声にならない声に
-- 奏ではあでやかに 今ただうららかに 抱きあうやわらかに 声にならない声に --
雨音が耳につく。
ぎゅっときつく耳を塞ぎ,ベッドの中一護はかたく目を瞑っていた。
どんなにきつく耳を塞いでも僅かな隙を縫って雨音は耳に響いた。
まるでどこからしみ出してくるのかわからない雨漏りのように。
膝を曲げ,襲いくる敵から身を守る様に身体を小さくする。
深く息を吐き,吸う。
その音だけに耳を澄ませ,雑多なものを追い出すべく集中する。
かつ,からからから,ぴしゃん。
異質な音がその集中を遮った。
窓が,開く音?
そんな馬鹿な。
一護は耳を塞いでいた手をそっと外すと頭の上までしっかり被った上掛けをそろそろと引き下げた。
窓から入り込む街灯の光を背に,見知った影が,そこにいた。
「……浦原?」
「夜分遅くスミマセン。会いに来ちゃいました」
硬い声だった。一護は闇の中で目を凝らしていたが,思いついて枕元のスタンドを付けた。
淡い橙色の光の中,影とそう大差ない黒い羽織を纏った浦原が浮かび上がる。
帽子を脱ぎ,濡れた髪をかきあげた姿で。
「……ちょっと待ってろ」
一護はベッドから抜け出ると足音を忍ばせ階下の浴室へ向かった。
バスタオルのストッカから一枚抜いて,再び部屋に戻る。
「傘はどうしたんだよ」
「差してたんスけど,急いだらこの有様で」
ばっかだな。呟きながらタオルを渡す。
浦原が脱いだ羽織をハンガにかけ,制服の横にかけた。
羽織はしっとり濡れて黒を濃くし重みをましていた。
「何しに来たって聞かないんスね」
「…………」
一護はその問いには答えずに羽織に寄った皺を伸ばす様に引っ張った。
…へっぶし!!
重たくなった空気を吹き飛ばす様にくしゃみの声。
一護は強張らせた身体から力を抜くと振り返り,寝乱れたベッドを顎でしゃくった。
「風邪引くから入ってろよ」
「………一護サンは?」
「もう一組布団出すから」
「ひとりじゃ寒いっスよ」
「わがまま云うな」
「云います。ひとりじゃ寒い」
一護が口籠って俯くと,浦原はすたすたとベッドに歩み寄りふとんを剥いでその上に座ると,傍らをぱんぱん,と手で叩き,一護を見た。
一護は諦めたようにため息をつくと,その空いた場所に身体を滑り込ませた。
「一護サン,やっぱり暖かいっスね」
「ガキだってんだろ?」
「気持ちいい」
「俺は寒い」
じゃ,もっと傍に寄って?
耳元で囁くと浦原は一護の腹に腕を回し引き寄せた。
うなじに唇を寄せ,その背に身体をぴったり密着させる。
「これで寒くないでしょ」
「……寒くねえけど,寝にくいぞ」
「蹴飛ばさないでくださいねン?」
「保証はできねえ」
背中越しに浦原の鼓動が伝わってくる。
雨音が遠ざかり,身体の芯から解けていくような感じがした。
かすかに身をよじって更に体温を馴染ませると穏やかな眠りが近づいてくるのがわかる。
意識が安らかな闇に到達する寸前,浦原の声を聞いたような気がしたが言葉は意味をなさなかった。
翌朝。
一護が目を覚ますと浦原はすでにベッドを出て羽織を纏うところだった。
「行くのか?」
「ええ。すっかりお邪魔しちゃって。寝にくくなかったスか?」
「………別に」
「じゃ,アタシはこれで」
窓に向かう浦原の背に一護は手を伸ばした。
振り返った浦原の顔を見ないまま「送ってく」と言い捨てベッドを出た。
雲は重たい色をしていたが雨は上がっていて,空気は脱水前の洗濯物のような風合いだった。
少し息苦しいのを堪えて深呼吸をする。
人気のない街をふたり並んで無言で歩く。
一護は空を見上げて,電柱の影を覗き,塀の上を走る猫を眺めた。
半歩後ろを歩く浦原の表情が気になったが振り返ることもできず益体のない動作を繰り返す。
「あ」
間の抜けた浦原の声。
「なんだよ」
「一護サン,ちょっと遠回り,いいっスか?」
袖を引き通り過ぎたばかりの角へ戻り左へ折れる。
「どこ行くんだ?」
「寄り道。いいものお目にかけましょ」
笑みを含んだ声。
袖を引いていたはずの手はいつのまにか一護の指に絡められていて,先ほどまでとは逆に手を引かれる格好になった。
「公園?」
「ええ。こっちへ」
しっとりと濡れた土の道を水たまりを避けながら歩く。
しばらく行くと,無彩色だった景色に突然色がついた。
見渡す限り延々続く紫陽花の叢だった。
「すげえ」
薄紅,薄青,青,青紫,白,明るいピンク。
濃い緑色の葉とそれらの花の対比は梅雨の重たい色彩には不似合いで,いや,その無彩色の中だからこそこんなにもあでやかに見えるのか。
一護は足を止めて息を飲んだ。
「そろそろ盛りを迎えるころかと思って。この時期じめじめしてヤァな季節っスけど,ヤなことばっかじゃない」
「……そだな」
花一つ一つを愛でる様に,また俯瞰してその色合いを楽しむ様に,一護は全身でその景色を楽しみながら浦原に手を引かれていた。
毎年この日が近づくにつれ,胸の奥に冷たい痛みの塊のようなものを感じるのはどうにもならなかった。
母の死の原因を知っても,その死自体をなかったことにはできない。
なくしたものは二度と戻らない。笑顔もぬくもりも,この手には二度と戻らない。
十分理解していることであっても,それが痛みを伴わないということにはならなくて。
気持ちが内へ内へ向いていく。
誰かの言葉は肌の上をすべっていき,浸透することはない。
音楽も,小説も,僅かに与えられる熱だけが厚い殻を突き破るようにして届いたが,それもその場限りのこと。
膝を抱えて耳を澄ませて,ただ,その日を迎え入れるだけ。
そう,それだけだったのに。
歩くスピードで後ろに流れていく花の色を惜しむ気持ちで一護は見つめ続けていた。
鼻の奥がつん,と痛み,涙が滲んだ。
服の袖でぐい,と拭う。
なにか云うべきことがあるような,でもこれだけで十分というような。
言葉が出ないので,自分の手を引く大きな手を握る手に少しだけ力を込めた。
応えるように握り返され,胸の奥に安堵が広がる。
ずるい。
ふっと沸いた言葉はそんなもので,一瞬だけ花から目を逸らし先を行く黒い背中をにらみつけた。
公園を抜けてしばらく歩いたところで「ここで,もう」と浦原が足を止めた。
一護は別れてしまうのがなんだか惜しくて「店まで行く」と云い募る。
しかし「一護サンが店まで来たら,今度はまたアタシが送らなきゃならない」と苦笑いする浦原に,渋々手を放した。
「じゃあな」
「ええ。また」
背中に浦原の視線を感じながら一護は踵を返した。
一歩一歩遠ざかる。
しかししばらく行ったところでくるりと振り返ると,まだこちらを見ていた浦原めがけて駆け出した。
その胸に体当たりをするように抱きつくと蚊の鳴くような声で
「サンキューな」
そして浦原がなにか云う前に今度こそ家へ向けて駆け出した。
浦原はしばしそこに佇んだまま遠ざかる姿をじっと見つめていた。
勢いよく一護の肩がぶつかった心臓のあたりが微かに痛んだが,その口元には企みのない笑みが浮かんでいた。
愛用のステッキを両手で持ち,背を伸ばすように伸びをする。
そしてゆっくり踵を返すと,店へ戻るべく下駄を鳴らして歩き出した。
Fin
(2005.06.17)
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Flying colors // Ritsu Saijo presents
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