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腕の中にあの子がいない。
目覚めて最初に感じるのが喪失感だなんてのはぞっとしない。


重たい瞼を無理矢理開いて薄目を開ける。
光の加減から察するに遅い朝か早い午後。
休みの日にしては早く目覚めたみたいだけど。


覚めたのは頭だけで身体はまだ重たく云うことを聞かない。
視線だけを辺りに伸ばすと,アタシのシャツを羽織っただけの姿で窓辺に引き出した椅子の上膝立ちになって外を見ているあの子の背中が目に入った。
裾から伸びた細い足と,するりと伸びた漆黒の尻尾。
袖が長すぎるため腕の半ばまで捲り上げてあり,脚同様華奢な腕の先,白く曇ったガラスに拳を押し当てては指でちょんちょんと落書きをしている。
ひとり遊びに夢中になっているのか,明るい橙色の髪からちょこんと立った黒い耳がぴくりと動いては鮮やかなピンク色の内耳が見える。
部屋の隅で焚いている石油ストーブの上の薬缶が立てる甲高い音。
時計の針が時間を刻む音が遠のいていく。


「何してるの?」
「……足跡」


振り返ったあの子は悪戯を見つかった子どもみたいな顔をした。


「おいで」


毛布の端を捲って手招きをする。
あの子はアタシを見て窓硝子を見て,椅子から降りてこっちへやってくる。


「ひとりにしないで」
「ここにいる」
「もっと側に」
「甘えてんの」
「そう,甘えてるの」


シャツの襟元から素肌にキス。
好き。大好き。
言葉でなしに伝わればいいと強く思いながら幾度も繰り返す。


アタシの頭の上,くすくすと笑いながら耳にふう,と息をふきかける。


くすぐったい。
恨みがましく視線を上げれば,額に唇が落とされた。


「何するの」
「何時に起きる?」
「おなか空いた?」
「や,オマエが寝てる間にりんご一個向いて食べた」


薄情な。腕を伸ばして首に絡めて引き寄せる。
唇を重ねると,ほんとだ。甘い匂いがする。


「オマエのも剥く?」


首を振って腕を背に滑らせた。
ぎゅう,と抱きしめ,左胸の心臓の上に耳を押し当てる。


「りんごなんかいらない」


自分のものとは思えない拗ねた声。
頭上からはふわりと笑う気配がして,髪の中に指が梳き入れられた。
髪を梳くように撫でるように掌が滑る。
指が耳に触れ,そのくすぐったさに首を竦めた。
耳もぴくんと震えたはず。


その耳の先を細い温かな指が捉えた。
するすると撫で,抓み,感触を楽しむように,何度も,何度も。


「オマエの耳,好きだ」
「耳?」
「そう。金色の毛がふわふわですべすべしてて」
「そりゃまぁ確かに自慢の耳ですけど。…耳だけなの?」
「……今のところな」
「アタシはキミの全部が好き」
「いとも簡単に全部とか云うな」


否定というより,呆れた声。
呆れてもいいですよ。信じないなら信じなきゃいい。


こうしてそばに,腕の中にいてくれれば,今はまだ。




『今のところな』


キミが何気なく口にしたその言葉が,どれくらいアタシに希望を持たせるか知ってる?
知らなくてもいいけど。
信じなくてもいいし,知らなくてもいいけど。


あくびをひとつ。
また,瞼が重くなってきた。
背中に回した腕に力を込めて,更にぴたりと寄り添って。


キミを抱いてまどろむこの一時だけがアタシのすべて。
そう云ったらキミはどんな顔,するだろう。










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にゃんこ。
ただ,なんとなく。(遁走)
(2006.01.10)