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まどろみは浅くたゆたように儚い。
瞼に差し込んでいた薄明かりが遮られたのを感じ,緩やかに意識は覚醒へと向かった。


目を開くのは嫌だと思った。
このまま意識を手放し,そのまま命さえ失えたらと切実に思った。


もうここに何日拘束されているかわからない。
繰り返される尋問と首を横に振るたびに与えられる電気ショックで一護の神経はずたずたに切り裂かれていた。
それでも口を開こうとしないのは最後の意地か,それとも-----。


「起きました?」


耳慣れない声だった。
そういえばいつもは複数ある気配もひとつしか感じない。
とはいえ一人だろうが二人だろうが,自分に苦痛を与えるためにそこにいることに代わりはない。


うんざりした心地で一護は目を開いた。
ぼやけた視界に姿を現したのは淡い色の髪をしたひとりの男だった。
一護の足元にしゃがみ込み,折った膝に頬杖をついてこちらを見上げている。
きっちりと着こなされた軍服とその姿勢がちぐはぐで一護はしばしの間男の姿に見入ってしまった。


「ハジメマシテ。ここで司令官やってる浦原っていいます。黒崎…一護サンでいいのかな?」


長閑きわまりない声で男はいい,にこっと人懐こい笑みを浮かべた。
一護は耳の奥で男の声に被さるように警報が鳴り響くのを聞いた。


浦原。浦原喜助。
敵の総司令官にして尋問の達人だという。「死神」と呼ぶ者もいた。
情報戦を担当する部隊にいてこの男の名を聞かない日はなかった。
ある者は嫌悪を込めて,またある者は畏怖を込めてその名を口にする。


『アイツと出くわしたら,万事休す。そこで終わりだ』


いつか耳にした先輩士官の言葉が蘇る。
ようやく終わりか。
一護の口か吐息が漏れた。
この男がやってきたということは自分に対する尋問も最終局面に差し掛かったということだろう。
いい加減耐えることにも嫌気がさしてきた。もう終わりにしてくれ。頼むから…。


焦点の定まらない視線を浦原に据えたまま,ぼんやりと頭に浮かぶ安堵や諦観やの綯い交ぜになった感情を追っていると,目の前の男はゆらりと立ち上がって一護の背後に回った。


拷問が始まる。


一護は唇を噛み締めて身構えた。
しかし続いて耳に滑り込んできたのは,一護の予想を鮮やかに裏切る言葉だった。


「うわ,酷いっスねこの手首。紐がきつ過ぎて皮が擦り切れてるじゃないスか。手当てしますんで,ちょっと待っててくださいな」


手当て。
手当てって云ったか今?
我が耳を失う一護をよそに,浦原は部屋を出て行くとしばらくして救急キットが納められたボックスを手に戻ってきた。


「ヘタクソにも程がある。どこのバカだ,こんなことしたの。一度シメないとだめだな…」


ぶつぶつと文句を云う声を一護の耳が拾う。
言葉の意味は理解できても,男の,浦原の意図が読めずに一護は困惑した。
じっと身体を強張らせて様子を窺っていると,椅子の背に回すように細いロープできつく戒められていた手首がふっと楽になった。


浦原は多機能ナイフを手に一護の前に戻ってくると,それを一護の膝の上に置きだらりと下げられた手をそっと取り上げた。


「消毒するんでちょっとしみますよ」


目を傷口に向けたままそう云い,丁寧な手つきで傷の手当をしていく浦原を一護は信じられないような思いで見つめた。


何の,罠だ。
何を,するつもりだ。


警報はどんどんけたたましくなっていく。
頭では浦原を,今起こっている現実を拒絶しなければと思っているのに,痛めつけられた身体は傷口をやさしく慰撫される感触に容易く懐柔されていく。
頭と身体がバラバラになるような感覚に,一護の口からうめき声が漏れた。


「あ,ゴメンナサイ,痛かった?」


手を止めちらりと視線を向けた浦原の目を,眉間に皺を寄せた苦しげな面持ちで見返すと,一護は口を開いた。


「…ンでこんなこと」
「ハイ?」
「ンで,こんなことすんだ…」


数日振りに発した言葉は,声が掠れて自分の耳にも聞き取り難いものだった。
しかし浦原はそこから的確に一護の意思を汲み取り,「んー…」と考え込むように目を伏せながら手当てを再開した。
傷口にガーゼを当てその上から丁寧に包帯を巻きつけていく。


「キミはね,アタシのものになったんです」
「……?」
「キミから得られる情報はもう無用の長物になったんです。つまり,うちとアチラさんで取引をして,その結果キミは切り捨てられたってこと」
「……うそだ」
「嘘だってんなら今すぐ解放してあげますよ。けど,アチラさんの基地に辿りつくや否やキミは連れ去られてそのまま銃殺。賭けてもいい」
「そんな…ばかな」
「馬鹿なってアタシもそう思う。でも事実なんスよ,これが」


一護は瓦解する音を聞いた。
強靭に鍛え上げられたはずの精神や任務に対する誇り,上官に対する尊敬の念。
守るべき仲間たちやその後ろに控える国民たち。
そういったもの全てが色を失い価値を失っていく。
干からびた落ち葉のようになったそれを,くしゃりと踏み潰したのは,再び響いた浦原の声だった。


「かわいそうに」


その声はすぐ傍から聞こえて来た。
抱きしめられている,ということを理解するのに数秒が要った。
浦原は軍服の膝が汚れるのも厭わず膝立ちになると俯く一護を正面から抱きしめ,その背を宥めるようにそっと撫でた。


一護の喉が引き攣れた音を立てる。
脳裏で微かに「嘘だ。これがコイツの作戦なんだ」と云う声もしていたが,それら全てを押しつぶすように嗚咽が漏れた。


「キミの身柄はアタシが責任持って預かります。心配することはなにもない。だから,しばらくはゆっくり休みなさい」


乾ききった大地に降り注ぐ慈雨のように浦原の声は一護に沁みた。
一護は嗚咽を噛み殺すと浦原の肩に額を載せ,深く深く息を吐く。
もういい。全部どうでもいい。
一度挫けた心は脆い。一護はのろのろと自分の腕が持ち上がるのを見た。
包帯の白さが眩しくて目を瞑る。そしてそのまま浦原の軍服の裾を握り締めた。


「あと少しの間だけ我慢して?」


浦原は一護の耳元にそう囁くと背と膝の裏を支えるそっと抱き上げた。
そのまま部屋を出てゆっくり歩き出す。
歩調に合わせて身体が揺れ,その振動で張り詰めていた一護の精神を撓んでいった。
ひたひたと忍び寄る睡魔を追い払うことなく力を抜くと,一護は全てを浦原に預け意識を手放した。

















一ヵ月後。
人気のない士官専用の酒場のカウンタに浦原の姿があった。


「珍しい子猫を拾ったんスよ。えぇ,アチラさんのね。いくら責め立てても口を割らないって賞賛半分呆れ半分で担当したアホが云ってたんで見に行ったんスけど,これがびっくりすることに子どもなの。でも子どもの方が頑なな生きものなのかもしれない。何せ疑うことを知らないから。ロープでずっと括られてた手首を手当てするアタシにも,何しやがるって掠れた声で食ってかかったし。 けど,楽しかったっスよ。疑いを知らない子どもに,ひとつひとつ疑惑の種を植え付けていくの。優しくして優しくしてその影で少しずつ毒を含ませていくような。今? えぇ,アタシの部屋にいますよ。もう前の主人のことなんか忘れてすっかりアタシに懐いて。朝から晩まで引っ付いて回って。ほんと可愛いったらない。もうちょっと落ち着いたら夜一サンにも見せてあげる」


酒をつくる女バーテンに向けて語るその口の端には甘やかな微笑。しかし口許と裏腹にその目は冷たく凍てついている。


カラン。
浦原はグラスを持つ手を目の前に掲げゆっくり揺すると氷が琥珀色の酒を攪拌するその様を見つめながら「あの猫,育ったらきっといいコマになる」と楽しげに呟いた。









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おっかしいな…。
麻生さんから頂いたmail読んで拷問な話を書こうと思い立ったはずなのに。
……所詮はへたれっちゅうことですかいな。(俯笑)
(2006.06.14)