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-- Extra #001 "Every Thursday's Fight" --
間断なく続く電卓のキィを叩く音。
一護は「経理部」とプレートの貼られたドアの空気の入れ換えの為にか,30センチほど開けられた隙間からじっと中を覗いていた。
中を覗いていた,というよりも視線はちょうどその隙間から一直線の位置を席にする経理部主任ひとりに向けられている。
す,と伸びた背。
白いシャツに黒色の腕カヴァを嵌めた先の長い指は熟練のキィ・パンチャのようにリズミカルにキィを叩き,シルバの細フレームの眼鏡越しに真摯な視線をデスクに置いた書類に向けているその姿。
自分を前にしたときに見せる軽薄で飄然とした面持ちとはまったく別人のような表情は,喩えそれがあれと同一人物だとわかっていても見蕩れてしまう。
小さくため息を吐くと,ドアが微かに軋む音を立てて開き同期入社の経理部所属の女子社員が顔を覗かせた。
「あれ,黒崎くん精算?」
思わず指を唇の前に立て,「シィ!」とやると,彼女は都合よく誤解してくれたようで「あぁ」という顔をして同じように唇の前に指を当て,茶目っ気たっぷりの表情で「大丈夫」と潜めた声で請合った。
「今日は主任ご機嫌よー。データも順調に揃ってるみたいだしね」
「…そっか。いや,T支店かどっかのミスで月次が一日延びたって聞いたから明日にすっかなって思ったんだけど」
「忙しそうだけど,これくらいなら余裕だよ。だって主任だし」
「だって主任だし」の部分を強調するように囁くと,じゃあ私,総務に行くから,ときれいに爪の整えられた掌を振って去っていく。
その背中に曖昧に頷いて,一護は再びドアの前に佇んだ。
別に不機嫌を気にしていたわけじゃない。
役職問わずその名を聞くと顔を引き攣らせる者が数多いる,経理部一の偏屈者。
それが一護の視線の先で軽やかに電卓を叩く男の評判だ。
しかし一護にしてみればそれは各自がやるべきことをやっていないからであって,例えば経費の申請書類ひとつを挙げてもきちんと使用理由を明らかにし,規則に則った作成を行えばいともスムーズに支払は受けられる。
会社の経費を自分の財布と勘違いして湯水のように飲食に費やしたり,勝手な理由で溜め込んで二ヶ月も三ヶ月も前のものをいけしゃーしゃーと提出するから却下される。
ただそれだけのことだ。
いつだったか昼休みに喫煙所で顔を合わせた際に聞いてみたことがある。
経費の申請書の書式には「一ヶ月以上の後日請求は認めない」と記されている。その理由は?と。
返って来た答えは明瞭だった。
「毎月第八営業日に月次決算の締切を行いますよね。その際には営業各部門の経費――労務費や外注費,材料費なんかの計上とともに,本社経費の計上も行います。給与で支払った各種経費を始め,現金で精算したものもその中に含まれます。個人経費っていうのは各自の所属コード及び個人コードによって管理されてるので,計上時に自動的に申請者の所属部署に振られるわけです。だから,例えば一月に大きな売上げが立ったとして,その月その部署では全員がフル稼働,出張経費もかなりかかって,それでもまぁ採算とれるくらいの成果があったとしましょう。しかしその部員の三分の一が出張経費の精算を遅らせていたとしたら?それが翌々月,売上げのボッコリ凹んだ月に計上されたとしたら」
どうなります?
視線で促され,しばし黙考した後,一護はおずおずと「成績が悪くなる?」と自分の考えを口にした。
すると浦原は「その通り」と口の端を綻ばせ言葉を継いだ。
「それにその出張に絡む売り上げが立った月にしても,採算が取れていたと見えていた案件がひっくり返る可能性もある。まぁ実際には滅多にそんなことはないでしょうけど,可能性で云えばゼロじゃない。だから,ですよ」
胸のポケットから引き抜いたボールペンを器用にくるりくるりと回しながら説明した浦原に,一護はなるほど,と頷いた。
そう,全ての規則には理由があるのだ。
それを遵守せずして文句を云う輩。そんなヤツらの身勝手な言い分は聞いてるだけで腹が立つ。
尤も,社内での地位で云えば下から数えた方が断然早いことを自覚しているため表立って口にすることはなかったが,一護は真顔でそう考えていた。
再び視線は吸い寄せられ,その横顔をじっと見つめる。
とは云え,一護がそう考えるのに邪念がないわけではない。そのことも自覚している。
否,もともとそういう考えが一護の中にあって,その上で頷いているわけだから,邪念というわけではない。
ないのだけれど,きっぱりと言い切るには今の状況を顧みても些か口幅ったい部分があった。
「…で,いつまで見蕩れてるの?」
一護が小さくため息をついたタイミングを読んだように,視線の先からさして大きくはないがよく通る声が響いた。
まさか気付かれているとは思わず,驚いた弾みにドアに些か強く肩をぶつけ,重たいドアが大仰な音を立てる。
「だーいじょーぶっスか?」
痛む肩を押さえて顔を上げれば,デスクの上に頬杖をついた経理部主任の浦原が揶揄うような笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「気付いてたんなら,そう云えよヘンタイ!」
思わず気色ばんだ一護に,浦原はひっそり笑うと「だって」と殊更声を低めて云った。
「一護サンたら,視線が肌で感じられるくらい熱く見つめてくるから」
語尾には「うふ」と有難くもなんともないオマケ付で云う浦原に,「ざっけんな!」と吐き捨てつつも一護にも後ろ暗い部分がないわけではないため,「つーか,名前で呼ぶなっつってんだろ!」と些か的外れな感が否めない抗議をひとつかましてそれ以上の罵倒は控える。
その分の腹立ちを仏頂面に込め,ずかずかと経理部に足を踏み入れた。
「オラ」
差し出した書類束に,中指と親指にゴムの滑り止めを装着した浦原の長い指が伸ばされる。
「今週分?」
「あぁ。…忙しかったら明日でもいいけど」
「忙しくないけど…駄目って云ったらまた明日顔見せてくれる?」
「ざっけんな。とっとと精算しやがれ」
かたかたと電卓をたたき始めた浦原を見下ろし,一護は零れそうになるため息を飲み込んだ。
仕方がないじゃないか。
世間には「惚れた欲目」って言葉だってある。
そう,嘗ては七三分けに野暮ったい眼鏡,腕には今時役場の人間ですら使用しないと云われる時代遅れ甚だしい腕カヴァ。
そんな身形のせいで社内の男女問わず蛇蝎のように嫌われ,そして畏れられていた頃から経理部主任の浦原を一護は心から尊敬していた。
惚れていた,と云っても過言ではない。
現在ではとあることをきっかけに洒脱な格好をするようになったため生来の整った容貌が露になり一部の女子社員でファンクラブまで作られているという話ではあったが,寧ろ一護は以前の浦原のほうがより好もしかった,とも云える。
とはいえそれは外見上のこと。
真剣な面持ちで仕事をする男が魅力的でないはずはなく,普段ならば軽口を叩いて足蹴にすることも躊躇しない浦原を前にしても,仕事モードのときはどうしたって緊張してしまうのであった。
「まぁた見蕩れてるでしょ」
視線の先,こちらに目を向けないまま浦原が笑う。
過剰に反応するから論われるのだ,とわかっていても頭より先に身体が反応してしまい,ガタ・ガタン!と浦原のデスクの上にあった各種科目印の納められたラックを倒してしまった。
「あーあ」
慌てて拾おうとしゃがみ込むと頭上から浦原の声。
そちらを振り向くことができず「るっせ!」と声だけ張り上げると,椅子の軋む音がして浦原が立ち上がる気配がした。
「ほんとに一護サン,このナリに弱いっスよねぇ」
ため息混じりに云いながら浦原がしゃがみ込み,一護が手を伸ばした先にある「641/水道光熱費」と背面に記された水色のスタンプを拾い上げる。
そのまま伸ばされていた一護の手を絡め取り,「何を」と一護が声を上げるより早く,その手の甲に口付けた。
「な…ッ!」
叫ぶように声を上げ,真っ赤な顔で身を引こうとするが浦原はしっかと一護の手を握り締めたまま離そうとしない。
思わず拳を振り上げたが,眼鏡越しのやわらかな眼差しと視線がカチ合うと,そのまま身動きが取れなくなった。
「ハイ,一護サンの負け」
硬直する一護の額に,そっと唇を押し付け浦原が立ち上がる。
やわらかな感触がとてつもない衝撃となって一護に襲い掛かり,半ば放心の態で座り込む一護の頭をくしゃりと撫で,浦原は自席に戻った。
負け…。負けって。勝てるかよッ!!!
心の中でだけ絶叫して,せめてもの抵抗とばかりに浦原を睨みつける。
けれども浦原はどこ吹く風で「じゃ,3,450円,お支払しますんで受領のサインくださいな」と,さっさと仕事モードに戻り手提げ金庫の蓋を開いていた。
よろよろと立ち上がった一護がそれでも几帳面な文字でサインをする間,浦原は楽しそうに微笑んでその姿を間近で見ている。
一護は書き終えたペンを書類にぺしりと叩きつけるとジロリ,浦原を睨みつけた。
「テメェ…後で覚えてろよ」
「そんな目,しないでください。黒崎さん」
わざと抑揚を抑えたような静かな声で云われ,また顔が赤くなるのがわかった。
うッ,と言葉に詰まった一護を,浦原は可笑しそうに目元を綻ばせて見る。
「一護サンてほんと…」
「るっせえ!云うな!」
うすいハトロン紙の封筒に納められた経費の金額を改めると,一護はぷい,と顔を背けて足音も荒く経理部を後にした。
ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう!
腹立ち紛れに口の中で呟いて握り締めた拳の中で封筒がくしゃりと潰れる。
慌てて中から札を引き出し財布に収めながら一護は口をへの字に結んだ。
黒崎一護二十五歳。
毎週木曜日の小さな戦い,未だ勝率はゼロであった。
Fin
(2008.05.20)
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Flying colors // Ritsu Saijo presents
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