煙草屋の店先の自動販売機のすぐ横,見るともなしに目をやったサイネリアのつめたい青の向こうに鮮やかな緋色を見た。
火鉢の中に真冬の金魚。
そのとりあわせがおかしくて思わずしゃがみ込む。
手を伸ばせば触れられそうな水の下,緋色の金魚が億劫そうに身体を揺らしていた。
そういえば。
かつて幾度か金魚を飼ったことがあったが,大概冬を迎える前に死んで行った。
飼っていた,というのとも実際は違うか。
昔馴染みと出かけ夜店でせがまれ釣ったのだった。
友は釣らせるだけ釣らせると満足したように「一人暮らしじゃ寂しかろう。儂もたまに様子を見に行く。金魚鉢も買ってやろう。きちんと世話をしてやれよ」と勝手なことをのたまった。
翌日友は青い縁取りの金魚鉢を土産にやってきた。
汲み置いた水を注ぎ,そこに泳ぐ数匹の金魚をアテにその日の夜は酒を飲んだ記憶がある。
そんなこと幾度か…幾度も,繰り返されただけだった。
それが夏の記憶。
特別手をかけたり心を傾けたわけでもなかったが,朝起きて,ぬめるように白い腹を浮かせている姿を見るたび舌打ちが漏れた。
水に中に手を差し込み,屍を掬う。ひやりとしたあの感触。
そのまま捨て置くわけにも行かず,庭の適当なところに埋めた。
手は,合わせなかった。それが秋の記憶。
金魚。
とりとめなく追憶を拾い上げていると,緋色より更に明るい色の髪をした不機嫌な顔の子供の面持ちが不意に浮かんだ。
不機嫌。不遜。不躾…ではないな。
くつり,喉が鳴る。
「浦原」
このところ,つよい声に潜む響きに揺らぎが見えるようになってきた。
ゆるゆるとこんぐらがった銀鎖を解くように手間隙かけて手懐けた甲斐があるというもの。
甘い菓子と甘い言葉。時折つめたい眼差しで距離を知らしめ,またゆっくりとそれを詰める。
張り詰めた糸は橈むことなく,妙なる音を響かせるようになるはず。その思いは確信めいていた。
しかしまだ,時は到らず。
背後に気配。
踵をほんの僅かに磨る足音を覚えたのはいつのことだったか。
靴を履いたものよりも,板張りの床をぺたぺたと歩く音の方が身近になりつつあったが,それでも光放つような霊圧と共に,この音を自分が間違えるはずはない。
あの子は自分に気付くだろうか。
それとも気づかぬ振りで通り過ぎるだろうか。
小さな賭けを思いつき,黒羽織の袖をちょいと押さえて手を伸ばす。
触れられた金魚はぴしゃりと癇性な跳ね方をした。
「何やってんだ,アンタ」
肩越しに降る声に躊躇の響き。
胸のうちに甘さが広がる。
「黒崎サンじゃないスか。今お帰りで?」
帽子に手を添え,目深に被り直しながら顔を上げる。
「午後自習続くっつったから,自主休校」
「サボり?」
「ちげーよ。課題は終わらせてきた」
「アタシはサボり」
「え」
「店番してたんスけど気が乗らなくて,煙草買いに行くのを口実に出てきちゃった」
くすり,口の端を引き上げて肩を竦めて見せると,「暢気なもんだな」と眉間に皺を寄せたまま笑顔らしいものが向けられた。
まっすぐに笑えばいいのに。
手を伸ばして,ちょいちょい,と手招きをする。
「なんだよ」
「いいから,ちょっと顔貸してくださいな」
伸ばされた指先を睨むように見据えて,それでも手がそこにとどまっていると,そろそろと顔が寄せられた。
眉間の皺に触れてみる。
途端,身体が強張るのが見て取れて,しかし逃げるのは嫌だというように,更に眉間の皺が深まった。
「くせに,なっちゃいますよン」
「……もう手遅れだろ。つーか触るな」
邪険に顔を振る。
でも,顔を背ける瞬間,指先を目が追っていた。
「この後は」
「帰る」
「うち,寄ってきません?」
「…用事,ないし」
「テッサイが」
「テッサイさん?」
まるで免罪符。
部下の名を口にすれば,子どもの目はきらりと輝く。
甘いものが好きなのだ。
この子どもが通うようになってから,部下は日替わりであれこれと菓子を作るようになっていた。
この子どもが自分にとって快を齎す存在であると知ってか知らずか。
でもそんなことはどうでもいい。黙認は指示と同じ。ただ,それだけ。
「甘ったるい匂いが朝からしてたんで,何かあると思いますよ」
「…勝手に食っていいのかよ」
「アタシのすることに,誰が文句をいいます? それに雨たちの分はちゃんと分けてあるはず。テッサイも黒崎サンがおいしいおいしいって食べてくれるの楽しみにしてるみたいですし,ねぇ」
残ってたらがっかりするんじゃないスか。どうせアタシは食べないし。
らしくなく言葉を継げば,思案顔が,窺う顔になった。
「いいのか?」
「アタシがお誘いしてるんスよ。どうせみんな夜まで帰ってこないんだ。アタシの話し相手になってください」
「……わかった」
こくん,と頷くのを見届けて,ゆらり,立ち上がる。
視線が近づくと,子どもが直截な視線を向けてきた。
「何?」
じ。
据えられた視線を小首を傾げて見返すと,不意に手が伸ばされた。
細い指だ。
剣を握り,力のままに振るうことを覚えた今でも,指だけは頼りなく細い。
それが自分に触れるのを待つ。
触れたのは右頬の少し上。目の下。
そっと擦るように触れた後,自分のしたことに自分で驚いたように手を引いた。
「何?」
「み,水が撥ねてた」
赤らんだ頬を隠すように背けて。
ぴしゃん。
背後で金魚が跳ねた。
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たまには,雰囲気違うの書いてみたかったんだけど。
……玉砕。
(2005.02.28)