柿とカフェオレ
日付が変わって半刻を過ぎた頃,一護がいざ寝ん,とベッドに入ろうとしたときに微かな,しかし耳慣れた音が聞こえた。
布団を剥いだベッドに胡坐をかく恰好でしばし待つ。
しかし音はそのまま絶えて続く動きは何もなかった。
「?」
ベッドに膝立ちになり,窓を開ける。覗き込むように玄関前を見ればそこには誰もいない。
気のせいか?
――かつん。
音がした。
首を捻って屋根を見上げると,下駄を履いた足がぶらぶらしているのが見えた。
「やっぱりいやがったか」
「…コンバンハ。起こしちゃいました?」
「まだ寝てねぇよ。つーかひとんちの屋根で何やってやがる」
「お邪魔していい?」
「……そのつもりで来たんだろ」
いちいち聞くな,そんなもん。
無言の部分は視線でそう云い,一護は顔を引っ込めた。
数秒の間を置いて,こうもりみたいな黒い影がばさりと窓辺に降り立った。
「えへ」
「……えへ,じゃねえだろ。馬鹿」
窓枠に手を引っ掛けた恰好でしゃがみ込んだ浦原がへらりと笑う。
一護は浦原がが入ってき易いように膝を曲げて場所を空けてやり,脱いだ下駄を懐にしまいそっとベッドに降り立った浦原を見上げた。
「そんで今日は何」
「ええと…お届けモノに」
「届け物? 俺,何か忘れてったっけ?」
夕方,いつものように商店を訪ねたところ「生憎店長は外出しておりまして…」と慇懃な態度でテッサイに頭を下げられた。
いや,それならいいんだ。また寄るし,と慌てて帰ろうとすると,しばしお待ちください,と引止められ,焼き菓子の入った袋を持たされた。
いつもいつもありがとうございます,と丁寧に礼を述べ,それだけで辞去したのだったが,あの時何か落としでもしていったのだろうか。
それにしてもあのマドレーヌは旨かった。
レモンの風味じゃなくてオレンジの味がした。少し甘めで濃いめに淹れた紅茶にぴったりな味。
一護が首を傾げて考えを逸らし捻じ曲げていると,違いますよン,と浦原の手が伸び,冷たいものをぴとりと頬に当てられた。
「つめて!何しやがる!」
一護はぎっと浦原を睨みつけ,その手首を掴んだ。
眼前まで引き下ろすとそこにあったのはつやつやと橙色も鮮やかな柿。
意表をつかれて険のある眼差しがふっと緩んだ。
「…柿?」
「そ。うちの庭にある木に実ったんで,お裾分けに」
きれいでしょ。
愛しげに指で形をなぞる浦原をしばし見つめた後,握り締めていた手首を放して一護はふう,と息を吐いた。
「言い訳すんならもう少しまともなのにしろよ」
「え?」
こんな夜更けに柿一個持ってお裾分けもへったくれもねえだろうが。
一護はそう思ったが,敢えて云うことはせず,こちらをじっと見つめる浦原に仏頂面と苦笑いの中間のような表情を向けた。
「ま,いいけど。んでなにそれ。食っていいのか?そのまま食える?」
「皮は剥いたほうがいいんじゃないスか?柿の皮って存外厚いもんですから」
「んー,じゃ剥いてくる」
「剥くのはアタシが」
「ナイフかなんか持ってんの」
「ええ」
「用意周到っつーか」
「さすがに紅姫で柿剥いたらアタシの命がないっスからねぇ」
眉を下げ,情けのない顔で云う浦原に一護はその様子を頭に浮かべて「そら…確かにな」と頷いた。
そしてベッドから脚を下ろすと「ほんじゃ俺は茶でも淹れてくるわ」と部屋を出て行った。
ぱたんとドアの閉じた後,ひとり残された浦原は,柿を手に窓辺に寄りかかって空を見た。
群青色の空にレモンイエロの月が浮かぶ。
半月よりは丸く満月には足りない,ふっくり膨れた月。
他出の用事をばたばたと片付け,大急ぎで帰宅したものの時刻は一護の門限を過ぎていた。
もちろんその姿はなく,なんとはなしに項垂れて夜を迎えた。
風呂上り,縁側で夜一相手に杯を傾けていたが,身の内にどうしても埋められない洞があり,それがもどかしくてならなかった。
「喜助?」
「なんスか」
「変な顔だな」
「何を藪から棒に。美形で馴らしたこのアタシに,云うに事欠いて変な顔って」
「自覚がないのか?」
「………ありますよ」
迷うなら動けばよかろう。
付き合いの長い友人はこともなくそういうと「さて,儂は散歩に出るでな。こんな明るい月夜じゃ。家で燻ってるのは,シケた面した阿呆だけ」と庭に降り立ちそのまま闇に姿を消した。
杯を手に夜一の消えた萩の茂みの辺りをじっと見ていた浦原は,ああもういいや,と息を吐いて立ち上がった。
そして今,ここにいる。
「そういえば,珍しく帰れって云われなかったな」
聞くものなどないつもりで発した呟きだったが,間の悪いことに扉が開き,「帰れっつったって帰らないだろ,どうせ」と両手にカップを持った一護が姿を現した。
行儀悪く足で扉を閉め,勉強机の上にことんことんとカップを置いた。
ふわり,鼻を擽る香ばしい匂いに「珈琲?」と浦原が問うと「悪い。日本茶いれたかったんだけど夜中にあんまりごそごそできねえから」と素直な侘びが返された。
「謝らないでくださいな。不躾なのはアタシの方っスから」
「そうだな」
「……一護サン,どうせなら否定してくださいよ」
「事実だろ?」
くしゃり,勝ち誇った笑み。
釣られて浦原も頬を緩め,手にした柿をくるりと回した。
そして懐から取り出した折りたたみ式のナイフで丁寧に皮を剥いていく。
「コーヒー,夜だから牛乳たっぷり入れた」
「珈琲牛乳っスね?」
「カフェオレって云わね?」
「カタカナ苦手で」
「たまに変なカタカナ連呼するじゃねえか」
「変なカタカナ…セックスとか?キスとか?フェ…」
「コーヒー,頭から浴びたいか?」
あはははは。ゴメンナサイ。
笑いながらも浦原の手は器用に柿の皮を剥いていく。
天辺を削ぎ,くるりくるりと回しながら螺旋のかたちに剥けていく皮を,一護は勉強机の椅子の背もたれに載せた腕に顎を乗っけて眺めた。
「あ,皮どうしよ」
あと僅かで剥ききる,というところで一護ががばりと顔を上げた。
浦原は動じることなくナイフを動かすと,最後の一刺しを剥ききった。
「このお皿でいいっスよ。ひとつしかないし」
「柿,どうすんだよ。皮と一緒か?」
「じゃあアタシの手をお皿代わりに。はい,どうぞ」
掌の上でかしゅ,と音を立てて柿が等分されていく。
熟したばかりの柿はまだ硬く,しかしその色合いは十分に甘そうだった。
四つに割ってそれを更に二つずつに。合計で八個の櫛形に切られた柿を差し出され「いただきます」と一護は一片を手に取った。
先端に歯を立て半分ほどを齧り取った。
うす甘い,どこか懐かしい味。
そういえば柿を食べるのはすごく久しぶりだった。去年は食べていない。一昨年もどうだったか。
神妙な顔で柿を咀嚼する一護を横目に,浦原も一片を手に取った。
こちらは丸ごと放り込む。
くぐもった音を立ててて噛み砕き,ごくりと嚥下する音がした。
「豪快だな」
残った欠片を口に放り込みながら一護が笑う。
「一護サンこそそんなにちまちま食べるなんて珍しい。あ,もしかして嫌いでした?」
「ンなことねえよ。熟してぶよぶよなのは好きじゃねえけど,こういうのは好きだ」
「好き?」
「ん,好き」
一護サンの口から聞こえる「好き」って言葉は,いいですね。
へらりと笑って柿を口に放り込む浦原に,一護は顔を赤らめる。
「なんでも脈絡すっ飛ばしてそっち方面に持ち込むのは止めろ」
「そっち方面?」
「そっ…いちいち説明さすな馬鹿」
口篭って怒ったように言い放った一護に,ふふふと笑って柿を載せた掌を差し出す。
残りは四つ。これを食べたら帰らなければ。
そう思うと胃の腑の上辺りがずん,と重くなるような心地がした。
「どした?」
「いいえ」
顔が見られただけでよしとしなければ。
部屋に入れてもらえただけでよしとしなければ。
自分の言葉に反応して,真っ赤になるところが見られただけでよしとしなければ。
………だめだ,キスしたい。
理性の利かない子どもみたいだと苦笑いを浮かべる。
それでも手を伸ばすことはせずに,掌の柿を更にひとつ放り込んだ。
あと三つ。
一護の手が伸び,ひとつ攫っていった。
これで二つ。
「そういえば,今日遅かったのか?」
「七時半には帰ってきましたよ。大急ぎでやっつけたのに,一護サンが帰るのには間に合わなかったんです」
「ふ,ふうん…」
俯いた一護の顔がまた赤らんだ。今度は耳まで赤くして照れている。
「帰りたくて帰りたくて仕方なかったんスよ。まったく,あの客,蹴り殺してやろうかと思った」
「ち,ちょっと待てって!オマエ客に対してその物言いは…」
「一護サンて若いくせに分別くさいこと云いますよねぇ。腹が立てば泣かす,殺す,そんな言葉出ませんか?」
「出ねえよ。日本語には言霊が宿るんだぞ」
「ええと,それは万葉集?」
「つらって出てくるオマエがイヤだ」
本当に嫌そうに眉間に皺を寄せた一護から浦原は視線を逸らして諳んじる。
「大和の国は皇神の厳しき国。言霊の幸はふ国と語り継ぎ言い継がひけり,でしたっけ」
「ああ」
言霊。
鬼道の詠唱を始め(といってもほとんどは詠唱破棄で行使できるけれども)決して無縁のものではない。
けれどもさほど重要に考えたことはない。
目的のためには手段は選ばず嘘も吐く。騙して謗って恨みも買う。
それがどうと思ったこともほとんど皆無に近かった。
人の目なんざ気にしてなんになる。来る者は拒まず,去るものは追わず。それが身上。
かつて白い羽織を纏い生前と整えられた街を闊歩していた頃をふと思い出し苦笑い。
するとそれを見咎めた一護が怪訝な顔でこちらを見ていた。
「思い出し笑いか? 変態」
「一護サン,ちょっと前に日本語には言霊が宿るって云ったばかりなのに…」
「は?」
「変態って。アタシがほんとに変態になったらどうするんスか」
「……手遅れじゃねえ?」
眉間の皺で笑いを堪えて一護が云う。
そんなこと云うと襲いますよン? じろりと見ればふざけんな,と返される。
その眼差しの直ぐさに安心し,その半面でもどかしさを覚える。
こうして穏やかに会話をしている裏で自分が何を目論んでいるか。
それを知ったらこの子はどういう顔をするんだろう。
こんな無防備な顔をして。どう表情を変えるんだろう。
「な,それ俺の?」
「はい?」
「手の,柿」
「あ,ええ…」
「んじゃいただき。ちょっと待ってろ」
かしゅかしゅと柿を咀嚼する音を立てながら一護は立ち上がると部屋を出て行った。
浦原は掌についた果汁をぺろりと舐める。
果実の甘さはそこにはなく,渋みが微かに舌を痺れさせる。
冷めかけたコーヒーを一口啜り,ああ,と声を出せば,身体のそこからいろいろな思いがじくじくと滲み出るようだった。
おかしい。
こんなのいつものアタシじゃない。
苦笑いを浮かべようとして失敗し,曖昧な表情のまま窓辺に頭を凭れさせ再び空を見た。
群青色の空にレモンイエロの月が浮かぶ。
半月よりは丸く満月には足りない,ふっくり膨れた月。
先ほど見たときよりもほんの少し沈んで,雲がうっすらかかっている。
「浦原?」
ドアが開いて一護が立っている。
はいな?と顔を上げればその顔目掛けてなにかが飛んできた。
「わ,危なっ」
ぶつかる直前に手で受け止めれば,それは濡らしたタオルだった。
「手,拭けよ」
「アリガトウゴザイマス。けど,どうして一護サンてば…。もっとこう…ねぇ?」
ぶつぶつ文句を云いながら手を拭うと「文句あんのかよ?」と一護の声。
「文句じゃないっスけど」
「ならいい。柿,旨かった。ごっそさん」
「どう致しまして」
さて,することがなくなった。
浦原がベッドから立ち上がり,勉強机に布巾を置いた。
椅子に座る一護の前に立って,その頬に両手を添える。
僅かに上向かせてじっと見つめた。
「なんだよ」
「ん?」
「手」
「さっきからずっと,キスしたいなって思ってて」
「…………思ってて何」
「したら怒るかなって迷ってるところ」
「…………オマエ,やっぱ今日変だ。大丈夫か?」
怒られると思ったら心配された。
浦原は眉をひょい,と上げてどういう意味?と視線で尋ねる。
しかし一護は答えることをせず,腕を伸ばして羽織の袖の半ば辺りをぎゅうっと掴んだ。
引き寄せる感覚に,浦原は目を見張る。
何をされるのか,期待半分で身を任せると,一護はすっと俯いた。
頭突き。
浦原は察するより先に一護の頬を再び挟み上向けると僅かに勢いを殺して口付けた。
「な!」
目論見が破られて一護の口から迸ったのは悲鳴。
掌で唇を覆うと仰け反った。
「何しやがる!」
「毎回毎回同じような手に引っ掛かると思ったら大間違いですよン♪」
真っ赤な顔で睨みつけてくる一護に,浦原が呵々と笑う。
なんて可愛い。ほんとに可愛い。
恨めしげに見上げてくる一護の額を追い討ちをかけるように指先で突く。
「……ッ!ムカツク!」
「あはははは」「頭来た!寝るぞ。見ろ!もう一時近いじゃねえか」
「え?」
「オマエそっちな。俺に蹴り落とされても文句は云うなよ。絶対蹴り落としてやる!」
「え,一護サン…?」
「……あ? なに鳩が豆鉄砲食らったような顔してんだよ」
ベッドの上に這い上がり窓際に胡坐をかいた一護は怪訝な顔で浦原を見る。
「あの…泊まってっていいんスか?」
「……え,そのつもりで来たんじゃ……うわ,最悪」
絶句した一護の視線のには,へらへらとご機嫌を絵に描いたような顔でこちらを見上げてくる浦原の顔。
一護の眉間がたちまち曇る。
ばばばっと顔を赤らめると「やっぱ帰れ!」と枕を投げつけた。
「えー,聞こえませんねぇ」
浦原は投げつけられた枕を軽々受け止めるとベッドの上に放って戻し,そそくさと羽織を脱いだ。
懐に収めた下駄をそれで包み,一護が先ほどまで座っていた椅子に置く。
「あ,馬鹿。羽織くしゃくしゃになるぞ。下駄なんかそのまま置いていいからハンガ使えよ」
「いいんスか? それじゃ遠慮なく」
笑みを深める浦原に,一護は更に自分が墓穴を深めたことを思い知った。
うわ,俺,最悪。
唸るように呟くと,がくりと項垂れそのままごろりと横になった。
壁のほうを向き,伸ばした腕に顔を埋める。
浦原は羽織をハンガに吊るすとその傍らにもぐりこんだ。
背中から腕を回し,一護の項に口付ける。
「やーめーろっ」
「じゃあこっち向いて」
「嫌だ」
「じゃあもう一回」
再びちゅっと音を立てて口付けし,首筋に鼻先を埋める。
「髭が痛い!」
「じゃあこっち向いて」
向こう側で舌打ちがした。
そしてもそもそと寝返りを打つ気配。
真っ赤な顔で向いたぞ,と睨みつけてくる一護の額に,口付けを落とす。
眉間の皺が深くなって,唇が触れる瞬間くしゃっと顔が歪んだ。
まるで泣き出す直前のような顔。
その肩に腕を回し,ぎゅっと抱きしめると浦原は飛び切りの甘い声で一護の名を呼んだ。
「一護サン,おやすみなさい」
「……おやすみ」
肩にかかる重みは幸せの重み。
しばらくもぞもぞと安定を求めて身体を捩っていた一護だったが,動かなくなり,規則正しい寝息が響くようになるまでそう時間はいらなかった。
浦原は一護の頭に頬を押し当てると,宵の口にぽかりと口を開けた身の内の洞が形のない色のない,けれども確かな温かいもので満たされていくのを感じる。
ああそうか。
あの洞はちょうどぴったりこの子の形だったんだ。
そう自覚して笑みを漏らす。
一護の寝息に呼吸を合わせ目を閉じる。
瞼の裏に月を見た。
群青色の空にレモンイエロの月が浮かぶ。
半月よりは丸く満月には足りない,ふっくり膨れた月。
あれはあれでキレイだけれど,アタシはやっぱり,こっちがいい。
回した腕に力を込めると,抱きつくように一護の腕が回された。
Fin
(2005.10.28)
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Flying colors // Ritsu Saijo presents
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