浦原はごくり,と自分の喉が鳴る音を聞いた。
視線の先――縁に羽毛のついた深紅の仮面は蝶のかたちをしている。
そしてしなやかな筋肉に覆われた身体を鎧うように締め上げる深紅のレザー・ボンテージ・スーツ。
下半身は尻を持ち上げるようにぴたりと吸い付くショートパンツに覆われて,野暮な下着などはつけていないのだろう。
どこまでも滑らかなラインを描きだしている。
気になるのは臍下から伸びる細いチェーンだ。
チェーンは鳩尾の辺りで二股に別れ胸の辺りに穿たれた鳩目穴に消えていた。
上半身は細紐でコルセットよろしくきつくきつく締め上げられ,喉元には薔薇の花を模した飾りのついた首輪が,指先から上腕までは艶のある黒の手袋で覆われ足にはヒール高が10センチはあろうピン・ヒールを履いていた。
恐い。
正直なところ感想らしい感想はそれくらいしか浮かばなかった。
チェーンがどことどこを繋いでいるのかとかそのピン・ヒールは明らかにワンサイズ小さくないかとかその仮面は度入りなのかよとか突っ込むことはできなかった。
浦原は心の底から戦いていたのだ。
しかし恐怖はそれだけでは終わらなかった。
仮面に覆われていない口の端が線対称に引き上げられくっきりとした笑みをかたちづくる。
レザ・グローブに覆われた長い指がゆっくりと前髪をかきあげ、「それ」は浦原の名を呼んだ。
「喜助くん。いざ悦楽の園へ僕と旅立とう…!」
Å
浦原は胃がきゅう,と引き絞られるような心地を覚えて目を覚ました。
考えるにこれは最悪の目覚めと云っていい。
夢だ。ただのクダラナイ夢。
しかしそれはあまりにもリアルで目を開ければそこに,あの藍染が立っているのではないか。
そんな恐怖を浦原に齎していた。
瞼を覆うように載せた手を額の方にほんの少しずらす。
うすい瞼の皮膚に枕元の窓越しに入り込む晴れた春の陽射しを感じた。
こんこんこん。
礼儀正しく入室の可否を問うノックの音。
しかしとてもじゃないが今他人と会話する気分にはなれない。
居留守を決め込むことにして浦原はシーツを頭の上まで引き上げた。
こんこんこん。
再度,ノックの音。
浦原は面倒だからと昨夜鍵をかけておかなかったことを心の底から後悔した。
ノブが回り,ドアが開く。
闖入者はどうやら図々しい性質らしい。
かくなる上は狸寝入りか。
浦原は更にシーツをしっかり被り膝を抱えるように身体を丸めた。
けれども,次の瞬間――。
「喜助くん?まだ寝て」
「入ってくんなこの変態ちょうちょ……ッ!」
浦原は枕元にあった目覚まし時計を引っ掴むと大リーグのピッチャもかくやの豪肩を発揮しドアに向かって投げ付けた。
ガコォォォン!!
ドアに目覚まし時計がめり込むよりも一瞬早くドアを潜っていた藍染は,たっぷり30秒肩を揺らして荒い呼吸を繰り返す浦原を見つめた後,ぎこちない手つきでトレードマークのセル・フレームの眼鏡を押し上げ,ふ,と笑った。
「今日は随分と寝覚めがいいようだね。悪い夢でも見たのかい?」
貴 様 が 諸 悪 の 根 源 だ !
殺気を隠そうともせず射殺さんばかりの眼差しを藍染に向ける。
夢だなんてわかってる。
この柔和な笑顔を浮かべる男に(今回に限って云えば)咎がないことも。
けれどもこの,やり場のない怒りは,張り付いた恐怖は――。
舌を鳴らそうとして焦点が藍染の眼鏡に合った。
それはいつもの黒縁眼鏡で深紅の蝶を模した仮面なんかじゃなかった。
視線を少し下げてみる。
カシミヤなのだろう。
やわらかそうなカーディガンと,その中には生成り色のシャツが見える。
間違っても真っ赤なボンテージスーツなんかじゃない。
手には書類束。
仕事の話があるんだろう。
もちろんレザ・グローブなんかしていない。
あれは夢だ。クダラナイ夢だ。
浦原はぶるんと頭を振ると深々と息を吐いた。
「スミマセン寝ぼけました…。シャワー浴びてくるんで10分時間貰えます?」
ため息ほどの声音で云って,のろのろとベッドを降りた。
「コーヒー,支度しておこうか」
「…お願いします」
「喜助くん、ひとつだけ気になることがあるんだが」
「何」
「『へんたいちょうちょ』とは一体なんだい?」
「―――ッ」
藍染が近寄ってくる。
一歩,また一歩。
ラフな部屋着姿に夢のイカガワシイにも程があるあの深紅が重なる。
浦原は震える唇で「来るな」と言った。
しかしその声は藍染の元まで届かず,藍染は更に歩を進める。
「喜助くん,大丈夫かい――」
浦原の口から声にならない悲鳴がほとばしった。
ばく・ばく・ばく。
悪夢は早めに獏に食べてもらわないと現実が侵食されてしまいます。
アナタも,どうか気をつけて。
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いけしゃーしゃーと恥を晒してみました。(爽笑)
(2007.04.01)