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Stray current






一護は塀に凭れて俯いていた。
辺りを満たすのは秋の虫の声。
りーりーりーりー
くるるるるるるる
何種類もの声が,互いに反響し合うように一帯を埋め尽くしていた。

時刻は午前二時前。
普段ならば虚退治でもない限り決して出歩くことのない時間だ。

ため息が出る。
上手に眠ることができなくなって今日で10日が経つ。
父の医院から睡眠導入剤をくすねることも考えた。
しかし粗忽なようでその辺りの管理はしっかりしている父の目を盗むのはまず無理といってもよかった。

身体が参れば自然に眠れる。
そう思ってやたらと喧嘩に精を出してみた。
しかし結果は虚しく終わり身体の疲労とは別のところで頭が冴えた。

本を読めばいい。
しかし開いた頁はいつまで経っても捲られることはなく同じ行を行ったり来たりするだけだった。

酒を飲んでみる。
酔いはしたものの眠気が訪れる気配は微塵もなかった。
量を違えて一度吐いて,それきり飲む気は消え失せた。
羊の数を数えても,ヘッドホンで音楽を聞いてみても,結果は同じ。

足下が崩れ落ちるような恐怖が生まれた。
眠れないことへの恐怖とは違う,目を逸らし続けていたそれが,逸らしきれないほどの至近距離に突如として姿を表す予感,とでも云おうか。
部屋の空気が重たく澱み,息苦しさにに耐えきれなくなって外に出た。

ジーンズの後ろのポケットに両手の親指を引っかけ,空を見上げて歩いた。
小学校,神社,廃ビル。
友人たちの家を回り,灯りの消えた窓を眺めて歩いた夜もあった。
闇雲に足が草臥れるまで延々歩き,空が白んでくる頃に家に戻った。
そして倒れ込むようにしてベッドに入り目覚まし時計が鳴るまでの一時間半から二時間が一護にとっての睡眠時間となっていった。

今日。
夕方までのしのつく雨に夜の散歩は諦めていた。
ヘッドホンをして無理矢理目を閉じるか,それとも雑誌でも買い込むか。
憂鬱に沈んだ目で幾度となく窓の外を見ているうちになんとか雨が上がり,重たい雲の隙間から月の光が零れるのを見て,衝動的に外に出た。

足が向く先はひとつだった。
けれどもそれを自覚したら足が止まる。
だからわざと何も考えずに歩いてきた。






泣き笑いのような息が漏れた。
一護はゆっくり顔を上げると,塀に頭を預けて空を見た。
塀が遮り,上半分を切り取られた空には,まだ鈍い色をした雨雲の名残がそこここに浮かんでいて藍色の空をゆっくり右から左へ流れていた。
月齢13のふくれた月は西の空の低いところに貼り付いていて視界の中には映らない。
ただ,藍色の中に灰色のまだら模様が流れていくだけ。
上空では風が随分と強いらしい。

そうして喉が引き攣れるほどきつく仰向いて空を睨んでると,その藍色の視界をふわりと青味を帯びた煙が過ぎった。

――嗚呼。
瞑目。そして一護は名を呼んだ。

「浦原?」
「こんばんは。一護サン」
「………こんばんは」

久しぶりに聞く声だと云うのに,記憶の中と微塵も変わらない響き方をする。
そのことが無性に可笑しくて,無性に切なくて,一護は唇を噛み締めた。

「お久しぶりっスね」
「………………」
「部屋,寄りません?」
「いや」
「アタシがそっちへ行くのは」
「それも……悪い」

浦原の声が途切れた。
辺りはまた虫の声と,時折吹く風が草を揺らす音だけに閉ざされてしまった。
風が胸のうちを吹き抜けていくような心地がして,膝をぎゅっと抱え込むと,左耳が小さな気配を掴んだ。

「いいでしょう,でもこれくらいは許してくださいな」

再び響いてきた浦原の声が一護に届くのと同時左手の壁がほんの少し押し開かれたのだった。

「こんなところに戸があったのか?」
「ええ。ていっても滅多に使いませんけどね。夜一さんが猫でなしに夜更けに出入りするときとか」
「…なるほど」

ほんの少し明瞭になった声と,薄明かりがその隙間から零れている。
一護はきつく膝を抱え込んでいた手を解き手近にあった猫じゃらしを引き抜くと,その穂先にそっと触れた。

「そうだ」
「ん?」
「朽木サンからお手紙頂いたんスよ」
「朽木って…ルキア?」
「ええ。月球儀を手に入れて欲しいってお話しでした」
「ゲッキュウギ?」
「地球儀の月版みたいなものなんスけど,一護サン見たことありません?」
「ねえな」
「うちにあるのは1994年にNASAが月へ送り込んだ探査衛星のクレメンタインが撮った画像を元に作られたヤツなんスけど,結構精巧にできてますよン。今度お見せしましょっか。」
「その…月球儀って何が書いてあんだ?」
「地球儀と同じっスよ。地名…ていうんスかね。「晴れの海」とか「腐敗の沼」あとはクレーターの名前。「ケフラー」「ティコ」「コペルニクス」なんてのが書いてある」
「晴れの海に腐敗の沼?ゲームに出てきそうな名前だな。つーか月って水ないんじゃなかったっけ」
「ありませんね。影になって暗い部分を便宜上海とか沼に例えて呼んでるらしいっス」
「へえ。じゃあクレーターの名前は? なんか人名っぽいけど」
「それは天文学者の名前がつけてあるから。あ,日本人の名前もあるんスよ。「Nagaoka」とか「Nishina」後はなんだっけな…」
「そういや前に,映画のチケット買ったら月の土地の権利証がついてくるってのがあった」
「へええ,一護サン買ったんスか?」
「いや。話に聞いただけ」
「勿体ない」
「そうか?手に入れたって仕方ねえだろ。住めるわけでもないし」
「んー,そう云われてみればそうだ。…ああ,思い出した。大きなクレーターには天文学者の名前がつくんスけど,小さなのには一般的な名前が使われるんスよ。「れいこ」とか「ミッシェル」とか」
「………なんだそりゃ。そんな適当でいいのかよ」
「いいんじゃないんスか? どうせ住めるわけでもないし」
「揚げ足取るなよ」

益体ない会話に苦笑い。
辺りを埋め尽くしていた虫の声が遠ざかり,背後から響く浦原の声に満たされていく錯覚。
一護は身体の芯から強張りが溶けていくのを感じた。

「一護サン」
「あ?」
「明日でいいんで,ちょっと寄りませんか」
「…………なんで」
「朽木サンからのお手紙に一護サンへの伝言があるんスけど,それが…あの…」
「…もしかしてアレか。絵なのか?」
「そうなんスよ。アタシの頭じゃどうやっても解読できない」
「……そりゃそうだろな。俺も自信ねえよ」
「え,一護サンもなんスか?」
「読めるとしたらほら,恋次とか白哉くらいじゃねえの?」
「ははははは。もっともだ」

一護はゆっくりと立ち上がった。
ジーンズについた小石を払い,手を頭上にあげてうんと伸びをする。

「……浦原」
「はい」
「俺,そろそろ行くわ」
「わかりました」
「ごめんな」
「どうして謝るの」
「こんな遅くに無駄話つき合わせちまって」
「そんなことで謝られても嬉しくないっスよ」
「え」
「謝るならもっと別のことだ」

浦原の声音がすう,と落ちた。
一護の背に緊張が走る。何を云われても甘んじて聞くつもりはあった。
何を甘えているんだとか,自分勝手だとか。
そう責められても仕方のないことをしている自覚はあった。
しかし次に届いた言葉は一護の予想をどれも裏切るものだった。

「アタシに顔を見せないこと。それを謝ってくださいな」
「浦原……」
「この距離に居て,好きな子に触れることはおろか見ることも許されないってのはずいぶんと残酷な仕打ちだ。そう思いません?何かのおとぎ話じゃないんだから,まったく…」
「………ほんとごめん」
「悪いと思ってます?」

問われれば素直に頷いた。頷いた後で浦原からは見えないんだということに気づき改めて「ああ,悪いと思ってる」と言い直した。
すると塀の向こうでうっすら笑う気配がした。

「じゃ,約束してくださいな。明日,ちゃんと顔見せるって」
「……努力はする」
「努力?」
「や,行く。なるべく」
「なるべく?」
「………約束な」
「ええ,約束」

指を搦めない指切りのようなものだった。
言葉だけで交わされた軽い誓約。しかし自分はそれを護るだろうということを一護は知っていた。
そして一護が動き易くなるように浦原がそう仕向けたことも。

甘えるのが下手だ,といつも云われた。
アタシにくらいもっとべったり甘えてくれたらいいのに,と。
その都度自分は馬鹿云ってんな,とか,頭沸いてんじゃねえの?とか笑い飛ばしていた。
しかし現実はいつだってこうで。

一護は項垂れそうになる頭をしゃんとあげると,くるりと塀に向き直った。
その向こうにいる浦原を透かし見るようにじっと視線を据え,手を触れた。
伝わるのは古びた塗装のざらざらした感触だけ。
しかしそこから浦原の体温が感じられるような気がした。

額をこつんと当てて,小さな声で一護は礼を云った。

「浦原,サンキューな」
「どう致しまして。眠れないなら,いいお薬用意しますよン?」
「………知ってたのか?」
「一護サンいつだって霊圧垂れ流しだから」
「…そっか」
「薬,いります?」
「いらね。次の日怠くなったり,記憶力落ちたりするんだあれ」
「用法用量を護ればそんなことないんスけどね。ていうか飲み薬じゃないし」
「は? 塗り薬とかあるのか?」
「いいえ」
「じゃ,なに?」
「アタシの腕枕」

一護は額を塀に押し付けたまま,喉を鳴らして笑った。
目尻に浮かんだ涙を掌で拭うと顔をあげる。

「んじゃ,どうしてもだめだったときは頼む」
「ご注文お待ちしてますよン♪」

その言葉を最後に,一護は踵を返すと家へ向けて走り出した。
胸の内には脈絡のない自信があった。
自分は大丈夫だ,という自信。
根源的な解決にはなにもならなかったけれども,身の内にあの存在を確かに感じてはいるけれども,それでも自分は大丈夫だ。
なによりも自分をここに繋ぎとめる強い楔があるから。ちょっとやそっとでは抜けない,強い楔が。

このままベッドに入ればきっと眠れる。
明日はすっきり目が覚める。
もし,もしもだめでも,そのときは――。

「ご注文,お待ちしてますよン♪」

浦原の声を耳の奥から拾い直して,一護はふわりと微笑んだ。

Fin
(2005.09.12)






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