Member's Bar Las Noches.
虚夜宮に夜の帳が降りるとき,舞台の幕は開く。
極上の大人の隠れ家。
倦んだ日常を脱ぎ捨て手を伸ばせば,
新しい快感
新しい愛の形
そして新しい貴方自身が
至高のひと時へと貴方を誘うでしょう。
時刻は午前四時。
その日一番のピークタイムを過ぎて少し経ったところでビールのサーバが空になった。
そろそろかな,と思っていたところだったので一護は常連の一人に声をかけてサーバからタンクを外しバックヤードへ新しいタンクを取りに向かった。
バックヤードへ入るなり傍らにタンクを下ろし,鈍く痛む腰を拳でとんとん,と叩く。
二十台半ばとは云え連日十二時間以上にも及ぶ立ち仕事はどうしたって腰に来る。
性格の悪い上司に見つかると年寄りくさいだのなんだのと揶揄を飛ばされる為,その視線がある場所ではなるべくしないように心掛けているがこうして一人になるとどうしてもため息と一緒に痛む腰に手が云ってしまう。
「あー,マジで一回整体行くかなぁ。誰かにいいとこ紹介してもらうか」
腰同様凝った肩に手を当てぐるりと首を回し再びタンクを持ち上げようとしたそのとき――。
背後でドアが開き,何,と思う間もなく一護は壁に背中を押し付けるようにし,くだんの「性格の悪い上司」の顔を間近に見つめることになった。
「っにしてん」
何してんだ,と尋ねる間もなく唇を塞がれる。
驚きに見開いた目に映るのはまるで真冬の月のように淡い色の髪に目元を隠した背の高い男。
一護の上司であり,一護の勤務先であるこの店の雇われ店長でもあるその男は名を浦原喜助と云った。
酒と煙草の味の滲みた苦く生ぬるい舌が歯列を割って入り込む。
舌を絡め取られ吸い上げられ,思わずこくりと喉が鳴った。
「…ッ,待てって!」
肩を掴む手に力を入れてほんの僅かではあったがなんとか身体を離すことに成功した。
「どうしたっつーんだよ!」
あからさまに様子がおかしい。
訝るように眉間に皺を寄せ,顔にかかる前髪の奥にある深い色の瞳を覗き込むと,まるで熱に浮かされたように潤んだそれにぶつかった。
「ヤリタイ」
ぞくり,背骨を直下し腰にズン,と響くような声。
一護は自分の反応を忌々しく思いながらも流されて堪るか,と浦原の肩を掴む手に力を篭めた。
「馬鹿云ってンじゃねーよ。仕事中だろ?」
さっき時計を見たとき,時刻は四時を回っていた。
あと二時間もすれば店は閉店時刻を迎える。なのになんでそれまで待てない――?
しかし浦原からの応えはなく,浦原は自分の肩を掴む一護の手首を掴むとどこから出してるのかわからないような力で壁際に両の手首を押し付けた。
抵抗する術をなくした一護はそれでもなんとか寄せられる唇を避けるべく顔を背けた。
代わりとばかりに露になった首筋に唇が押し当てられる。
やわらかい唇の感触と,その合間から覗く舌が這う濡れた感触。
「待て。待てって」
「待てない。五分で終わらせるから」
「無茶云うな!壁一枚向こうには客居るんだぞ!」
「お願い。――全身嘗め回して仕事のことなんか忘れるくらいよくしてあげるから」
「それが五分で終わるかァァァァァァァ!」
突っ込みどころは違うだろ,俺!
叫んでから思ったが意外にも効果があった。
耳の裏側に押し当てられていた唇がぴたりと動きを止めるとそのまま離れ,肩にずし,と重みがかかる。
ぴたりと触れ合った胸が,服の布地越しに震えているのがわかる。
笑っているのだ。
「…確かに,五分じゃ無理か」
「わかってくれてありがとよ。ついでに離れてくれるともっとありがたいんだけど」
「ゴメンナサイ。ちょっとだけ」
云うなり身体がしなるほど強く抱きしめられた。
「…何があった?」
とりあえず危険は去った,と判断ししがみついてくる浦原の耳元に尋ねる。
「――サンが」
浦原が名を口にしたのは常連の一人,さっきまでバーカウンタに凭れてシャワーを浴びた後の濡れ髪を色っぽくアップにした姿でJack Roseという赤い色の映えるカクテルを啜っていた女だった。
「客に迫られるのなんて今に始まったことじゃねーだろ?」
「違う」
「あ?」
「先月のイベントのお返しだって,チョコレート持ってきてたでしょ」
「…そういえばさっき何か出してたな」
三月半ばの今日はちょうど一ヶ月前に行った「St. Valentine's Night」と対をなす趣向で「St. White Night」と銘打ってイベントを行っていた。
イベント,といっても白い下着を身に着けてきた客に限り料金を割り引く,とかそんなものだ。
しかしどんなところにも楽しみを見出す常連たちはそれは凝った下着を見につけてきてわざわざバーカウンタ内で忙しく立ち働く一護にまで「見て見て」などと披露してくれる始末だった。
同じように先月のイベントでは下のフロアにあるフリールームの衝立を取り払い「大チョコレートプレイ大会」が行われ盛況だったらしい。
一護はすべてが終わった後惨憺たる有様の部屋に入っただけだったが正直「食い物粗末にするんじゃねーよ」と苦々しく思わずには居られなかった。
しかし浦原が名を口にした常連客は,バレンタインに美味しいチョコレートを味合わせて貰ったから,というのを口実に洒落た箱に入ったホワイトチョコレートを持ってきていた。
一護も薦められたのだが舌が狂うから後で貰う,と詫びて辞退したのだけれど,その判断はどうやら正解だったらしい。
「…薬,か?」
「そうみたい」
「っつーか慣れてんじゃねえのそういうの」
「慣れてるって人聞きが悪い。大概は紛い物だから摂取しても影響ないってそれだけっスよ。ああいうのはどっちかっていうとプラシーボ効果みたいなの狙ってるのが多いから」
「…でも,今日のは本物だったってわけか」
ぴたりと寄せられた身体。浦原の下肢が硬く熱を帯びているのは否応なしに伝わってくる。
「…だから,ね?」
「だからもへったくれもねーって。第一お前の不注意だろ?」
「そんな冷たいこと云わないで」
切なげな響きを宿した声が囁き,再び抱きしめる腕に不穏な熱が篭るのを感じた一護は「待てって!」と声を荒げた。
「待てない。時間がないって云ったのは一護サンでしょ」
「ンなところで揚げ足取るな」
「ね,お願い。アタシのこと助けると思って…」
云いながら背骨を伝い降りた指先がベルトの隙間からゆっくりとシャツを引き出そうとする。
「待て。待て待て待て待て。もっとずっといい手があるだろ!」
「いい手?」
云いながらも浦原の手はシャツを引き出そうとするのを止めようとはしない。
一護は左手ひとつで壁に押さえつけられた両手を何とか引き剥がすと不埒な動きをする浦原の右手をガシっと掴んで引き上げた。
「自分でしろ」
云いながら浦原の右手を顔の前にずい,と寄せてやる。
「…え,自分でって」
「それなら三分で終わるだろ。大丈夫だ。こんだけ切羽詰ってるなら速攻だ。安心しろ。それに俺が店に戻れば後処理まで含めて十分くらいは見ててやれるだろ。だからお前はコイツでスッキリした後煙草でも吸って落ち着いたら出て来い。な?」
一護は必死だった。
そんな必死な一護を間近からまじまじと見て,浦原はぽつりと「その発想はなかった」と呟いた。
「ナイスアイデアだろ?ほら,わかったらどけ。早く戻らねぇと万が一のことがあったら困る」
ぐい,と浦原の身体を押し退けるとだらしなくはみ出たシャツをベルトの下に押し込みながら奥へと向かい空のタンクを置いて新しいタンクを掴む。
壁に凭れて口元を覆って呆然としてる風にも見える浦原に「んじゃごゆっくり!」と声をかけるとそのまま店に戻るドアを潜った。
バタン,と音を立ててドアが閉じる。
その音を聴いた浦原は壁に背を押し付けたままずるずるとしゃがみ込むと喉を鳴らして笑い出した。
くっくっくっくっと震える肩。俯いた視線の先には自分の右手があった。
「この齢になって自慰を薦められるとは,ねぇ」
必死な面持ちで言葉を継ぐお気に入りの部下の顔を思い出すと,もうそれだけで堪らなかった。
さきほど一護に云った言葉に嘘はない。
が,全てではなかった。
常連客の持ち込んだチョコレート。
確かにこれは,という作用が齎されてはいたが(恐らくは非合法と思われる成分が微量ではあるが含まれていると思われる)やり過ごせないほどではなかった。
ただ,面白いかなと思ったのだ。
普段とは違ったシチュエーションで乱れる一護の姿が見てみたかった,とそれだけだった。
一護は勘違いしているが,自分はそんなに仕事熱心な方ではない。
自分にとってマイナスに働く誤解ではないから解かずにいるが。
やれやれ,とため息を吐き,ポケットから引っ張り出した煙草のパッケジを揺すって飛び出た一本を口の端に咥える。
ライタで火を点し,逆側のポケットから引っ張り出した携帯用のアッシュトレイをコンクリートの打ちっ放しの床に置いた。
しゃがんでいた脚を崩し胡坐をかく。
身体からは嘘のように熱は引き,ただ身体の深くが震えるような笑いの衝動だけが長く尾を引いていた。
あのチョコレート,と浦原は受付カウンタの下にしまいこんだまだ三つほど残っている純白の粒のことを思った。
あと二時間で仕事が終わる。
そうしたら騙くらかしてあの子に食べさせよう。
その後のことを想像すると楽しくて仕方がない。
どうせ明日は定休日だし,ココじゃなくて部屋へ連れて行くのもいいな。
せっかくだから新商品のサンプリングとして届いたオモチャもいくつか持ち帰ろうか。
煙草一本は灰になるまで,浦原は存分に「後のオタノシミ」について思いを巡らせた。
捉え様によっては敬愛していると云えなくもない上司がそんな不埒な物思いに耽っているとは夢にも思わない一護は客からのオーダを捌きながらバックヤードへ続くドアにちらちら視線を向けていた。
大丈夫かなアイツ。
戻ったらなんか飲むもの…水とか摂った方がいいんだろ?
酒は止めた方がいいよな。
そんな風に生真面目に心配していたのだが,意味もなくぞくり,背筋に震えが走り思わず額に手を遣る。
「…風邪か?明日休みだし,今日はさっさと帰って長めに寝るか」
二時間後,その震えの理由を思い知らされることになるのだが,それはまた別の話――。
「ヤリタイ」て云う浦原さんが書きたかったんだ…。
2010.03.22