じぃじぃと蝉の鳴く声が頭の中一杯に響く。
どこかに行きたくて,でもどこにも行けなくて膝を抱えて座るのは土手の上。
すっかり背の高くなった夏草の深い緑色越しに馬鹿みたいに晴れ渡る青空を見ていた。
刷毛で刷いたような雲がゆっくり,ゆっくり,右から左へ流れていく。
傍らに置いたスポーツドリンクの缶はとっくに空になって,暴力的な日差しをその角で反射させている。
脳天を焼く強い日差し。
こんなところに座っていたらあっという間に熱射病だ。
わかっているのに,どうしてか動けなかった。
目を瞑ると瞼の裏で細胞分裂を繰り返す幾何学模様の向こうに,こちらを見つめる眼差しが蘇る。
困ったように目を伏せて,唇の端でうすく笑ってそのまま口を噤み目深に被った帽子の鍔に表情を隠す。
違う違うそうじゃない。
そんなのオマエじゃない。
もっと,……もっと?
喉元までせり上がる言葉を押し潰すように飲み込んだ。
自分勝手にも程がある。
わかっている。
だけど――。
きつくきつく握り締めていた拳を解いて掌を見つめる。
この手で守ると決めたもの。
ひとつひとつがかけがえのないもの。
そのことに変わりはない。
変わりがあってはならない。
それなのに。
心が向かっていってしまう場所がある。
決心を挫き,全部放り出して思うが侭に振舞ってしまいたいと駄々を捏ねる欲望がある。
こんなのは自分じゃない。
自分であってはならない。
そう思うのに――。
からん。
背後で下駄の鳴る音を聴く。
器用なことだ,と口の端に滲むのは苦笑。
その気になれば,物音ひとつ立てず背後に忍び寄ることも出来るくせに。
わざと,自分がそこに来ていることを知らせるように鳴らしてみせる。
それが,彼なりの優しさだと自分は知っている。――知ってしまっていた。
背後に人の気配が立つと同時にこのクソ暑いのに汗ひとつかかず着込んだ漆黒の羽織の裾をばさりと庇宜しく頭上の掲げ「日干しになっちゃいますよン?」と甘やかすようなやわらかな声が降って来た。
――うらはら。
唇が名を呼ぶ。
声は喉の奥に閊えて音を結ばない。
突然頭上に広げられた影の向こう,目がハレーションを起こして浦原の顔は見えない。
笑っているのか。
呆れているのか。
知っているはずのどの表情もぴたりと来ずに,一護はただ手を伸ばした。
手首を掴まれる,外気の熱を感じさせないつめたい感触。
そのまま力いっぱい引き上げられて,ふらついた身体を腰に回された腕で支えられる。
鼻を擽る煙草の匂い。
ぐらぐらと揺れる頭を鎖骨の辺りに押し付けて,深く深く息を吸い込んだ。
「…大丈夫」
耳元で囁かれる声。
頷くことも首を横に振ることもできずに,一護はただ息を吐いた。
そして――。
無理矢理頭を起こすと指先から凍りつくように熱が引いていく。
目を開いても視界は白く濁って像を結ばない。
貧血だ。
しかしそれに構うことなく,一護は手探りで浦原の襟首を引っ掴むと力任せに引寄せて唇を重ねた。
まるで体当たりのような勢いに,浦原の頭からぱさりと音を立てて帽子が落ちる。
血が滲むほど強く下唇に歯を立てて,その血を啜るように吸いつき,薄く開いた歯の隙に自ら舌を差し込んだ。
背を支える浦原の腕に力が篭る。
まるで檻のように閉じ込められるのを感じ,一護は身体から力を抜いた。
崩れ落ちるように再び鎖骨の辺りに額を押し付け,荒く乱れる息の合間に喉奥から搾り出すように言葉を継ぐ。
「……かったふり,すんな。大人みてぇなツラ,すんな。距離を,作るな」
頭の中はぐちゃぐちゃで,自分の勝手を責めるだけの理性も残ってはいなかった。
ただの我侭だ。
わかってる。
しかし一護は全てを暑さのせいにして,もう一度言葉を継いだ。
「 」
一護が言葉を吐きつくすより早く,痛いほど強く抱きしめられ浦原の唇が耳朶に触れる。
「ゴメンナサイ」
鼓膜を直截震わせる声に,一護は静かに意識を手放した。
▼
耳を打つざあざあという水音と,少し遠のいて聞こえてくる蝉時雨。
そして身体を濡らす冷たい感触。
目を覚ますとそこは浦原商店の浴室だった。
明かりを点さない室内は薄暗く,窓から差し込む夏の日差しだけがやけに眩しかった。
冷やされた身体で,大分呼吸が楽になっていることに安堵の息を吐くと直ぐ傍で浦原の声がした。
「大丈夫?」
「…あぁ」
「熱射病,寸前だったんスよ」
「……悪ィ」
腕の中に囲われて詫びを口にするのが照れくさく,小さく身動ぎすると視界の外から伸びた手がきつく顎先を掴んで喉が攣るほど仰向かされた。
ごくり,喉が鳴る。
深く深く口付けられて,閉じた瞼の裏が明滅する。
肌を打つ冷たい水に理性の欠片まで洗い流され,齎される感覚にただ溺れた。
身体に纏わり付く服に戒められるように動きを遮られ,もどかしさに身を捩る。
薄く開いた瞼の向こうに,ずぶ濡れた浦原の姿。
頬に張り付く髪を掻き上げ,そのまま口付けを強請る。
淡い色の睫の先から滴る雫を見た。
水のつめたさのせいでなく皮膚が粟立つ。
触れる指先がもどかしく,強請るように身を捩らせる。
傷を負わせまいとする気遣いに首を横に振り,灼熱のそれに自ら腰を押し付けた。
引き裂くような痛みに歯を食いしばる。
気遣うように見つめてくる深い色の瞳を睨みつけ,伸び上がって首を塞ぐ。
舌を絡めて悲鳴を殺し,どこまでも貪欲に欲しがれば,望みのままに,とばかりに腰を抱えられ一息に貫かれた。
深く穿たれる感覚に弾かれたように仰け反ると,露になった喉元に歯がつきたてられ,ひゅう,と喉が鳴った。
締め切られた浴室の壁にくぐもった喘ぎが響く。
耳を打つ自分のものとは思いたくないほど甘ったるい嬌声と,直ぐ傍で聴こえる荒く乱れた浦原の息。
そのどちらにも煽られ,快楽は果てを知らず一護を上り詰めさせる。
中心を握りこまれぐちゅぐちゅと扱かれ,腰が引けると戒めるように身体のそこここに歯を立てられ,その痛みにすら興奮し,自ら腰を擦り付けるような浅ましい真似まで忌避なくしてしまう。
痛みと快楽。
神経を素手で掴んでぐしゃぐしゃにされるような圧倒的な感覚。
身体中に残される痕跡。
いっそ傷になってしまえ。
一生消えない傷に。
一生塞がらない傷に。
そんなことを自棄の極地で思いながら一護は浦原の背に強く爪を立てた。
▼
ちりん。
日差しを遮る簾の向こう,ぽってりとした厚手の硝子の風鈴が涼やかな音を立てる。
クーラーが設置されているわけでもないのにどうしてか暑さを感じない座敷の中ほどで,一護はさっぱりとした浴衣を着せられて背後から浦原に抱き込まれていた。
浴室で散々にされた身体はまるで鉛が詰まったように重く,この姿勢を拒否するだけの気力がなかった。
大人しく抱き人形にされながら腹の上に載せた硝子の小皿から一口,また一口水羊羹を切り分けては口に運ぶ。
あのとき,浦原はこれを買いに外に出ていたんだとか。
――無性に甘いものが食べたくなって。
そういう割りに包みの中には二切れの水羊羹が並んでいた。
ちらり,視線を上げると,お手上げ,というように両手を翳し,それ以上は聞いてくれるな,というように目を伏せた。
ちりん…ちり,ちりん。
舌にほの甘い羊羹の甘さと耳に心地よい風鈴の音。
背中から伝わるぬくもりにすっかり満たされて目を瞑ると,背中から抱き込む浦原の腕にぎゅ,と力が篭った。
何を,と身を捩りかけて力を抜く。
こめかみに触れる唇の感触。
それが少しずつ降りて,頬に頬が重なった。
「――アタシ,物凄くワガママっスよ?」
囁かれた言葉の意味を,一護は正確に理解した。
「んなの,知ってる」
「我慢,しなくていいの」
「…………」
ほんの一口羊羹が残されていた皿を,畳の上にそっと置き,一護は腕を浦原の首に回した。
畳を踵で蹴って伸び上がり,言葉を継ごうとする唇を無理矢理塞ぐ。
浦原の唇がそれを諦めるまで,何度も。何度でも。
本当の想いは言葉になんかできない。
本当に大事な存在はほかの何物とも比較できない。それと同じように。
浦原が自分を我侭だというのなら,それは自分も同じだ。
自分の方がもっと卑怯で,欲深い。
「一護サン,今日はもう帰らないで」
耳元で紡がれる睦言にも似た我侭に,背骨に糖蜜を流し込まれるような陶酔を感じる。
しかし一護は静かに首を横に振った。
「帰る」
「嫌だ。帰さない」
「帰る。……けど夜,また来る」
ひくり,浦原の肩が震えた。
まさか,という思いをそのまま目に浮かべて見つめてくる深い色の瞳に,一護はふい,と顔を背けて部屋の隅に投げ出されている携帯電話に向け,顎をしゃくった。
「今朝,テッサイさんからメィル来た」
「え…テッサイ?メィル?いつの間に?」
連ねられた三つの疑問符を黙殺し,一護は億劫そうに口を開いた。
「今日から三日間,いないんだろ。ジン太も,雨も。……みんな出払ってるとオマエ,何も食わないから見張ってくれって」
だから,夜また来る。
ため息にほどいてそう継ぐと,抱きしめられた肩口に浦原の額が擦り付けられた。
「ねぇ」
「あ?」
「テッサイに云われたから?」
ぎくり。
今度は一護が肩を震わせた。
それを,聞くのか。
不意打ちを食らって喉奥で低く呻る。
言葉を返そうにも,返せる言葉がない。
一護は腹に回された浦原の腕を辿るように手を伸ばし,その手指に自分の指を絡めるときゅ,と握りこんだ。
これで察しろ。
聞いてくれるな。
そんな思いを込めて。
ちりりん。
涼やかな音で風鈴が鳴る。
浦原に抱き込まれたまま寝転んだ一護は項を擽る浦原の寝息を感じながら小さく欠伸を漏らした。
目が覚めたら買い物に行って,夜は冷やし中華を作ろう。
頼まれごとは頼まれごとだ。
言い訳めいてひとりごち,一護は満ち足りたまどろみに落ちていった。
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夏コミ御礼。
サブタイトルは「水羊羹食べたい」で。
(2008.08.22)