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一護は夜勤のアルバイト先である内科医院の仮眠用のベッドに横たわり天井を見ていた。
身体はじっとりと疲れているはずなのに,どうしてか眼が冴えて眠れない。
少しでも眠っておかないと明日がキツイ。
それはわかっているのに,どうしても。


ため息を吐いて徐に身体を起こした。
宿直室は四畳半程のスペースにライティングデスクと回転式の椅子,そして病室にあるのと同じベッドが設えてあるだけの質素な部屋だった。


一護はライティングデスクに寄りかかると手を伸ばして煙草のパッケジを手に取った。
窓を細く開けながらパッケジを軽く揺すって飛び出した一本を咥え,使い捨てのライタで持って火をつける。
そして一服めを深く吸い,窓の隙間に向けて細く吐き出す。
煙の行き先を窺うように延ばした視線の先,まばらに立つ街灯の灯りの下を向こうからやってくる淡い色の髪を見つけたのはそのときだった。


一護は椅子から立ち上がると足元に置いた着替えなどが入ったディパックからペンケースほどのステンレス製の箱を取り出し,机の上に置いた。
そのままの姿勢で動きを止めると澄ませた耳が微かな足音を拾う。
それが止まるのを待って一護は宿直室を出て玄関へ回った。


暗い通路に咥えた煙草の先から煙がゆらゆらと棚引いた。
院内は禁煙。それは当たり前のことだったが,丑三つ時の院内にそれを咎めるような者はいなかった。
幸い入院患者は二名しかいない。
急な病変が起こりそうな患者でもない。
今日はゆっくりできると踏んでたのに,と思わなくもなかったが,そんなのは今更だった。


玄関の鍵を外し大きな音を立てないようにそっとドアを開けると,そこに漆黒のコートを纏い,左手を白いマフラでぐるぐる巻きにした男が立っていた。



「オヒサシブリですね」



伸ばしっぱなしの金よりも更に淡い,冬の月のような色の髪に眼差しを隠して男が云った。
一護はそれには答えず「血,垂らすなよ」とだけ声をかけてドアを大きく開き中へ入るよう男に向けて顎をしゃくった。


一護が先導するかたちで音の絶えた廊下を宿直室まで歩く。
ぱたん,と小さな音を立てて扉を閉めると,一護はようやく息を吐いた。


男に目顔でベッドに腰を下ろすように伝え,一護はライティングデスクに向かった。
その引き出しから簡易消毒薬のボトルを取り出すと白衣の袖を捲り上げ消毒液を両手に吹きかける。
咥えた煙草の煙に眼を細め,息を吐くことでそれを散らすと,ガーゼの束を掴んで男のもとへ戻りながら口を開いた。



「オヒサシブリじゃねーだろ。傷,見せろよ」



男は一護の言葉に肩を竦めるとコートを着たままベッドに腰を下ろし,開いた膝に肘をついて手を包むマフラを無造作に外した。
途端ぱたぱたと音がして床に血痕が広がった。それを見た一護は眉を顰める。
もたもたしている時間はなさそうだ,と煙草を置く場所を視線で探していると,男の右手が伸びて煙草を攫われた。
視線を上げ,男が旨そうに煙を吐くのを見て,また逸らした。
デスクに寄りかかり,男に向けて手を差し出す。
掌から滴る血をガーゼで受けながら,伸ばされた掌を包み込んだ。



「ナイフ?」
「匕首っスね。掠らせないつもりだったのが目算狂ってざっくりと」
「指は動くか?」
「なんとか」
「痺れは?」
「……大丈夫,かな」



ガーゼで傷口を拭いながら一護は淡々と尋ねた。
男がこうして夜更けにやってくるのは,初めてのことではなかった。
大概傷を負っている。
傷を負っていないときは荒れている。
そのどちらかの顔しかこのところは見ていない。


昔はそんなことなかったんだけどな。
傷口を拭い終えると,一護は息を吐いた。



「麻酔どうする」
「いらない」
「歯,食いしばってろ」
「誰に向かって云ってるの?」



傷口に据えられていた男の目が上がり,一護を見た。
微笑っている。
一護はベッドの枕元の電灯の角度を調整すると机の上の箱を手に取り,椅子を引き摺って男の前に据えた。


箱の中からピンセットを取り出し,それで釣り針にも似た縫合用の針を選ぶ。
もうひとつのピンセットで針に縫合用の糸を通し,男に向き直った。
静かに息を吸い,そして吐く。
一針目はいつでも手が震える。















最初に針を持ったのはもう10年も前になる。
ある日,町医者を営んでいる父が夜更けというよりも明け方近くに足音も荒く部屋に飛び込んで来た。
ベッドから蹴落とさん勢いで叩き起こされ,寝巻きのまま診察室へ引き摺っていかれた。 父親の剣幕に眉を顰めながらも眠い眼を擦りなんとか貼り付く瞼を引きはがすと,視線の先にはひとりの男がいた。



「本当に息子サンにやらせて大丈夫? 一心サンの方がいいんじゃないんスか?」



父指定席の向かい側,つまり患者ようの椅子に座った男は暢気な口調でそういうと椅子の回転に任せてゆっくりと振り返る。
一護はその顔を見て息を呑んだ。
男は汗でも拭うように顔の半分にタオルを押し当てていたのだが,そのタオルは溢れる血で真っ赤に染まっていた。



「親父…」
「一護,説明は後だ。俺が隣で指示を出すからお前,浦原の,コイツの傷口を縫え」



そんな馬鹿な。
アルバイトがてら父の手伝いをしたことはあったが,あくまで雑用。
注射はおろか縫合などは見たことしかなかった。



「…そんなのできるかよ」
「四の五の云ってる場合じゃねぇんだ。やれ」
「一心サン…」
「黙ってろ浦原。コイツは俺の息子だ。できる。一護,いいか?俺ができるなら頼まねえ。見ろ,この手」



一護の前に差し出された父の手は,まるでおこりがかかったかのようにぶるぶると震えていた。



「ちょっとヘマこいてな。明日には元に戻ると思うんだが,今は如何せん時間がない。だからオマエがやるんだ」



言い聞かせるように,そして否を許さない口調に,一護はおずおずと頷いた。
静かに息を吸い,吐く。それ二度ほど繰り返すと顔を上げて父を見た。


手順はなんとなく知っていた。
転んで膝を割った子どもの縫合や,硝子で深く傷つけて深夜にわたわたとやってくる主婦の縫合に立ち会ったことが何度もあったから。
しかし見るとやるとでは大違いで,父の指示の元器具を準備し,手指を消毒し,止血を行い準備が概ね揃ったところで一護は針を持ったまま浦原の傷口を前に立ちすくんでしまった。



「恐い?」
「……恐いっつーか」
「痛いのはアタシでキミじゃない。だから心配はいらないっスよ」



左目の上,眉からこめかみに向けて走る傷口は見た目にも深い。痛みはかなり酷いはずだ。しかも麻酔もかけていない。挙句に自分は素人だ。
それなのにコイツはなんでこんな平気な顔をしていられるんだろう。
一護は男の顔を見た。



「痛くなくても,人に痛いことするのってすげえ恐いもんだろ」
「……え?」
「第一アンタ,俺なんかに縫わせたらここに一生歪んだ傷跡残るんだぞ。それでもいいのかよ」
「それは構いませんよ」
「嘘吐け」
「嘘じゃない。切った張ったの稼業っスから,傷跡なんて屁でもない。それに」



浦原は一旦言葉を切ると,真っ直ぐな目で一護を見た。



「キミにつけられるのなら満更でもないような気もするし」



ふわりと口許を綻ばせた表情に一護は絶句した。



「なに云ってんだアンタ…」
「一護,早くやれ」



傍らに立つ父が急かした。
浦原も視線を寄越し,是と伝えてくる。
一護はもう一度深呼吸すると針を傷口の端に押し当てた。















ぷつ。
皮膚を針が突き破る感触。
10年前の感触が蘇る。
あれから幾度か浦原の傷口を縫合したが,毎回同じように思い出した。



『キミにつけられるのなら満更でもないような気がするし』



まるでそれを望むかのような言葉。
なんでコイツはあのときあんなことを云ったのか。


現在と過去が綯い交ぜになるような錯覚をおぼえながら,一護は手を動かしていた。
左手の小指の付け根に刻まれた傷口の長さと深さから見て,5針,と見当をつける。
二針目を引いた後,ちらりと眼を上げると浦原は微動だにせず,煙草を燻らせていた。
視線は一護でも傷口でもなく,デスクの上辺りに据えられている。
まるで痛みなど感じていないかのような静かな表情だった。
一護は視線を傷口に戻すと慎重に針を動かした。


風が窓を揺らす音。
浦原が静かに煙を吐く音。
それだけが部屋に満ちる。


一護は最後の一針を引くと,そっと糸を結びその端を切り,針とピンセットをデスクの上に放り出した。
一気に緊張が解け,詰めていた息を吐き出す。
余ったガーゼを傷跡に当て,包帯を巻くと,端を割いて結んで止めた。



「アリガトウゴザイマス」
「消毒は一日に二回。つーかちゃんとした医者行け」
「医者ならここに」
「俺,まだ研修医だぜ?」
「他の医者に身体見せる気ないっスよ」
「ばぁか」



浦原の口から随分と短くなってしまった煙草をもぎ取り,深く吸う。
机の上から灰皿と煙草の箱を取り,灰皿をベッドの上,浦原の右側に置いた。
パッケジから新しい煙草を引きだし,浦原に薦める。


ライタがないことに気づいて,身体を捻ろうとすると肘を引かれた。
視線で一護の吸いさしの煙草を示される。
それで意図を解した一護は,屈み込むようにして浦原に顔を寄せた。
俯いた一護の咥える煙草の先端が,仰向いた浦原の咥えるそれに触れる。
それに併せてゆっくりと吸い込めば,ちりちりと葉の焦げる音がして,浦原の煙草に火が点った。


部屋の中に煙が二筋ゆらりゆらりと立ち昇り,天井辺りで掻き消える。
一護は椅子に腰を下ろすとサンダル履きの脚を片方だけ引き上げ,それを抱いた。



「最近,ちゃんと寝てます?」



浦原が一護を見ずに云う。一護は視線を煙草の火に据えたまま「そこそこな」と答えた。
沈黙。
しかしそれは決して居心地が悪いものではなく,あるべき場所に全てが収まっているような安寧を齎すものだった。
一護はフィルタぎりぎりまで吸った煙草を灰皿で揉み消すべく腕を伸ばした。
しかしその手は灰皿に届く前に浦原に攫われてそのままベッドに倒れ込んだ。



「シーツ焦げるだろ。ここ,禁煙なんだぞ」



おそらくカシミアと思われるやわらかなコートの感触を頬に受けながら一護は眼を瞑り文句を垂れた。
浦原はひっそり笑うと右手で一護の唇から煙草を抜き取り,手探りで灰皿を見つけて揉み消す。
そして中途半端に乗り上げた一護の身体を抱えなおすように引き上げた。



「傷口が開くっつーの」



抵抗らしい抵抗もせず引き上げられた一護はため息混じりにそう告げると,浦原の顔の両脇に肘をついた。
深い緑色の瞳に昏い光を見る。
浦原は包帯を巻いた手の甲で一護の頬に触れた。



「開いたら,また縫って」
「ふざけんな。糸で裂かれてめちゃめちゃになった傷口なんか縫えるかよ」



吐息で交わす戯言だった。
浦原はふっと笑うと,両腕を一護の首の後ろに回し,胸に抱きこんだ。



「コート,皺になる」
「キミは文句ばっかりっスね」
「アンタが云われるようなことばっかするからだろ」
「疲れたんスよ。少し眠らせて?」
「寝るのは構わねぇけど,腕放せよ。俺は寝るわけにはいかねんだから」



浦原はしばし黙り込み,一護の背をゆっくりと撫でていたがため息を吐いて腕を解いた。
一護はゆっくりと身体を起こし,ベッドから降りると枕元に座りなおす。
新しい煙草を一本取り,先ほどとは逆に浦原の咥えたそれに自分のそれを近づけた。
伏せた睫の隙間から。細めた眼でこちらを見る浦原と目が合った。
しかし何も云わずに火の点った煙草を深く吸い込みながら顔を上げると,浦原の唇から煙草をもぎ取り,「寝煙草厳禁」そう嘯いて灰皿を窓枠に移し,短くなった煙草を揉み消した。



「寝ろ。寝ちまえ」



指を浦原の髪に潜らせる。
整髪料を使わない髪はするすると指を擽り,触れても触れてもその感触を曖昧にする。
浦原は一護にされるがまま身を委ね,コートのポケットに両手を突っ込むと眼を瞑った。



「申し訳ないんスけど,二時間経ったら起こしてもらえます?」
「あぁ」



一護は浦原から視線を逸らすと腕時計を見た。時刻は午前二時半を回ったところ。
夜明けまではまだかなりの時間があった。








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珍しく自分で云う。これ割と好きだ。
でも書いたのはもう半年くらい前ー?
(2006.05.27)