「好きなんだけど」
そろそろ薄暗くなってきましたし,戸,閉めましょっかね。
そんな風に云って,庭と縁側を隔てるガラス戸を締めに立った。
からからから,と音を立てて戸を引き,ぴしゃ,と締めて半月状の鍵を跳ね上げる。
これでよし。そう思ったときにときに,云われた。
一瞬振り返ることを躊躇した。
それは唐突な告白だった。
否,唐突じゃなかったのかもしれない。
共に居るときの所作のそこここに自分に対する好意はそこはかとなく感じ取れては,いた。
しかしそこに恋情独特の表面上の高揚の後ろに影のようにたゆたう昏い光のようなものは微塵も感じられずに,云わば「気に入りの服」に対するような気持ちだろうと推測していた。
そしてそれは事実とそう遠くないところにあると確信してもいた。
どんなに達観したところがあったとて,大人びて見えることがあったとて,相手は紛うことなき子どもだ。
自分の感情を取り違えることなどよくあることではあるし,恋に恋するなんて言葉もある。
しかしそれをどうやってこの子にわからせようか。
頭を抱えたくなった。
「なぁ,聞いてる?」
「ああ,はい」
なんとか表情を取り繕って振り返ると怒った顔の黒崎サンが睨みつけるようにこちらを見ていた。
「なんだよその気抜けた返事」
「いや,なんてお応えしたらいいものか,と」
「数学じゃねーんだ。考えて答えだすようなものじゃねーだろ」
好悪の感情だけ告げるならね。
でもね,大人にはイロイロ事情ってものがあるんスよ。わかってないなあ。
ため息を吐いてすたすたと部屋に戻る。
こちらを見上げる黒崎サンの目は真っ直ぐで,距離が縮むと直視するのが辛くなった。逃げるように少し逸らすと今度は見てはならないものを見てしまった。
黒崎サンのあぐらをかいた両足首を掴む手が,微かに震えていた。
緊張,してるんだ。
不意を突かれて心臓が跳ねた。
うやむやに,とかできなくなった。
どうしよう。
この子,傷つけたくない。
「一緒に考えてみましょう」
苦肉の策にそう告げて,一護の前に腰を下ろす。
視線の高さを合わせて,腹を括ってまっすぐに顔を見た。
「考えるって何を」
「キミのキモチ」
「考えなくたってわかる」
「わかってない」
「わかってる!」
鮮やかな橙色の髪をぶるんと振って,アタシの言葉を否定する。
どういえば伝わるか。
どういえば傷つけずに済ませられるか。
ひとを傷つける術なら容易くいくらでも見つけられるのに,こんな子ひとりフォローできない自分にじくりと苛立ちが沸いた。
「…わかってないようだから云うけど,アタシはお買い得な人間じゃないっスよ」
自然,声が低くなる。
睨みつけるようにこちらを見つめる強い瞳が,ほんの一瞬揺らいで直ぐに力を取り戻した。
「第一アタシはお尋ね者だ。いつここからいなくなるとも限らない」
「…………」
「第二に,キミとアタシは暮らす世界が余りにも違う。キミはアタシが望んだからって今の暮らし全て放り出す覚悟なんかあるの?」
「……それはッ!」
「ああ,皆まで云わなくていいっスよ。無理なのなんかわかってる。キミにある未来がアタシにはない。アタシはただここに停滞しているだけ。キミと同じだけ先へ進むことも出来ないし,キミに未来を約束してあげることも出来ない」
「そんなの…」
「アタシはキミになーんにも与えてあげられない。そんなの,ツマラナイでしょ?」
欲しいというだけで手が伸ばせるというのならとっく手に入れている。
ちりつく執着を無理矢理嚥下して,嫉妬に冷水ぶっかけるような真似をして,彼が傍らに居るときに少しでも心地よく居られるように心を砕いてそれだけでよかった。
何かを欲したのなんてどれくらいぶりかなんてわからないほどだった。
最初はいらつき,つっけんどんに手放そうとした。
しかしすぐにこの太陽にも似た鮮やかな橙色が恋しくてたまらなくなる。
笑って。
喋って。
ここにいて。会いに来て。
アタシはそれだけで十分だから。
そう思っていたのに。
苦心して築いた砂の楼閣があっという間に崩れていくような錯覚を覚えた。
壊したのがそこに留めておきたかった相手じゃ仕方がない。
どうしよう,いっそ記憶を改竄しちゃおうかしら。
自棄気味にそう思って一護に目をやると,視線の先,滑らかな頬を透明な雫が一粒滑り落ちていくのが見えた。
泣いてる。
「あ。や,ゴメンナサイ。傷つけるつもりじゃ…」
慌てて拭おうと手を伸ばした。
すると伸ばした指先を遠慮会釈のない力でばちんと叩かれて……。
「このバカ!」
怒鳴られた。
「誰がオマエに未来をくれって頼んだ。俺が頼んだか? いつ? なぁ云ってみろ!」
目に涙を溜めたまま,噛み付くような勢いで。
伸ばしかけた手の行き場に困っていると,その手を掴まれて思い切り揺さぶられた。
「俺はアンタが好きだって云った。それは打算も何も関係ねえただの感情の塊だ。アンタが好きでアンタと一緒にいたいと云った。それだけだ。それが迷惑ならそう云え! 俺のためだとかつまんねーからやめておけだとかわけわかんねー御託ばっかし並べるな!!」
言葉で頬を張られたような心地がした。
返す言葉もなかった。
「迷惑じゃ,ないっスよ」
自分じゃ随分生きてきたつもりでも,こんなときに返せるのはなんの捻りもないそんな一言だった。
傷つけまいというのは傷ついて自分から離れていかれるのが嫌だから。
結局はエゴでしかない。
ガラスケースに閉じ込めて毎日眺めて暮らす。そんなことに焦がれたのか。
そんなことをこの子が許すと思ったのか。
我ながら短慮というか脳が沸いてるとしか思えない。
ため息が出た。
「じゃあ,アタシの本音を云いましょ。でも,聞いたら後戻りはできないっスよ? それでもいいの?」
らしくもなく掌が汗ばんだ。
否といわれたらどうしよう。
もういい。オマエなんかいらない。
そんなこと云われたら多分立ち直れない。
作務衣の膝で掌を拭って。肘の辺りをぎゅっと掴む彼の手をそっと外した。
だからそんな目で見ないでって云ってるのに…。
「お茶,いれてきますね」
返事がないのをいいことに沸いた頭を少しでも冷まそうとそう告げて立ち上がる。
すると紅茶色の瞳がきつい光を取り戻して作務衣の裾が掴まれた。
弾みでかくん,とバランスを崩して膝をつく。
「逃げるなッ!」
黒崎サンの感情の温度にアテられたとしか思えない。
咄嗟に前後不覚に陥って身体が勝手に動いてしまった。
「逃げさせてください。じゃないとほら,こんなことしたくなっちゃう」
掠れた声でそう告げて,顎を捉えて上向かせて,驚きに見開かれた瞳をじっと見つめたまま唇を寄せた。
ちゅ。と音を立てて一度。
はむ。と下唇を食んで一度。
薄く開いた唇に舌を差し込もうともう一度顔を寄せたら突き飛ばされた。
「何しやがる!!!」
尻餅をついたまま,黒崎サンを見た。真っ赤になって口を押さえて,飛び退くように身体を引いたその姿が途方もなく可愛かった。
もういいや。どうしたって欲しいのならば手に入れてしまえばいい。
自分の執着が化け物じみている自覚はあるけれども,それでもいいと云うのなら誠心誠意キミだけに愛を乞いましょう。
「続き,されたくなかったらお茶淹れに行く許可くれます?」
立てた膝に顎を載せて,首を傾げて尋ねてみた。
き,許可も何も,勝手にすれば…っ!
口を押さえたままなのでもごもごと不明瞭な声。
「え,何? 聞こえない」
わざとそう云って四つん這いになってゆっくり近付く。アタシが距離を詰めた分,まるで磁石の同極同士のように彼は後退りした。
逃げるのはいいけど,ほら,直ぐに障子戸ですよ?
「お茶,飲むでしょ?」
かたん,と黒崎サンの背中が障子戸に触れる音を聞き,最後の距離を一息に詰める。
鼻先の触れる距離でもう一度そう尋ねると黒崎サンは,ひゅう,と息を詰めたままこくこくこくと頷いた。
ちょっと勿体無いような気もするけれど,にっこり笑って立ち上がる。
「戻ったら,もう一度お話ししましょ」
そういい置いて,俯いてしまった橙色の髪をくしゃりと撫でて部屋を出た。
後ろ手に引き戸を閉め,その場に思わずしゃがみ込む。
もしかしてこれって瓢箪から駒って云う?
緩む顔が抑えきれない。
どうしよう,歌いだしたいくらい嬉しい。
あの子に触れた唇が熱を持っているのがわかる。
触れたくて触れたくてそれでもずっと我慢していた。
幸福のレベルを忍耐の及ぶぎりぎりまで引き下げていた。
それなのに,一気に天井知らずにそれが上がって。
どうしよう,歯止め,利かなくなるかもしれない。
お誂え向きにテッサイもみんな連れて外出中だし,時間はまだまだたっぷりある。
門限?
そんなものどうとでもなるでしょ。
ふくふくと緩みっぱなしの顔のまま台所を目指す。
今日は,人生最高の日。
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一浦狙って玉砕。(痛)
(2006.01.03)