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このよき日に


-- くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる --






今日でもう三日も雨が続いている。
一護は浦原商店の店主の部屋,押入れの前にごろりと仰向けに横になり,掲げるようにして持った文庫本から目を逸らすと,浦原の背中と,その向こうの縁側の,ぴしゃりと閉じられたガラスのサッシ戸を見た。
雨音はしない。
じっと耳を凝らすと,さあさあという微かな音がするだけ。
風もないので部屋の中には柱時計が時を刻むかちこち,という音と,自分がページを捲るかさりかさりという音,それから時折浦原が何事かを書き付けるかりかりという音だけが漂っていた。

ふう。
知らず知らずため息が漏れる。
微かなそれを聞きつけた浦原が振り返らずに声をかける。

「退屈っスか?」
「別に」
「ため息」
「聞き耳立てんなよ」
「幸せ逃げてくっスよ?」
「余計なお世話だ。つーかオマエなにしてんの? 仕事?」

ほっ,と掛け声をかけて身体を起こした一護は浦原の背後に膝歩きで近寄ると肩越しに文机を覗き込んだ。
黄ばんだ紙を和綴じにした分厚い文献と,万年筆,それから計算機に似た小型の機械。
相変わらずなにがなんだかわからないものたち。

「仕事だったんスけど…,ちょっと行き詰まりました」

浦原の口からあくびがひとつ。
一護もつられて口を開けた。はふ,と息が吐き出される。

「そだ,一護サン,しりとりしません?」
「はぁ?」
「しりとり。ただ言葉を継いでいくんじゃつまらないスから,絵で」
「絵?」
「ちょっと待っててくださいねン」

浦原は云うが早いかゆらりと立ち上がると部屋を出て行った。
一護はひとり文机の前に取り残されて,あくびをさらにひとつ。
退屈しのぎに,放り出されていた万年筆の蓋を閉め,それで文献のページの文字を辿ってみた。
漢字…よりも象形文字に近いような?
目でつらつら追っていけば何らかの規則性が見えてくるかとも思ったけれど,そう易々とわかるものじゃない。
すぐに飽きた。
開いたままの文献の間に万年筆を放り出すのと,背後の引き戸が開いて浦原が戻ってきたのは同時だった。

「あったあった」

浦原が持ってきたのは巻紙一幅。
机の上の文献を閉じて脇に押し遣り,ごちゃごちゃと積まれた雑多なものたちの中から重厚な造りの丸型の硯を引っ張り出すと,水差しから水を落とし,これまた抽斗から取り出した上等な和菓子のように紙に包まれた墨を磨り出した。
一護は文机に頬杖をついてその様子を眺める。

「筆で描くのか?」
「和紙に鉛筆じゃ情緒がない」
「和紙じゃなくたっていいんじゃね? 広告の裏とか」
「遊びっスよ? 雰囲気まで楽しんでこそ,じゃないスか」

しゃっしゃっと音がするたびに,墨の香が微かではあったが辺りに広がっていく。
その匂いを吸い込み,一護は「いい匂いすんのな」と呟いた。

「さて,これで準備完了。ここでやってもいいスけど,ちと手狭ですねぇ。一護サン,座布団持ってきてくださいな。明るいし縁側向いて床にごろりと横になってやりましょ」
「行儀悪くね?」
「ここにはアタシとキミしかいない。いったい誰が責めるんスか?」

一護はすっと眉を寄せたが,それもそうか,と思い直し,先ほどまで横になっていた場所から座布団を引き摺ってきた。
畳の縁,縁側との境ぎりぎりにそれを置き,肘を立てたうつ伏せになった。
浦原は滑り止めになる手ぬぐいを敷き,座りよくなるように硯を設えると,巻紙を手に一護の横に同じように横になった。

「どっちから始めます?」
「俺は後でいいよ。つーか筆なんかで絵,描けっかなあ」
「鉛筆やペンとは力の加減が違いますからね。でもすぐに慣れるでしょ。じゃ,アタシから…」

するするっと浦原が描き出したのは苺だった。
どう見ても苺。その筆遣いと画力が確かなのがおかしくて,一護はくつくつと笑った。

「なんで笑うんスか」
「オマエ,ほんと生活の役に立たないことに関しては達者だよな」
「シツレイな。さ,一護サンの番スよ?」

一護は筆を持った手でしばし頬杖をつくと,浦原の描いた苺の横にちょんちょんと黒い点を散らした。

「……なんスか,これ」
「ごま?」

しのび笑いの一護に,苦笑いの浦原。
ごま,ごま,ごまっスか…。
とぶつぶつ云いながら浦原がその隣に描き出したのは天と地から菊の花が広がるような幾何学模様が描かれ,その接点に当たるラインを帯のように太い線がぐるりと回っているボール状のものだった。

「ま…まだろ? なにこれ」
「鞠っスよ。手鞠。知りません?」
「あんたがたどこさ,ひごさ…って歌いながらつくアレか? 鞠つきの」
「ええ。ずいぶんと古い歌をご存知で」
「遊子が前に歌ってた」
「へええ」
「まり,ってことは,り,か…」

一護の持った筆が動いた。
しかし線を書き出した途端,べしゃっと潰れてしまう。

「あ」
「力加減っスね。手は紙につかないで浮かせたほうがいい。筆がついている位置よりもちょっと先に視点を置いてすすっと滑らせる感じで」

浦原の声を聞きながら,一護は再度筆先に墨をつけ,云われた言葉をなぞるように筆を走らせた。
描きあがったのはりんご。
いびつながらもそれと見て取れるりんごだった。

「りんごっスね?」
「おう」
「ご,ご…」

するする,するり,すすす。
幾本もの線が走り描き出されたのはごつごつとした体つきの怪獣。

「ゴジラ!」
「正解」
「うまいな」
「そっスか?」
「ああ,文句なし。うまいうまい。」

一護に褒められることなど滅多にない。浦原はひっそり相好を崩した。
一護は筆を持った肘を立て,ぺたりと頬を座布団に伏せると,「ら,ら,ら,だろ…」膝で立てた足をぶらぶらと揺さぶりながら思案している。

「そうだ!」

描き出したのは円形のなにかの後にぐしゃぐしゃとした管のようなものが続く珍妙な代物で。
浦原は思わず首を捻った。
書き上げた一護も不満そうに「げ」と声を漏らしている。

「あの,一護サン?」
「………らっぱ」
「ああ,なるほど」
「くっそ」

自分が書いた正体不明のぐにゃぐにゃの横に,ひらがなで「らっぱ」と書き入れた一護は,すっと顔をあげると浦原を見た。

「で,なんだよ?」
「はい?」
「罰ゲーム!」
「ハァ…」
「しりとり,詰まったら大概なんかあんだろ。どうせテメエのことだ。なんか考えてあるんじゃねえの?」

一護のふてくされ顔に浦原は思わずぷっと噴出した。

「笑うな!」
「イヤ,ごめんなさ…。だって一護サンかわいくって」
「バカにしてんのか?」
「違いますって。そうっスねぇ…罰ゲーム。せっかくだからキスひとつでどうでしょ?」
「は!?」

一護の脳裏に,以前「オシオキ」と称して散々弄ばれた記憶が浮かび上がった。
生々しい感触までが蘇り,思わず息を呑む。顔が赤らんだのがわかった。

「や,あの,ビンタとかでこぴんとかそういうのじゃ…ねえの?」
「え,だってアタシ痛いの嫌いだし?」

俺にはオマエの云ってることのほうが痛いっつの…,顔を赤くしたままぶつぶつ呟く一護を浦原はおかしそうに眺めると,筆の尻で頬をつついた。

「キスって云っても,ここでいいっスよ。所詮は手遊びですし,ねぇ?」
「なっ! そ,そっか」

一護は,自分の想像の先走ったのに気づくと更に恥じ入り,真っ赤な顔で如実に安堵した息を吐いた。
そしてがくりと首を項垂れると,低い声でぶつぶつと何かを云い,がばっと顔をあげるという慌しい動作の後,すぐ隣の浦原の頬に口付けた。
「ちゅ」という微かな音が浦原の耳を打つ。

「よっしゃ,リベンジ!!」
「…………。」

浦原は一護の声を聞きながら,頬に指を伸ばした。
唇がふれたばかりの,自分の頬に。その感触を惜しむように,皮膚から更に深いところへ浸透するように,そっと抑える。
一護はそんな浦原の様子には気づかぬ素振りで,小さな本の絵を描いた。

「どうだ!」
「…………。」

浦原はまだ惚けている。指は頬に。筆は,穂先が和紙に触れるか触れないかぎりぎりのところに留まっていた。

「オイ,浦原?」

怪訝な面持ちで床に伏した一護が浦原を掬い上げるように覗き込む。
動かない浦原。
一護は筆を左手に持ち変えると,右手で浦原の無精ひげを引っ張った。

「アイタ!」
「勝負の途中でぼけてんなよ」

にやりと笑う一護に,浦原は筆を持った手で顎を摩りながら「ヒドイ…」と恨みがましい目を向けた。
そして一護が描いた小さな本に目を向けると

「帳面?」
「ぶっぶー」
「ああえっと今はノートって云うんでしたっけ?」
「それも違う」
「本にしちゃ薄い。辞書も違う。ええと…」
「わかんね?」

僅かに不興げな一護の声。
浦原はじっと絵に見入り,そこに描かれている字のようなものに着目した。

「これ,なんて書いてあるんスか?」
「数1」
「スーイチ?」
「数字の数に,イチ」
「なるほど,教科書っスか」

得心顔の浦原に,一護は満足げな息を吐く。
浦原はしょ,しょ,しょ,と云いながら筆に墨をしみこませ,硯の端で余分な墨を弾いていたが,ふっと手を止めると,そのまま筆を置いてしまった。
そのままごろり,仰向けになると,身体を長々と伸ばして伸びをした。

「続き,どうすんだよ」
「はあ…」

大あくびをひとつ。
一護は身体を起こし,硯に筆を置くと,浦原の横に胡坐をかいて座った。
目を閉じた浦原の額をぺしん,と叩く。

「痛いっス」
「勝ち逃げは卑怯だろ」
「肘,痛くなっちゃって」
「じゃ,休憩な?」

もう一度手を伸ばし,額を叩こうとした一護の手を寸前で止め,浦原は指を絡めるとぐい,と引いた。
ころん,と倒れこんだ一護をぎゅうっと抱きしめると

「二度目はないスよ?」

笑みを含んだ声で囁く。
一護が腕から逃れようと身動ぎすると,髪を梳くようにして仰向かせた。
ぎっと睨みつける一護と視線を合わせると,その額に唇を落とす。

「手遊びの次は昼寝ってのはどうっスか?」
「勝ち逃げはずりーって云ってんだろ」
「アタシがキミに勝てるわけじゃないじゃないスか」
「は? 逆だろ?」
「一護サン,わかってないんスねぇ…」

ふくふくと笑う浦原に,一護はどういう顔をしたものだかわからなくて結局仏頂面を決め込んだ。

「腕,放せよ。寝るなら寝ればいいだろ。俺は本の続き読むから」
「アタシに一人寝させるんスか? せっかく一緒にいるのに?」
「知るかよ。寝るのはオマエの勝手だけど,起きてるのも俺の勝手だろ」
「却下」

一護の背を抱く腕に力が篭もる。
一護の口から,きゅう,と声が漏れた。

「くるし…から!」
「じゃあ,一緒に寝る?」
「……オマエ,そのなんかっちゃ実力行使で言い分通そうとするのやめろよ」
「だめっスか?」
「……このかっこは苦しいから嫌だ」
「じゃあ,これで」

護を抱いたまま,身体を横に向ける。
いろいろな意味で不安定極まりない浦原の身体の上から,重心が安定する畳の上に移動したのを感じて一護はふっと息を吐いた。

「手,痛くねえの? 下におろせよ」
「こう?」
「そこでもいてえ。腰んとこ?」
「こんな感じ?」
「それなら痛くない」

身体の左下にある浦原の手を,腰の辺りに誘導する。
右上にある手は一護の右腕ごと抱きこむように背中に回されている。
一護は自分の左腕がひどく邪魔なように感じ,置き場所を考えていたが,結局肩をぐいと逸らして背中のほうへ投げ出した。

「これでよし」

ふっと息を吐くと,浦原の顎の下に頭を落ち着け,目を閉じた。
髪を,浦原の吐息がくすぐる。
あくびがひとつ,零れた。

外は相変わらずの雨模様。音も立てず絹糸のような雨がしのしのと降り続いている。
欲も,熱も,冷やしていくような雨の気配の中,いつしか安らかな寝息が二つ,響いていた。

Fin
(2005.06.22)






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