染爪
-- Nightingale's heart-blood can crimson the heart of a rose. --
「おや,一護サンいらしてたんスか?」
扉の向こうにある気配をいち早く察し,取っ手に手をかけ引き開けながら浦原は声をかけた。
縁側の柱に背中を預け,見るともなしに庭を眺めていた一護が振り返る。
時刻は日付が変わって半刻ばかり回ったところ。
普段ならば一護が出歩く時間ではない。
虚退治でないことは,生乾きでくたりとした髪と,ジーンズにフード付の上着という恰好からも見て取れる。
しのつく雨にささくれ立っていた気分が解けていくのがわかった。
なんと単純な。でも悪くない。
「こんな遅くにどこ行ってたんだよ不良下駄」
浦原の視線の先で一護が唇を尖らせる。
そんな表情すら愛しくてふくりと口元が緩むまに,後ろ手に引き戸を閉めて真っ直ぐに歩み寄れば,甘え混じりの険しい視線が真っ直ぐに向けられる。
甘い砂糖菓子をひとつ口の中にほうり込まれたような心地がした。
砂糖菓子は舌の上でしゅん,と溶けて,消えた甘さ恋しさに浦原は腕を延ばして一護をぎゅう,と抱き寄せる。
「苦しい。放せ」
「嫌」
「嫌じゃねえよ。それよりオマエ,俺の鞄から課題抜いただろ」
放せというくせにさしたる抵抗もせずに声だけで非難する一護をさらにぎゅうと抱きしめて,浦原はその髪に鼻を埋めた。
「んー,いい匂い。お風呂上りっスか?」
「…ひとの話を聞け」
不興気な声に,浦原はひっそり笑って腕を解く。
背中から頬に手を滑らせて両手で挟みこむと,その目をじっと見つめた。
視線のやり場に戸惑って,しかし逃げられる場所はどこにもなく,しばし揺れた後にぎっと睨みつけてくる一護の瞳を浦原は愛でる。
それからわざとらしく視線をそらせ,遠い記憶を探るようなふりを見せた。
「課題? ああ,今日のアレね…」
「アレね,じゃねえよ! さっさと返せ」
「んー? でもどうして一週間も先の提出日の課題をうちでやるんスか」
「どうしてもこうしてもねえよ。出たからやっただけだろ」
「別に今日じゃなくてもよかったはず」
悪戯な光を目に点したままにっこりと笑うと,一護はにわかに口篭った。
「…気合がいる課題だったんだよ」
「ふうん…てっきりアタシに対する嫌がらせかと思いまして。だから意地悪したんスよ」
「意地悪…,だからって普通抜くか?」
「普通なんてアタシの知ったことじゃない」
言葉で詰り視線で撫でる浦原に,ふるふると瞳を揺らせた一護は,頬を挟む浦原の手を剥がすべく手を上げた。
その爪先に浦原の視線が延びたのはほんの一瞬。
「何これ?」
掴まれたのは左手。
その小指の爪が薄赤く染まっていた。
一護は悪戯が見つかった子どものような顔で慌てて手を引いた。
左手を右手でしっかり握りこんで浦原の目から隠す。
「そんなことしたって無駄っスよ。しっかり見ちゃった。どうしたんスかその赤い爪」
問い詰める浦原に,口篭る一護。
浦原は焦れたように手を伸ばして一護の細腰を引き寄せると膝の上に座らせた。背中から抱き込むように腕を回して,握られた両手を自分の手で包む。
そして握りこんだ指を一本一本外していく。その感触に一護は諦めたように口を開いた。
「水色にやられた」
「やられた?」
「ああ。彼女に塗ってやりたいから,練習台になってくれって云われて」
「どうしてキミが?」
「……じゃんけんで負けたから」
一護がぶつ切りの口調で事情を説明するのを聞くうちに,浦原の視線がすう,と細められた。
纏う気配が色を変える。ふうん。と凍てついた声。
「浦原?」
「ちょっとここで待ってて貰えます?」
一護を膝から下ろすと触れたら痺れそうなほど冷たい空気を纏わせて浦原は立ち上がった。
そして返事も待たずに部屋から出て行く。一護はざわざわと背筋を冷たいものが這い上がるような心地を覚えて,ぶるり,身を震わせた。
「お待たせしました」
引き戸を開けて入ってきた浦原が抱えたものを見て一護は目を見張り,続いて首を傾げた。
その腕にあったのは食卓に据えるような背のある椅子。茶の間でもこの部屋でも見たことのない椅子だった。
「何だそれ」
一護の問う声を無視して文机の横に椅子を据える。
ぴしゃりと音を立てて障子を閉めると文机の上の行灯の光が障子紙に反射して部屋の中の明るさが少しだけ増した。
浦原は椅子の前に腰を下ろすと板の打たれた腰を下ろす部分をぱしんと叩いて一護を見た。
「一護サン,ここへ」
「…やだよ。何する気だオマエ」
「いいから,ここへ」
部屋を出て行ったときよりもさらに冷えた声音で続けられると,一護は否とは云えなくなった。
否などと云おうものならなにをされるか。想像の及ばない生理的な恐怖に,こくん,と喉を鳴らして腰を上げると,云われたとおり椅子に腰を下ろした。
足元に胡坐を掻いた浦原が,視線を上げて一護を見ながら羽織を脱ぐ。
「そっちの手,貸してくれます?」
赤く染まった爪のある手を顎でしゃくるようにして示された。
ほんの少し躊躇の後,おずおずと差し出せば,纏う冷えた空気とは裏腹にやさしく手を包まれた。
浦原は一護の手をとったまま,脱いだ羽織の袂を漁り,がちゃがちゃとガラス壜や皮袋を取り出した。
そのうちのひとつ,うす青い液体の入った壜を手に取ると,器用に片手で蓋を開け,柔らかな綿に中の液体を滲み込ませた。
眉間がじゅん,と重く痺れるような甘ったるい匂いがする。
一護が眉間に皺を寄せるのと,その液体の滲みた綿が一護の指先に当てられるのは同時だった。
「なに,すんだよ」
「落とします」
「何を?」
「エナメル」
吐き捨てるように云った浦原に一護は脅えた。
何をそんなに怒ってるんだ。
しかし問い返す言葉は見つからず,ただ,指先を浦原に委ねた。
甘ったるい匂いの滲みた液体で爪先を拭われる。
指と爪の間から際を通って甘皮まで。撫でるように,そして時折引っかくように。
落ちきっていなかった左手の小指だけではなく,見えない残滓を拭い取りでもするかのように薬指,中指と順を追って拭われた。
「右手も」
「…こっちは塗られてねえ」
「そう」
浦原は身体を起こすと身体を少し後ろにずらし,一護の足を手に取った。
一護の制止の声も聞かずに靴下を脱がす。
その下から現れたのは扇情的な赤に染められた五本の爪。
浦原が舌を鳴らす音が小さく,しかし確かに響いた。
「落とす薬が足りなかったんだよ」
自分の声がいいわけじみて響いて,一護は表情を曇らせた。
別に悪いことをしたわけでもないのに,どうして自分はこんな声を出しているのか。
一護の煩悶をよそに,浦原は無言で手にした綿を取り替えると先ほどと同じようにうす青い液体を滲み込ませ,次々に拭っていく。
左足が終わると右足も。
部屋の空気がどんどん冷たく重くなっていく。
甘ったるい匂いに微かな頭痛を覚えながら一護は課題を取りに来たことを後悔し,じゃんけんに負けたからと爪を染めることなどを諾とした自分を後悔した。
「浦原」
呼びかけても答えはない。
一護はどうすることもできず,両脚の間に突いた手で身体を支えるようにして浦原の手元を覗き込んでいた。
そうこうしているうちにすべての爪から色が抜かれ,やや白んだ感はあるものの,常の状態を取り戻した。
これで解放される,と安堵の息を吐いた一護だったが,それはざっくりと裏切られた。
浦原の手が,傍らの皮袋に伸び,またしても何かを漁っていた。
「今度はなんだよ」
「…………」
浦原は胡坐から片膝を立てそこに一護の足を据えると,手にした細長い棒状のものを一護の爪に当てた。
「浦原,なにす…」
一護が皆まで云う前に,その棒が,しゅ,しゅ,と微かな音を立て左右に動かされ,形を整えるように擦られる。
爪を磨かれているようだ,と納得はしたものの,一体どうして,という疑問は尽きない。
問うても答えぬ浦原を前に,一護は重苦しい気持ちのままただ行為を見守った。
浦原の手は実に器用に一護の爪を磨き上げていく。
第一指,二指,三指。
小さな爪に的確に鑢を当て,角度を持たせ,小刻みに動かす。
瞬く間に右足を終え,同じように左足に取り掛かる。
「浦原」
「…………」
「何怒ってんだよ」
「怒ってる?」
「怒ってねえの?」
「怒ってるように見えます?」
手を止めずに熱のない声で云う浦原に一護はますます息苦しさを募らせていく。
「…見える」
「アタシが怒るようなことした自覚は」
「知るかそんなの」
「じゃあいいじゃないスか。気にしないで。アタシが勝手にやっていること」
自嘲めいた物言いに,一護の胸がちくりと痛む。
そんな痛みを自分が感じる覚えはない。それなのに。
俯いて視線を隠す浦原の頭の天辺を見つめながら,一護は上着の胸の辺りをぎゅっと握り締めた。
浦原は左足の爪も全て鑢上げると「今度は手」とようやく顔を上げた。
見上げた先に泣き出しそうな一護の顔を見つけ,薄笑いを浮かべる。
なんて可愛い。
でも。
「早く」
射込むような視線を向けて掌を差し出せば胸元を握り締めていた手が解かれてのろのろと差し出された。
「…なんでこんなことすんだよ」
「したいから」
「…したいからって」
「嫌?」
「嫌じゃないけど…」
少し恐い。
声にはならなかった一護の言葉を浦原は聞いた。
胸のうちにうす赤い花が咲く。
ふわり,ふわり,いくつも,いくつも。
それを指で突くように口の端に笑みを載せると,触れた指先からほんの少し一護の緊張が解けるのが伝わった。
「恐がらないで。痛いことしてるわけじゃないでしょ?」
「恐がってなんかねえよ」
「そう?」
強がる声も震えているのに。
けれどもキミがそういうのならばそうなんでしょう。
浦原は足よりもさらに丁寧に指先に鑢を当てた。
切りっぱなしの爪をきれいな弧を描くように丁寧に形を整えていく。
一護の緊張は触れた指先から如実に伝わり,浦原の胸のうちにいくつもの花を咲かせる。
口の端に浮かんだ笑みもそのままに,少しずつ緩やかに一護を追い詰めていく。
「はい,そっち」
左手を磨き終え右手を要求する際にちらりと目を上げ,一護の顔を覗き込む。
やだ,というように首を振る一護を咎めるように見つめると,さらに強く首が振られた。
「どうして」
「だってオマエ変だ」
「嫌がるなら無理矢理しますよ?」
「だから…なんで…」
消える語尾に一護の戸惑いと不安がくっきりと現れていた。
独占欲も執着も知らないコドモの顔。
キミがどんな顔でアタシの知らない誰かに手を足を任せたのか,アタシがそれにどれほど嫉妬を覚えるか,そんなことはキミの知ることじゃない。
キミはただ,アタシの怒りを知ればいい。
アタシに脅えて震えてくれればそれでいい。
嗜虐。
揺れる一護の表情を見るうちに浦原の身の内に毒々しい色の目をした獣が目覚めつつあった。
痛いことはしないっスよ。でも泣かせたいかも。
ひっそり笑って手を伸ばし,縮こまった一護の右手をそっと握った。
「しばらくイイ子にしててくださいな」
視線を指先に据え再び鑢を動かす。
ひしひしと伝わってくる緊張に出来心でわざと鑢の角を爪の付け根に食い込ませた。
ひゅっと息を呑む気配。
手を止めて微かに赤くなったそこに唇を押し当てる。
一護の肘の辺りがぴくんと震え,浦原に歓喜を齎した。
「手元が狂いました」
「…………」
わざとらしく詫びれば,一護からの答えはなく。
視線を合わせることもなく,すべての爪を磨き上げた。
「ふう」
息を吐いて身体を起こすと,ざっと一護の手が引かれた。
「もういいだろ。俺,帰る!」
椅子から立ち上がろうとするのを,捉えた足首を強く引くことで留めた。
がたん,と椅子が揺れる。
一護が息を呑む気配。
「誰が帰っていいっていいました?」
冷たく言い放つと「まだ気が済まねえのかよ!」と悲鳴じみた怒声が叩きつけられた。
掴んだ足を更に引く。再び立てた膝の上にそれを据えると「こんなものじゃ全然足りない」と吐き捨てた。
傍らから薊色のエナメルが満たされた壜を取り出す。
無粋な赤よりこちらの方がこの子には似合うはず。
蓋を外し,小振りな筆に深い紅色のエナメルをたっぷりとしみこませて爪の上に載せた。
甘皮につかないように,爪からはみ出ることのないように,丁寧に,しかし手際よく一護の爪を染めていく。
そしてひとつ,またひとつ鑢で慣らされた爪の上に紅い花が咲いていく。
包み込んだ指先から伝わるのは一護の諦観。
下手に動くよりこのまま自分の気が済むまでやらせた方が楽だとようやく思い至ったのか。
けれどもアタシはそんな簡単な男じゃない。
俯いた下で歪んだ笑みを浮かべて浦原は筆を動かした。
左足,右足,左手,右手。
澱むことなく筆は動き,きれいに染められた爪が二十本揃った。
浦原が満足げな息を零し,エナメルの壜の蓋をきゅっと締めると,一護はおずおずとその手を視線の先に持ち上げた。
まだ乾かない爪は濡れた艶を放っている。
きれいな色だ,とは思うけれども自分には似合う色じゃない。
浦原はなんでこんなことを。
単なる嫌がらせか。そうなんだろう。
それにしてもこれはどれくらいしたら乾くものか。
乾く前にあの青い壜を借りて落としてしまえればそれが一番――。
物思いに耽る一護の眼前に浦原の作務衣の緑が迫った。
一護の開いた脚の間に身体を捻じ込み,ぎしっと音を立てて,椅子の上に膝を付く。
「な,なんだよ」
「…………」
無表情のまま,一護の両の手首を捉えると椅子の背の外側に押し遣った。
そして顎を捉えて唇を重ねる。
「んっ…や,め…」
手が戻されて浦原の襟を掴もうとする。
それを止めるのに一番効果的な言葉を浦原は吐いた。
「服,汚さないでくださいね。エナメルって落ちないんで」
「ふざけ…っ」
「アタシは別に構いませんが,テッサイが気にします」
一護の脳裏に強面ながらも気のいい大男の顔が浮かんだ。
いつも濃やかに気を遣い入り浸る自分のためにあれやこれや菓子を作ってくれるテッサイ。
あのひとを煩わせることは,したくない――。
一護の躊躇を諾と受け取った浦原は,更に角度を変え一護の口内を貪った。
自分が仕掛けた罠だったが,それに躊躇し諾とした一護に身の焼けるような苛立ちを覚えた。
濡れた音が響く。
舌を吸い,絡め,歯列の裏を撫で上げる。
唇を食み,鼻頭を擦りつけ,深く,深く,深く。
一護の息が濡れて乱れるまで,飽きることなく,何度も,何度も。
「うら,はら,もう…」
「もう?」
「やだ…」
「嫌…」
唇を重ねたままこくんと頷く一護に,浦原は「でもまだ許さない」と冷たく告げる。
喘ぐように息を継ぐ一護に,浦原は一際甘い声で呼びかけた。
「ねぇ,一護サン」
「………?」
「どうしてこんなことされるかわかる?」
「知るか…ッ」
「うん,それでいい。それでいいけど,アタシの気は済まないんで」
浦原はそう告げると身体を離し,床から皮袋の口を綴じていた細い革紐を拾い上げた。
そして一護に覆いかぶさるように背中に回した両手を掴むと,掌同士をぴたりと合わせて手首を括った。
腕の付け根に椅子の背に食い込み,微かに軋んだ音がする。
一護の眉間に皺が寄るが浦原はそこに唇を押し当てただけで斟酌はしなかった。
「一護サン,今日はちょっと泣いてもらいます」
甘い声音で一方的に宣告すると一護が声を発する前に,浦原は顎を持ち上げ,その喉元に歯を立てた。
Fin
(2005.10.24)
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Flying colors // Ritsu Saijo presents
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