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Innocent vamp

-- impassioned glance --





混雑のピークを過ぎた午前0時過ぎ,一護は最後の仕事とばかりに厨房と洗い場周りをダスタで磨き上げていた。
最終的な清掃は店のマスタである京楽が行っていたが,その手間を最小限に抑えるところまでが自分の仕事,と決めていた。
最後に使ったダスタをきれいに濯いで厨房の隅に干し,6時間に及ぶ立ち仕事でがちがちになった腰をとんとん,と叩いて解した。
ちりん,と耳慣れたベルの音に顔を向けると店との通用口で京楽が手招きをしていた。

「はい?」
「お客さんだよ」

客。
思い当たるのは二人しかいない。
脳裏に二つの顔を浮かべながらゴム引きのエプロンを外してステンレスの冷蔵庫に映った自分の姿を見た。
髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ,首をこきりと鳴らす。
店へと続く潜り戸から「お疲れ様です」と京楽に声をかけ,ちらりとカウンタを覗くとその端にセルフレームの眼鏡をかけた品のよい男の姿があった。
男は顔を覗かせている一護に気づくと,男は手にしたグラスを掲げ,カラリと鳴らして見せた。
それに目顔で頷き,奥のテーブルに二人連れの客の姿があるのを確認した後,一護は顔を引っ込めて裏口から店を出た。
ひと一人がやっと通り抜けられる細い路地を抜け,店の入口に回る。小さく深呼吸をひとつして,重たい樫の扉を引いた。

からん,ころん
古びたカウベルの音がして,カウンタで京楽が「いらっしゃい」と微笑んだ。
一護はぺこりと頭を下げてカウンタの端――藍染が坐るスツールの隣に腰を下ろした。

「仕事はもう終わりかい?」
「はい。十二時までなんで」

腰を落ち着けて息を吐くと,隣でくすりと藍染が笑う気配がした。
一護は触れそうなほど近い右腕からその気配を感じながら,やっぱり似ている,と先ほど二つ思い浮かべた顔のうちのもうひとつを再び脳裏に思い浮かべた。

「彼は?」
「さぁ。家でゴロゴロしてるんじゃないんですか」
「ふぅん。せっかく月がきれいな夜だと云うのに」

気のない声で云う藍染に一護は返す言葉を見出すことができずに,カウンタの奥にずらりと並べられた酒瓶を見つめた。
天井からのスポットライトが反射して光の破片がそこここに散っている。

「お待たせしました」

京楽が一護の前にことん,と湯気の立ったグラスを置いた。
甘い果実の匂いが立ち上っている。

「あ…」

一護が小さな声を上げ慌てて礼を云うと,カウンタの向こうで京楽が洒脱に片目を瞑った。

「それは?」

藍染がグラスを覗き込むように身体を寄せると甘い匂いがふわりを鼻先を掠め,一護はくらりと眩暈を覚えた。

「ホットワイン,です。俺,あんまり酒強くないんで」
「へぇ」

こうして時折藍染が一護のアルバイト先に顔出すようになってかれこれ半年が経った。
浦原は未だによい顔をしないが,一護は吸血鬼という存在についてあれこれ教えてもらうということもあって,また浦原の「血主(シンアコルダ)」である藍染という男に興味もあって,藍染がやってくる度にこうして一杯か二杯の酒をつきあうことにしていた。

「一護,君はファルメクは知っているかい?」
「ふぁるめく…?」

低めた声で告げられた言葉に,一護は首を振る。
そしてグラスからワインを啜ると話の続きを待った。

「ファルメクは『魅了』と言い換えることもできる。視線で相手を操る吸血鬼の能力のことだ」
「操る…?」
「そうだ。血を与えることによって従属を誓わせ半不死を与えられたレンフィールドとは違い,ファルメクはあくまで一時的なもの。しかしこれから先きっと必要になるから覚えておくといい」
「どう,やるんですか」
「そんな難しいことじゃない」

安全はカラン,と音を立ててグラスを揺すると,それをカウンタに戻し,ゆっくりと眼鏡を外した。そしておもむろに前髪を掻き上げると一護にこちらを見るようにと命じた。

「私の目を見て。そうだ,それでいい」

レンズ越しではない藍染の漆黒の瞳を見つめていると,くらりと視界が眩んだような気がした。
意識はそこにあるのに,身体の外側が分厚い透明な膜で覆われてしまったような不可思議な心地。
頭の芯がぼうっとする。
それなのに一護は目を逸らすことができずに藍染の瞳を見つめ続けた。

「一護」
「…はい」
「キスを」

差し出されたのは藍染の左手だった。
一護は躊躇なくその手に恭しく自分の手を添えると,甲に唇を押し当てた。

「上出来」

くすり,藍染が笑った。
それと同時に一護の呪縛が解け,靄がかかったようになっていた頭がクリアになる。
藍染の手を握り締めたままでいた手を慌てて解き,「今の…!」と赤らんだ顔で藍染を見つめた。

「そう,今のが魅了(ファルメク)だ。相手の瞳を見つめて強く命じる。そうすれば一時的ではあるが相手を操ることができるようになる」
「なんか…物騒な話ですね」

効果の程を実感した後ではそう軽々といいことを聞いた,とは思えなかった一護は複雑な顔ですっかり冷めてしまったワインを啜った。

「深く考えることなどないさ。相手を操るなんて云えば大層に聞こえるが,人間だって眼差しひとつで恋に落ちることもあるだろう? 私達吸血鬼の魅了(ファルメク)は人間のそれよりほんの少し強いだけのことだ」
「そういう…もんですかね」

やっぱり釈然としないまま言葉を濁す一護に「君も一度やってみればそんな大仰なことじゃないってことがわかるさ」と藍染は微笑んだ。






藍染と店の前で別れた後,一護は三杯飲んだホットワインのほろ酔いの心地のままゆらゆらと歩いて部屋に戻った。
エレベータを待つ間,先ほど教えられた「魅了」について考えを巡らせる。
どういったときに必要になるのか,はそう考えずとも理解できた。
しかしひとから血を吸うことをしない自分にとってはそう必要な技術であるとは思えない。
けれども,出来たほうがいいというのなら…試してみないテはないかもしれない。

恐らく酔いのせいもあったのだろう。
常ならば回避する浅はかな考えに一護はなんの躊躇いもなくとりつかれ,上機嫌にくすりと笑った。

「おかえりなさい」

リヴィングのドアを開けると一護が「ただいま」を云う前にソファから浦原の声がかかった。
肘掛に背を預け嫌味なほどに長い脚を伸ばして本を読んでいるらしい浦原の後姿を見て,むくむくと悪戯心が芽生える。
一護はコートも脱がずに浦原の背後に立つと,浦原の両頬を掌で包み込み仰向かせるようにしてそっと自分のほうへ向かせた。

「一護サン,手,冷たいっスよ?」

眼鏡越しに見上げてくる浦原の瞳。それをじっと見つめ,強く強く念じる。
自分の云うことを聞け,と。
程なくして浦原の瞳からすっと色が引いていくような気配があった。

効いた,のか?
一護は胸をどきどきさせながら小さく咳払いをすると「コーヒーが,飲みたい」と小さな声で云ってみた。
浦原はす,と立ち上がるとキッチンへ姿を消した。
豆を挽く小さな音が聞こえてきて,一護は効果の程にひとり目を見開いた。

すげえ,ほんとに効いた…!
コートを脱ぐと一人掛けのソファに腰を下ろして浦原を待つ。
浦原は普段ならば使うことのないトレイにひとり分のコーヒーカップを載せて戻ってきた。

「さんきゅ」

匂いだけで丁寧に淹れたことがわかる。
一口啜って,ちらりと浦原のほうを窺うと,浦原は色の引いたままの瞳でじっと一護を見つめていた。

ふ,と頭を過ぎった考えに,一護は思わず顔を赤らめた。
なんて馬鹿なことを。でも,試すくらいは。少しくらいなら,いい,よな…?
ごくり。
喉を鳴らしてコーヒーを嚥下する。
ことん,とカップをテーブルに戻した後,深く息を吐いて,口を開いた。

「浦原」
「……」
「…ぎゅっと,しろ」

柄にもなく緊張して,声が震えた。
浦原はほんの一瞬動きを止めた後,すっと立ち上がると一護の前に膝をついて,腕をゆっくり伸ばしてきた。
まるで,壊れ物にそうするようにそっと触れ,抱き締められる。

「やらしくなく,ぎゅっとしろ」

重ねて言うと,巻きつけられた腕に力が篭る。
身体と身体の隙間がぴったりと埋まるような安心感。
一護は解けるように身体から力が抜けていくのを感じながら浦原の肩に鼻先を埋めた。

浦原の匂い。
煙草と,自分と同じ石鹸と,シャンプーの匂い。
背中に回された腕には少しずつ力が込められていき,いつしかすっぽり抱きすくめられた。

「うらはら…?」

自分を抱く,浦原の肩が震えていた。
一護は怪訝に思って,浦原の服の裾を引く。
しかし腕は一向に緩まなくて。

「放せ」

命じてみても駄目だった。
震えは少しずつ大きくなっていき,やがてそれが笑っているのだと一護にもわかった。

「浦原,オマエ…!」

叫ぶように一護が声を荒げると,浦原は一護をぎゅうぎゅう抱き締めたまま,とうとう堪えきれなくなったようにくつくつと笑い出した。

「放せってば!」
「嫌」
「イヤじゃねぇだろ。馬鹿!」
「一護サンが命じたんでしょ?」
「俺が放せっつってんだ!」
「ていうか…あははははは!一護サン,可愛いすぎ…」

笑うな!
真っ赤になって一護は身体を捩ったが浦原の腕は緩むことなく,抱き締められたまま頬だのこめかみだのにちゅ,ちゅ,と唇を落とされる。居た堪れなくなった一護が「も,マジ頼むし!」と悲鳴じみた声をあげると,ようやく笑いを納めて浦原はこつん,と額を一護の額にぶつけた。

「またあの男にクダラナイこと吹き込まれましたね?」
「…………」
「一護サンは自分を守る術なんて知らなくたっていいんスよ」
「そういうわけにはいかねぇだろ」
「なんで?アタシがいるのに」

なんの躊躇もなく云う浦原に,一護は眩しさにも似た感じを覚え口篭る。

「…そういうわけにはいかねんだよ」

目を伏せたまま重ねて云えば,浦原は何も云わずにくしゃりと一護の頭を撫でた。

「それにしたって,『やらしくなく』って…」

再び笑いの発作に駆られたのか,声が震えている浦原を一護はジロリと睨みつけた。

「るっせ。ヘンタイ!エロオヤジ!」
「…エロオヤジって。いつだってねだってくるのはイチ」

ぎゃああああ!と浦原の声を遮り,一護は「つーか!」と会話の主導権を強奪した。

「なんで効かねんだよ!吸血鬼同士は無効ってわけじゃねんだろ?」
「えぇ。そりゃもちろん。けど如何せんアタシと一護サンじゃ,ねぇ?」
「ンだよ,それ」
「試してみる?」

きらり,浦原の瞳が剣呑な光を帯びた。
一護はがばりと身体を起すと,ソファの上をざりざりと後退り,ぶんぶんと首を振る。

「や,いらね!そんなのさっきので十分…!」
「さっきの?」

一護の言葉尻を捉えて浦原の左の眉がひゅう,と上がった。それを目にした一護は,シマッタ!と慌てて口を覆い,しどもどと「なんでもない。云い間違えた!」と弁解したが,そんなものに浦原が誤魔化されるはずもなく。

「一護サン?」
「や,ほんと,たいしたことじゃ…」
「たいしたことかどうかはアタシが決めます。何があったの?」
「……云ったらオマエなんか怒りそうだし」
「怒られそうなことしたんだ?」
「う…」

一護は追い詰められて,口を引き結んで浦原を見た。

「正直に云わないと」

浦原の声は決して荒々しいものではなかったが,その分首筋に氷の刃を押し当てられたような威圧感があった。一護は観念するといくつもの言葉を継ぎながらさきほどの藍染とのやりとりについて説明した。

「ふぅん…それで一護サンはおめおめとあの男にキス,したんだ?」
「や,キスっつってもほら,手だし」
「場所なんか問題じゃないでしょ」
「だっ…!仕方ねぇだろ!」
「仕方ない?」

ひたと見据えられ,一護はぐっと言葉に詰まった。

「…どうしろってんだよ,俺に」

巧妙にひとつずつ逃げ道を塞がれ,たったひとつ罠へと続く道だけがそこに残されていた。そうと判っていても,一護はそこへ逃れるしかない。
悔しげに唇を噛み締め,浦原を見ると,浦原はにっこり笑うと「キスして」と囁いた。

「は?」
「あの男には,操られて仕方なくキスしたんスよね?」
「あ,あぁ…」
「じゃあアタシには一護サンが自分からしてくださいな」
「な,んでそんなの!」
「嫌なの?」
「い,嫌に決まってるだろ!」

真っ赤になった一護が吠えるように云うと,浦原はくっきりとした笑顔を浮かべた。
ぞわり,一護の背筋に嫌な予感が走る。

「別にアタシも使ったっていいんスよ?魅了」
「え」
「アタシは『いやらしくなく』なんて勿体ないこと云いませんけどね。おもいっきりイヤラシク,あんなこととか,こんなこととか…」
「っ! すりゃあいいんだろ!」

くわッ!と噛み付くように一護が叫ぶと浦原はしてやったりとばかりに人の悪い笑みを浮かべた。
そして一護の手を引き立ち上がらせると自分がソファに腰を下ろす。
一護が仏頂面で立ち尽くしたまま浦原を見下ろしていると「何してるの?」と云いながらぽんぽん,と自分の膝を叩きそこに坐るように促す。

「なっ!」
「使ってもいいの?」
「使うなッ!」
「だったら,ここに」

ぽんぽん,再び叩かれた膝を一護は射抜かんばかりに睨みつけた後,渋々そこに腰を下ろした。
浦原の膝に坐ると,視点が浦原よりも高くなりわずかではあったが見下ろす格好になる。
顎を持ち上げ,見上げてくる浦原の顔は,いつも見ているものとはどこか雰囲気が違って,それだけで心臓が跳ねて頭に血が上りそうになる。

なんでこんな恥ずかしい目に…。
数分前の浅はかな自分を蹴飛ばしてやりたかった。
しかし後悔先に立たず,とはよく云ったもので,もうどうやっても逃げようがない。
そのことは痛いくらいにわかっていた。

「目,くらい閉じろよ馬鹿」
「嫌」
「フザケンナ」
「だって,こんな機会滅多にないっスもん。しっかり目に焼き付けておかなくちゃ」

楽しくて仕方がない,という風な浦原に,一護は忌々しげに舌を鳴らす。

「いつでもドーゾ」
「…サイアク」

頬に手を添え,目を伏せる。
心臓がどくどくと音を立て,煩い。
眉間に皺が寄ったのがわかる。
けれども構うもんか。
一護はぎゅっと目を瞑ると,そのまま浦原に口付けた。

口付けが一度で終わることはなく,抱き締められる腕の中で一護の体温は徐々に上がっていく。
先ほど口にしたホットワインとは違う甘さに酔い痴れながら,一護は濡れた瞳で浦原を見上げた。

「ねぇ一護サン。キミは魅了なんて使わなくても,その眼差しひとつでアタシのことをどうとでもできるんですよ」

甘く掠れた浦原の声。一護は解けた理性の端でそれを聞いた。






Fin
(2007.01.07)





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