしょ?」
云いながら一護の頬にちゅ,と唇を押し当てると,声にならない叫びが一護の口から迸った。
浦原は面白そうに目元を和らげてその様子を見ていたが,このままじゃ話が進まない,と一護の頭をぽんぽんと撫でながら「お寿司嫌いっスか?」と尋ねた。
「き,嫌いじゃねぇけどッ!」
「じゃあご一緒してくださいな。せっかく遊びに来てくれたのにこれじゃああんまりだもの」
「つーか仕事だろ?何時に終わんの」
「今からだったら七時くらいにはこっち戻ってこれると思いますよ」
七時…。
一護は壁にかかった振り子時計を仰向くようにして見て時刻を確認すると「じゃあ,俺一度帰るわ」と云った。
「え,待っててくれないの?」
「オマエいないのに俺なにしてんだよここで」
無意識で甘い台詞を吐いた一護に,浦原はひっそり笑みを零す。
腰に回した腕にぎゅっと力を込めると「じゃあ仕事終わったら一護サンち迎えに行きますね」と囁いた。
「え,や,電話しろよ」
「どうして?」
「……説明,めんどくせーし」
「デートに行くんだって云ったらいいのに」
「あほかッ!」
くすくす笑う浦原につられて,声を尖らせた一護もいつしか口元を緩めていた。
浦原と外で,しかも夜に会うことは本当に稀だった。
数時間後を思って一護は心が沸き立つのを感じた。
19時過ぎに電話を受けた一護は上着を引っつかむと靴を履くのももどかしく家を飛び出した。
すぐ先の通りでガードレールに寄りかかり煙草を咥えた浦原は珍しいスーツ姿だった。
思わず足を止めてしまった一護を見つけると,小さく手を振ってみせる。
一護は目のやり場に困る,と思いながらも駆け寄った。
「なんでそんなかっこしてんだよッ!」
「えー,だってあの恰好で電車乗ると目立つんスもん」
云われてみれば尤もな理由だ。けれどもこの恰好だって別の意味ですごく目立つ。
無造作にサイドの髪だけを後ろでひとつに括ったせいで,いつもより若く見える。
帽子がないせいで整った顔も丸見えだ。さぞかしあちこちで視線を集めてきたことだろう。
それを考えると少しだけ面白くない。
一護は口をへの字にしたまま浦原に向かって手を伸ばすと,髪を括る紐を引っ張って解いた。
「一護サン?」
浦原が僅かに目を丸くする。
一護は視線を合わせないまま紐を持った手でぐしゃぐしゃと浦原の髪を掻き混ぜた。
「オマエなんかそれでジュウブンだ」
頑なな声音から何かを察したのか,浦原は黙って一護のするままに任せ,一護の手が離れていくとそれを捕らえて指を絡めた。
「さ,行きましょ?」
「手,離せ」
「いいから!」
仏頂面の一護と上機嫌な浦原は街灯の明かりばかりが白々と眩しいすっかり夜の気配に染まった路地を大通りに向かって足早に歩いた。
通りでタクシーを捕まえて,四半時ほど走らせた後,浦原は「次の交差点越えたところで」と運転手に指示を出した。
会計を済ませる浦原に先んじて外に出た一護は通りを左見右見し,電柱に記された住居表示をじっと見つめた。
「ええとね,こっち」
一護の腰をぽん,と叩いて促すと浦原は先に立って歩き出した。
「待てよ!」
細い路地を躊躇いなく歩く浦原の後を追って一護も歩き出す。
浦原が足を止めたのは,一見のこじんまりした店の前だった。
「ここ?」
「ここ」
からからから,と音を立てて引き戸を開ける。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声に迎えられ,暖簾をくぐると,白木のカウンタが眩しかった。
中ほどに先客が一組。
浦原はカウンタの中に立つ白衣の板前に目顔で合図すると先客の後ろを通ってカウンタの一番端の席に向かった。
板前と同じ白衣に身を包んだ若い男がそっと浦原の後ろに立った。
浦原は左手の席を一護に示しながら「じゃ,すみません」と脱いだ上着を板前に預ける。
場慣れした仕草に一護は見入るばかりだった。
上着を預かったのとは別の若い男がやってきて,二人の前に湯呑とおしぼりを差し出す。
ご注文は,と控えめに尋ねられると浦原はシャツの袖を捲りながら「えーとアタシはお刺身とお酒で。一護サンはどうします?」と一護に振った。
「ど,どうしますって…」
「お好きなものをドウゾ?」
「…………」
一護はどぎまぎしてるのをまんま顔に出したままカウンタの上にずらりと並べられた墨書の品書きを眺めた。
「たまご」
ぽつりと呟いてから,シマッタ!と思った。
品書きのどれもこれも値段が書いていずに,選ぶ基準など見出せなかった。
だからって玉子って,一体。
笑われる,とびくびくしながら浦原のほうを見ると,意外にも浦原は表情を崩していず,「じゃあとりあえずたまごひとつお願いできます?」と板前に告げていた。
「飲み物は?」
「お茶でいい」
「ビールとかじゃなくて?」
「あのな,俺,どう見たって未成年だろうがッ!」
ふたりのやり取りを穏やかに見つめていた若い板前は注文を取ると一礼し,姿を消した。
「……ガキ,て思ってんだろ」
「何が?」
「……たまご」
「え,ここのたまご美味しいんですよ?」
「…………」
一護はおしぼりで手をぐいぐい拭くと,だまって茶を啜った。
店の中は音楽も流れていず,先客の交わす会話のひそやかな声と,カウンタの中で板前が立ち働く音だけがしている。
一護は視線のやり場に困って茶ばかり飲んでしまう。
浦原は頬杖をついてカウンタに置かれた一輪挿しの黄色い花を指でつん,とつついた。
「お待たせしました」
酒と刺身と卵焼きがやってきた。
浦原は手酌で猪口に酒を満たすと一護に向けて乾杯,の仕草をしてみせてから旨そうに啜った。
刺身は五品。
品よく盛られてどれもこれもが美味そうだった。
そして卵焼き。
ぽってりとした黄色に焼印で店の名前が押してある。
箸で切り分けると,切り口からはふわり,出汁のいい匂いのする湯気が立ち上った。
ぱくり,口に放り込む。
美味い。
ふわふわにやわらかくて甘くて出汁が効いていて。
そんな言葉ひとつひとつが陳腐になる。
一護は俄かに空腹を感じ,身体はそれに素直に反応した。
ぐう,という微かな音を聞きつけた浦原はくすりと笑って箸を伸ばしてきた。
「美味しいでしょ?」
こくり,とうなずく一護に目元を和らげたままカウンタ内の板前に声をかける。
「このひとに握り,お任せでお願いできます?お腹空いてるみたいだからしっかりめで」
「かしこまりました」
無言で卵焼きをぱくつく一護に,浦原はそっと顔を寄せると「緊張することないんスよ。遠慮もいらない。おいしく食べれば,それがイチバン」と囁いた。
一護は返す言葉に困って,しばし口を噤んだあと「その…刺身も食っていい?」と小さな声で尋ねた。
ドウゾ,と浦原が差し出した皿から白身の一切れを取る。
醤油をつけて口に放り込んだそれは,鯛の刺身だった。
「この湯呑さ」
一貫ずつ出される寿司をいくつか食べた後,だいぶ緊張が解れたのか一護は手にした大振りの湯呑を浦原に示した。
「こんなすっげー店でもやっぱ漢字なのな」
一護の云うとおり,湯呑にはぎっしり魚偏の漢字が記されていた。
「あじ,あわび,いわし,うなぎ。くじら,こい,さけ,さば…」
ひとつずつ拾い読んでいく一護。
浦原は猪口に酒を満たしながら「全部読める?」と冷やかした。
「全部かどうかはわかんねーけど大概読めるぞ」
「じゃあこれは?」
行儀悪く浦原が箸で指し示した先には「魚」偏に「堅」の文字。
「かつお,だろ?」
「オヤ,正解」
「馬鹿にすんなっつの」
得意がる一護に,面白がった浦原は次々漢字を指し示す。
すずき,たい,はまち,ひらめ。わかさぎ,むつ,ます。
国語が得意だというだけあって,一護は「魚」に「花」と書く「ぼっけ」や「魚」に「養」と書く「ふか」なども難なく読んだ。
「これは?」
「ぶり」
「こっち」
「わに」
「ほんとに得意なんスね」
「馬鹿にすんな,つっただろーが」
「じゃ,最後にこれは?」
浦原が箸ではなく指で示した先には「魚」に「喜」の文字があった。
「きすだろ」
一護が得意そうに云うと,顎に触れる指の感触。そして次の瞬間視界いっぱいに浦原の顔が迫り,ちゅ,と音を立てて唇が重なった。
「ばっ!」
思わず声を荒げた一護に「しーっ」とわざとらしく指を立てて見せ,浦原はにぃ,と口の端を引き上げる。
「なにすんだよ!」
声を潜めながらも感情の鎮まらない一護は,カウンタの上に伏せられた浦原の手の甲を摘むとぎりぎりと抓った。
「い,痛い。一護サンそれ痛い!」
「当たり前だっつの!場所とか場合とか考えやがれ」
「え,だって…」
「だってが何!」
ぎろりと睨み付けた一護の視線を難なく受止め,浦原はくふりと笑うと一護に抓られてる手と逆の手で自分の湯呑を掴んで一護に見せた。
親指の先が示しているのはさっきの「きす」という漢字。
「それがどうしたんだよ」
「魚に,アタシでしょ? だからキス」
「…………わけ,わっかんね」
浦原の手の甲を抓る一護の指からするりと力が抜けていく。
離れていくその指を素早く攫うと,「唇が駄目ならじゃあこっちで」と浦原は指を絡めた一護の爪の先にちゅ,と唇を押し当てた。
「オマエ,酔ってんだろ」
「えぇ。酔ってます。だから大目に見て?」
許す子どもと甘える大人。
一護は深々と息を吐くと,皿の端に盛られていた我利を箸でつまんで口に放り込んだ。
Fin
(2006.10.22)
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Flying colors // Ritsu Saijo presents
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