さやさやと,絹糸のような雨が降る。
入梅の宣言を耳にした覚えはなかったけれども,気の早い台風が接近しているんだとか。
接近…停滞?
風を吹き荒らすわけでもなく,世界を逼塞させるべく土砂降りの雨が振り続くわけでもなく,さやさやと,眠たげな雨が降り続いている。
今日でもう四日も。
それは,目下浦原の家に居候している鮮やかな橙色の髪をした死神のせいなんだそうだ。
――雨は嫌いだ。…けど,俺が降りてくると必ず雨なんだ。いつもこんな雨。もう,嫌いなのに雨が降るのか,雨が降るから嫌いになったのか,どっちだったか忘れちまった。
結露した窓ガラスを拳でなく腕で拭って微かに歪む外の風景を眺めながら,「彼」はそう云った。
黒崎一護。
年齢を聞いたら,無言で肩を竦められた。
概念として持ち合わせていないらしい。
外見的に云えば,多分ハタチそこそこ。
雰囲気が落ち着いているため,もう少し上に見ようと思えば見えないこともない。
細身のブラック・ジーンズに黒いVネックのTシャツ。外に出るときは鮮やかな色の髪を隠すように黒いキャップを被る。
そして両手にはいつも黒革のグローヴ。
まるでバイオレンス映画のヒーローみたいな。
最初にその姿を見たとき,抱いた印象は確かそんなだった。
浦原喜助。35歳。薬剤師。
築10年2LDKの分譲マンションに一人暮らし。恋人はなし。趣味もなし。
半年前まではミドリガメ一匹と同居していたが,春を迎えることなく死んでしまった。
朝起きて朝食代わりのコーヒーを啜る。
家から徒歩で十五分。繁華街の片隅にある小さな薬局に出勤し,上着を脱いだシャツの上に草臥れた白衣を纏う。
身動ぎするたびに軋む音を立てるパイプ椅子に腰を下ろし,時折煙草を吸い,かさりと音を立て白いボックスの中に落とされる処方箋どおりに薬剤を調合する。
without exception uneventful days――
声を上げて笑うほど楽しいことがあるわけでもなく,涙するほど悲しいことがあるわけでもない。
味気なく,それでいてやさしいグレイッシュ・トーンの日々。
そこに一滴,鮮やかな彩が落とされた。
それが自分の死を見極めに来た死神だなんていうのは,いったいどんな皮肉だと思わなくもなかったけれど,それでもここ数日心が浮き立つことが多いのは確かだった。
「一護サン」
朝起きると,リヴィングの片隅,窓際に置かれた椅子に片膝を抱いた格好で座り,携帯用のミュージックプレイヤで音楽を聴いている死神を起こす。
起こす,というのは間違いかもしれない。
死神には睡眠は必要ないんだそうだ。
眠ろうと思えば眠れないこともない。
けれどもそれは人間で云う「眠ったふりをする」という状態に近いらしく,目を瞑って意識を閉じたところで身体の疲れが取れるわけでもなく――そもそも死神には痛みも疲れも苦痛と呼ばれる概念は存在しないんだそうだ――それならば,こうしてミュージックを聴いていた方がいい。
鮮やかな髪を持つ死神は真剣な面持ちで顔でそう云った。
――ミュージック。
彼は,音楽をとても好む。
そして敬意を籠めて「音楽」ではなく「ミュージック」と発音する。
それは彼だけに限ったことではなく,死神すべてに共通した嗜好らしい。
人の死を確かめる,という仕事の合間に,彼らは音楽を聴く。
否,音楽を聴く合間に仕事をする,という方が正解か。
死神を自称する彼――一護との出会いは,四日前のこと。
20時,仕事を終えて薬局の裏口から外に出て傘を差して歩き出した途端,どん,とぶつかったのが一護だった。
「わ,ゴメンナサイ」
そんなに強くぶつかったつもりはなかったが,細身の青年は浦原に弾かれた格好で雨に濡れた路面に尻餅をついた。
衝撃で被っていた黒いキャップが落ち,無彩色の世界に鮮やかな彩が点った。
きれいな色だと思った。
「…何ぼうっと見てるんだ,アンタ」
不機嫌そうな声が向けられるまで,浦原はじっと青年を見つめていた。
「あ…ゴメンナサイ。立てます?」
改めて詫びを口にしながら傘を持つ手に鞄を捻じ込んで,開いた手を差し出した。
青年は手を伸ばしかけて,一瞬躊躇し,自分の手をじ,と見つめた後,漸く浦原の手を掴んだ。
引き上げて立たせると,浦原の目の位置に青年の頭があった。
濡れて,ほんの少し色を濃くした,しかしそれでも十分に鮮やかな色。
――紅花,だっけ。
いい年頃の青年を花に喩えるなんて,本人が耳にしたら気を悪くするかもしれない。
そう思いながらも「きれいだ」という思いは浦原の胸の内に刻み込まれるように強い印象を残した。
「…また見てやがる」
「あぁ…ゴメンナサイ」
「それも三度目だ。なんなんだアンタ」
眉間に皺を寄せた険のある顔がじ,と浦原を見つめてくる。
蝙蝠の羽のように広がって雨を遮る黒い傘の下,間近で見つめてくる瞳は,髪ほどではなかったけれど,舐めたら甘そうな色をしていた。
子どもの頃よく貰った紅茶味の飴玉を思い出す彩。
「きれいだな,て思ったんです」
気がついたら口を開いていた。
青年の眉が,片方だけひょい,と上げられ「何が」と尋ねられる。
それにも,木偶のように思ったままを答えていた。
「キミが。キミの色が」
青年の口がぎゅ,と引き結ばれ,目が伏せられる。
「色のことは云うな」
俯いているせいか,声はどこかくぐもって聞こえた。
きれい,というのは褒め言葉のはずなのに,青年は傷ついたように表情を曇らせた。
そんな顔をさせるつもりはなかったのに。
けれども俯く彼にそんなことが云えるわけもなく――。
「ゴメンナサイ」
浦原は素直に詫びた。
「…アンタのそれは口癖かなんかか」
「?」
俯いていた青年の顔が上がり,浦原を見る。
「それ,って」
「ゴメンナサイ,てヤツ。アンタ別に悪いことしたわけじゃないだろう」
「でも,キミを転ばせたし」
「アレはわざとだ」
「じろじろと見つめちゃったし」
「こんな目立つナリしてたら誰だって見るだろ」
「…色のこと云っちゃったし」
「褒めた…んだろ」
「え」
浦原が聞き返すと,一度青年は傘の外に目を遣り,それからもう一度浦原を見上げ,酷く不器用そうに笑った。
「変な,ヤツ」
「……よく云われます」
「腹,立たねぇの」
「云われる,てことはそうなのかなって」
「どうでもいいのか」
「…どうでもいいですねぇ」
「死ぬことについてどう思う」
「死ぬ,こと?」
「俺は,死神だ。アンタの死を見極めに来た」
唐突な言葉に,浦原は耳を疑った。
彼は,今なんて云った。
死神。
アンタの…というのは,つまり自分のことで。
その,死を,見極めに来た?
戸惑いがまんま顔に出て,心許ない表情のままじっと青年の顔を見下ろした。
「死ぬのは,嫌か」
「……よく,わかりません」
青年は猫のように喉を鳴らすと,眉間の皺の解いて浦原を見た。
舐めたら甘そうだ,と思った紅茶味の飴玉みたいな瞳がほんの少し笑みを孕んで浦原を見上げている。
「アンタ,面白いな」
「…そう,ですか」
「面白い。…ところでアンタ,ミュージックは持っているか」
「ミュージック…,音楽?」
「そうだ」
「携帯用のプレイヤなら,持ってますけど」
「さっきまで向こうの通りにあるCD屋に居たんだ。あの店は酷い。試聴用に置かれている盤はみんなそれなりだけど,店の中でかかっているミュージックが酷い。想いの籠められていないミュージックモドキは,聴いていて頭が痛くなる」
どこか憤慨した口調。
浦原は混乱を引き摺る頭で勤務する薬局の向かいにあるCDショップを思い浮かべた。
「1階と2階は確かに酷いっスけど,3階のジャズと4階のクラシックはそんなに悪くないですよ。店内のBGMは売場の担当者が自分の趣味で決めちゃうから,どうにもならないんです」
その言葉を耳にした途端,青年の顔がぱ,と明るくなった。
「アンタ,ミュージック好きなのか」
気圧されるように頷いた。
好きか,嫌いかと云われれば,好きだ。
実際にはその程度だったけれども,数少ない好きなもののうちのひとつ,という意味では嘘ではない。
「ジャンルとか…あまりこだわらない雑食ですけど」
「最高じゃねぇか。自分の世界を自分で狭くする必要がどこにある」
青年の言葉は浦原にとって意外だった。
こだわりがない,というは主体がない,というのと同じように否定的に評されることが多い。
否定されてもさして気にはならないが,ケチをつけられてうれしいわけでもない。
だから,自然と口にすることを控えるようになっていたのだが,確かに考えようによっては青年の云う通りなのだ。
不意に胸の奥がくすぐったくなるような心地を覚えた。
嬉しい,という感覚を,浦原は久々に味わっていた。
さやさやと,絹糸のような雨は依然として降り続いていた。
その音までもが素晴らしい音楽のように聴こえる。
浦原は込み上げる言葉にならない思いのままに,口の端を引き上げて,笑った。
「…あの,もしよかったら」
お茶でも,どうですか。
流行おくれの恋愛小説に出てくるような台詞だった。
死神云々の話も,頭からするりと抜け落ちていた。
ただ,嬉しさだけが浦原にその言葉を紡がせた。
後になって「さっきのアレは,ナンパって云うんだろう」と真顔で突っ込まれて初めて赤面することになるのだけれど,このときはなんの躊躇も抱かず口にしていた。
「何,笑ってやがる」
剣呑な声に,目を上げると椅子に座ったままの紅茶色の瞳がじろり,睨むようにこちらを見ていた。
髪に触れていた手をそっと振り払われる。
まるで猫が尻尾でするような仕草に,笑みが深くなる。
ぶっきらぼうで,仏頂面で,でも,この人はやさしい。
もう一度手を伸ばし,その頬に触れる。
自分よりも僅かに高い体温。
眉間に寄せられる皺。
込み上げる思いのままに顔を寄せると,薄い瞼が伏せられる。
初めて触れたのは,出会って二日目のことだった。
髪に,触れてみたい。
そう思った。
おずおずと申し出ると,一護はじっと浦原を見つめた後,小さく息を吐いて「好きにしろ」と云った。
短く刈られた髪は,つんつんと元気よく立っているが,触れると驚くほどにやわらかい。
梳くように,何度も何度も頭を撫でているとじろり,目を上げた一護が,「楽しそうだな」と呟くように云った。
知らず知らず口元が緩んでいたらしい。
一護と共に居ると,一護の傍にいると,浦原は自分でも気付かないまま笑っている。
心がふわりと解けて,目元も頬の辺りも口元もゆるゆると綻んでしまう。
自覚はなかったのだけれど,それを目にするたびに一護が「笑っている」と云うのでそのことを知った。
髪から頬へ,手を滑らせ,輪郭をなぞるように,触れた。
うすい瞼に触れ,鼻筋を辿り,唇を撫でた。
唇を重ねても,一護は何も云わなかった。
けれども抱きしめる腕に力を籠めると「抱くのは勝手だけど,反応は悪ィぞ」と呟くように云った。
そんなつもりはなかったので,慌てて身体を離した。
そんなつもりはないもなにも,こんなことをしておいて,と項垂れる心地で,そして実際に項垂れた。
「ゴメンナサイ…」
「なんで謝る」
「だって,今,酷いことをしようと…」
「酷くするのか」
「し,しませんけど!」
会話が巧く噛みあわない。
でもそれが,不思議と嫌な感じはしない。
たった二日共に居ただけなのに,一護は浦原に馴染んでいた。
逆かもしれない。
浦原が一護に馴染んでいたのかもしれない。
「オマエがしたいなら勝手にしたらいい。でも,多分面白くはねぇぞってそういう意味で云っただけだ」
「……前にも,経験が?」
自分で聞いておきながら,答えを知りたくない,そう思った。
しかし一護はなんの躊躇いもなく,首を横に振ると「ねぇよ」と放り出すように云った。
「オマエが三人め。前の二人はガキとジィさんだ。……悪かったな,新人で」
「いえ,そういう意味じゃなくて…」
なんて云っていいかわからず,そう返すのが精一杯だった。
この先,同じような場面に遭遇したら,そのときはどうするの,とか,聞いてみたいことは山ほどあったのに。
喉が閊えたようになり,苦しくなって目を伏せた。
「ただ,話には聞いている。同僚の中には巧くやって…演技とか,そういうのを映像で学ぶんだそうだ。対象者を楽しませるヤツもいるらしい。でも俺には無理だ。だから先に云った」
「その…一護サンたちの仕事って」
死神。
最初に会ったときにそう云われた。
けれども浦原にはやはり納得しかねることが多々あって。
会話が巧く噛みあわない,とか,手に嵌めたグローヴを浦原の前では決して外さない,とか。
一護は律儀だった。
浦原に問われるままにひとつひとつの問いに答えた。
わからないものについては,これも律儀にわからない,と首を横に振った。
一護が語る「死神の仕事」というのは酷く曖昧なものだった。
本部,と呼ばれる部署から対象者についてのファイルが送られてくる。
それを頭に叩き込み,一護たち死神は下界に下ろされる。
期間は一週間。
対象者の行動を観察し,言葉を交わし,そして評価を決める。
「可」か「不可」か。
「可」の場合はその翌日,対象者は暴漢に襲われたり,くだりのエスカレータで後ろから押されて転がり落ちたり,酔っ払い運転の車に突っ込まれたりして命を落とす。
「……あんまりこう,喜ばしい死に方じゃないっスね」
浦原の言葉に,一護は肩を竦めた。
「一般に老衰とか,病死とかって云われる『死』は俺たちの管轄外なんだ」
「そうなんですか。…で,その評価って,どうやって決めるんスか」
一護の目が上がる。
じ,と浦原を見つめ,そしてするりと逸らされる。
「…聞いちゃ,まずかった?」
「別に。どうやって,とか決まってねぇんだ。それだけ」
歯切れの悪い,曖昧な言い方だった。
首を傾げた浦原が,再度口を開くと,それを遮るように手首を掴まれた。
一護の手に嵌められた黒革のグローヴが,きゅ,と音を立てた。
掴まれた瞬間はひやりと冷たいのに,すぐに,それが熱くなる。
自分の熱が移ったのか,それとも,彼が持つ熱なのか。
どうでもいいことを考えていると引寄せられ,頭の後ろを支えるように手が,添えられた。
見開いた目に映るのは,一護の淡い色彩の瞳。
距離が,睫が触れるほど近くなってようやく気付いた。
唇が重ねられていた。
目は伏せられていたが,閉じられてはいなかった。
浦原を見つめる甘い色合いの瞳。
そこには浦原が抱く,身体の芯を痺れさせるような欲も,激情も,窺うことはできなかった。
それでも瞳はじ,と浦原を見つめ,重なる唇の隙間から伸びた舌が,浦原の舌を絡め取った。
くらり,くらり,目眩がする。
浦原は握り締められた手首を力任せに振り解いて,一護の身体を抱きしめた。
睫越しに透かし見る一護の眉間に皺が寄るのが見えても,その力を緩めることはしなかった。
後になって。
唇が離れて,ただ,縋りつくように抱きしめた腕の中で,ぼそり,一護が云った。
「俺たちが素手で人間に触ると,気絶させちまうんだ。だから」
黒革のグローヴに包まれた手が,シャツの袖をぎゅ,と握り締めるのを見た。
その奥にある指を思った。掌を思った。熱を,思った。
触れることが叶わない,というのはどうしてこうも気持ちを掻き立てるのか。
見たい,と思う。触れたい,と思う。
でも,それを口にすることはなかった。
ただ黙って抱きしめた一護の頭の天辺に口付けて,鼻先を埋めた。
「死ぬことについて,どう思う」
浦原はずっと考えていた。
答えを出さなければ。
そう思っていた。
死。
それはあまりにも遠く感じられる。
浦原とて人の死に接したことがないわけではない。
けれどもそれはあくまで「他人の死」で,「自分の死」となると想像もつかない。
痛いのは嫌だ,と思う。
暴漢に襲われたり,下りのエスカレータを転げ落ちたり,酔っ払い運転に突っ込まれたり。
そういうのは嫌だ。
そう思う。
けれどもその反面,じゃあ生きていることに執着があるのか,と問われれば微妙だった。
声を上げて笑うほど楽しいことがあるわけでもなし,涙するほど悲しいことがあるわけでもない。
微温湯に,たゆたうように過ごす日々。
感情の振幅は極々僅かで,激情,なんてものにはとんと縁がない。
縁がない――?
嘘だ。
あの,とき。
一護を,抱きしめたとき,感じたのは。
知らず詰めていた息を,そっと吐き出す。
瞬きをすると,素通しのガラス戸の向こう,雨に煙る通りが見える。
その向こうにはCDショップ。
今日も一護は3階でジャズ盤の試聴をしているのだろうか。
今日で四日目。
残された時間はあと,三日。
一護は自分の死について,いったいどんな評価を下すのだろうか。
ねぇ,一護サン。
アタシは別に死ぬのは嫌じゃないんです。
アタシには執着ってものがない。
違う。今まではなかった。
今はある。
そう,ひとつだけ。
たったひとつ。
死ぬのは嫌じゃない。
でも,キミと一緒にいられなくなるのは,堪らなく嫌だ。
傍にいたい。
声を聞いて,顔を見て,一緒に音楽を聴いていたい。
アタシが望むのはそれだけ。
アタシが執着するのは,キミにだけ。
ねぇ,一護サン。
これは答えになってる?
三日後,そう告げたなら,キミはいったいどんな顔をするだろう。
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元ネタは伊坂幸太郎さんの「死神の精度」です。
浦原さんが死神,だともっと底抜けな話になる。
一護視点だと,もっと寂しい話になる。
書いてみたら,こんなになりました。
今日の天気にぴったりな,もやっとした話。
(2008.06.03)