こちらはサイト内「Text」の「葬儀屋と高校生」と同シリーズになります。
順を追って読みたい方はそちらからそちらからお読みください。
――明日,空いてる?
携帯に届いたメールを開いて,一護は小さく息を吐いた。
浦原から届くメールにはいつも件名がない。
いつだったかどうして,と尋ねると「件名を書くとそれだけで用が済んじゃうんスよ」という答えが返ってきた。
確かにいつも件名なしの,本文もたった一言だ。
素っ気無いにもほどがあるメール。
一護は返信釦を押すと親指ひとつで「空いてる」とやっぱり一言だけ書いて送信する。
友人たちとやりとりするメールよりも,更に素っ気無い返事。
けれども携帯を閉じるより早く再び返信があって,浦原がそれをちっとも気にしていないことが知れる。
――じゃあ,明日四時に○○駅で。
記されていた駅名は知ってはいるけれども降りたことのない駅のものだった。
記されていない用件については尋ねずともわかる。
「…またなんか美味いケーキ屋でも見つけたのかな」
声に出して呟きながら「OK」とだけ返信する。
続くリプライは多分ないはずだった。
時刻は日付が変わる少し前。そろそろ寝ようか,とベッドに入ったところだった。
浦原さんはまだ起きてんのかな。
ベッドにうつ伏せて,顔のすぐ横に置いた沈黙した携帯電話を見ながらそんなことを考える。
何してるんだろう,とも。
数ヶ月前ひょんなことから知り合った浦原は,一護にとって「謎の人」だった。
何を生業としているかも,よく考えたら齢も知らない。
住んでる場所は知っている。携帯の番号とメールアドレスも。それから食べ物と音楽の好み。
食べ物は甘いもの。正確には美味しい甘いもの。
雑誌に載るような有名なカフェやら,ホテルの最上階にあるラウンジだとか,知り合ってからこっち一護は随分連れまわされた。
「なんでいちいち俺連れて行くわけ」
そう尋ねると浦原は
「だって,アタシひとりでこういうところ来るとへんな顔されるんスもん」
としれっとした顔で云う。
「そんなの気にするような人じゃねーだろ。浦原さん」
一護が顔を顰めると,ケーキを掬い取ったフォークを口にしたまま「わかる?」という風に目元だけで笑う。
「気にはしないけど,でもされるよりされない方がいい」
わかったようなわからないような。
一護は眉間に皺を寄せたまま目の前の皿をそっと浦原の方へ押し遣る。
と,いいの?と目顔で尋ねられ,うん,と頷くとすぐに浦原のフォークが伸ばされる。
それを見て一護はなんだ,とひとり納得した。
「っつーかアレだろ。俺がいればケーキ三つ食えるもんな」
甘党の浦原は悩みに悩みながらいつも二種類のケーキを頼む。
一護は一種類。支払いが浦原だからというのもあるし,一護はそこまで甘いものが好きではないからだ。
好きではない,と云っても嫌いなわけではない。
浦原に連れられて行く店は,大概どこも感心するほど美味しい店ばかりだったし,その気になればもうひとつくらいは食べられた。
けれども,なんとなく。そう,なんとなくそれが習慣になってしまっていた。
「それだけじゃないっスよ?」
浦原はその日一護がオーダしたモンブランを丁寧な手つきで一口分掬い取り,じっと味わうように目を伏せた後,「ん,おいし」と呟きながら一護を見た。
「他にどんな理由があるんだよ」
「会いたいって思うから」
「…は?」
「一護サンに会いたいなー。よし,じゃああの店に行ってみよう。そう思ってメールするの」
順番は会いたいなって思う方が先なんスよ。
顔を赤くする一護を余所に,浦原はどこまでもしれっとしている。
誰かに会いたいとか,普通は思っても冗談でも易々とは口にしないものじゃないのか?
一護は信じられないような思いで浦原をじっと見る。
すると一口分だけ削られたケーキの皿が押し戻され「こっちのも食べる?」と浦原の目が上がって一護を見た。
「オヤ,顔が赤いっスよ。一護サン」
云われなくたってわかってる!
と一護が顔を背けるように横を向くと,向かいで浦原がくすりと笑う気配がした。
性格が悪い。性格がっていうよりも,根性が。
一護は火照った頬をなんとかしたくて,つめたい水のグラスを取ると喉を鳴らして飲み干した。
だいたいがいつもこんな風だった。
浦原といると一護は困らされてばかりいる。
けれどもそれが嫌というわけではなくて。
否,嫌は嫌だ。居心地悪いと感じるし,なんでこのひとはこんなことばっか云うんだ,と浦原を責める気持ちになる。
なのに,こうしてメールが届くとよっぽどのことがない限り,一護は呼び出された場所にひょいひょいと出向いてしまうのだった。
目を閉じても眠れる気がしなくて,一護はのそりと身体を起こすとベッドから立ち上がって壁にかけた制服のところへ行った。
ポケットを探ってミュージックプレイヤを取り出し,それを手にベッドに戻る。
両耳にカナル型のイヤフォンを差し込んで枕を抱えるように横になる。
スイッチを入れると浦原に借りた古いアルバムからダウンロードした曲が流れ出した。
幾重にも重ねられたヴォーカル・トラック。
楽器の音はひとつも入っていない。歌い手は日本人で,曲はすべて古い洋楽のカヴァ。
中途半端なところから始まった曲は一護が聴き入るうちに終わってしまい,次の曲がかかる。
一護のミュージックプレイヤは安いものなので曲名やアーティスト名が表示されない。
その為,自分で買ったものは流石に枚数が少ないから覚えられるが,浦原に借りたCDを取り込んで聴いていてもそれが誰のなんという曲だか覚えるのがなかなか難しかった。
これ,誰だっけ。
イヤフォンから流れる心地良い声にじっと耳を澄ませる。
いくつか候補が浮かぶけれども,確信が得られないまま曲は終わってしまった。
そんな風にしているうちにだんだん意識がほどけてきて,ことりと眠りに落ちてしまう。
明日,四時に待ち合わせ。
会ったら浦原さんに何歳だか聞いてみよう。
教えてくれるだろうか。それともまた曖昧にはぐらかされてそれっきりになるんだろうか。
眠りに落ちる刹那,一護が考えたのはそんなことだった。
照明を落とした部屋の中,浦原はソファに寝転んだまま酒を飲んでいた。
部屋の中には低いとは云いかねるボリュームで音楽が流れている。
Feistというアーティストは近頃親しくつきあっている高校生から教えてもらったものだった。
クセのある声をした女性ヴォーカリストで,出身は確かカナダ。
視聴盤を聴いて一目惚れしたんだ,と熱っぽい口調で語る姿を思い出して,浦原は口の端を引き上げた。
服が濡れるのも構わす腹の上に載せたグラスを引き寄せる。
グラスの中身は貰い物のモルト・ウィスキで,氷の塊ひとつと一緒になみなみと注がれている。
舌を痺れさせる強い酒を音を立てて啜りながらほろ酔いの心地良くたわんだ意識で,さっきしたばかりのやりとりを思い出す。
明日の夕方,四時。
待ち合わせは目的地に近い地下鉄の駅にした。
――本当は一護サンの学校がある駅まで迎えに行ってもいいんスけどね。
前に一度そう申し出たときの反応を思い出して,浦原は小さく喉を鳴らした。
「や,いいよ。学校の近くとか,誰に見られっかわかんねえし」
「…アタシ,そんなにみっともない?」
「ちがっ,違うって!そういう意味じゃなくて」
「じゃあ,どうして?」
真っ赤になって言葉に詰まる姿がかわいらしくて,ついつい苛めたくなる。
ひとをいじめて喜ぶそんな悪い趣味なんてないはずなのに。
自分と一護の関係は,いったい何なのだろう。
酔いの回った頭でぼんやりとそんなことを考える。
趣味の合う友人。
そんなところか。
友人。……友人ねぇ。
「友人」という単語から齎される一護以外の面影に浦原は顔を顰めた。
我ながらろくな「友人」がいない,としみじみ思う。
そのせいか「友人」というカテゴリに一護を入れることになんとなく違和感のようなものを覚えてしまう。
「もっといいもの」にカテゴライズしたい。
そうおもうけれども,元が狭い交友関係のため浮かぶカテゴリ名がなかった。
一護のことを思うと,勝手に顔が緩んでしまう。
気に入った音楽を薦めてくれる時の熱っぽい口調だとか,一緒に甘いものを食べに行ったときの少し呆れた顔だとか。
そんな顔をするくせに,一護は黙って付き合ってくれる。
女性客ばかりの店内で,居心地だって悪いだろうに。
もともと,誘いをかけたのは気まぐれだった。
若い子だから,たくさん食べるかなとかそんなことを考えた気もする。
けれども一護はいつ,どんな店に行っても必ず一種類しか頼まない。
他には?と浦原が尋ねても,俺はこれでいい,と首を横に振る。
「甘いものはあんまり好きじゃない?」
「浦原さんほどじゃねーよ。……でも,嫌いってわけでもない」
付け足された言葉に,浦原はどうしようもなく頬が緩むのを感じた。
気遣われている,とわかってしまった。
無理して付き合ってるわけじゃないからな,と教えてくれてると。
いいこだな,と思った。
素直じゃない,けど,とてもやさしい。
浦原の視線を避けるようにそっぽを向いた横顔で,耳朶がほんの少し赤くなっているのに気がついた。
かわいいなぁ,としみじみ思った。
知り合ったのが,初夏の頃。
最初は懐いてくれなくて,一度会っただけで二度目はないかと思われた。
けれどもほどなくして律儀な性格からか連絡をくれた一護を,浦原はらしくなくムキになって繋ぎとめた。
今思えばあのときの自分は床に座りこんで駄々を捏ねる子どものようだった,と思えなくもない。
よくも呆れられなかったものだ,と思う。
聞けば一護には二人の妹がいるらしい。
頼られたり縋られたりすると弱いのかもしれない。
来るものは拒まず,去るものは追わず。
手近にあるものでいつもすべてを賄ってきた自分が,ムキになって誰かを繋ぎとめるなんて。
しかも齢が倍も離れた子どもを。
ましてやその子どもにあやされて喜んでるなんて。
...I'm pale as a pile of bones
You hope for your babies and this is how they grow
With batters knocked over
The teeth bite the shoulder
Watching the gray sky that's acting like a good guy...
スピーカから聞こえてくるメロディに合わせて歌詞を口ずさむ。
13曲入りのアルバムのうち,一番気に入りの曲だった。
理由は「これ,俺が一番好きな曲」とはにかむような笑顔で一護が教えてくれたから。
あの笑顔を目にした瞬間,イヤフォンから聴こえてきたこの曲は浦原の中でも一番になった。
明日。
明け方前に家を出て,一件仕事を片付けなければならない。
綻んでいた口元から笑みが消える。
掃除屋がやってくるのが朝九時。その前に出棺を済ませなければならない。
ということは七時には現地着,車を借りに行かねばならないし,余裕を見込んで五時には家を出ないとならない。
夕方繋ぎを取った大家は最後まで渋っていたけれど,ちゃんと時間通りに立会いにやってくるだろうか。
面倒なトラブルがなければいいけれど。
できれば待ち合わせ前に一度家に戻りたい。
誰かの死を引きずったままあの子に会うのは気が引ける。
自分の生業を恥じたことはない。
仕事絡みのツテとすることもあるから,雀荘や酒場で知り合った人間にはなんのてらいもなく口にする。
副業の方が阿漕なことをしている分口にするのが憚られるくらいだ。
しかし,一護のことを思うとなんとなく口が重くなる。
「浦原さんて,何してるひと?」
そう尋ねられたのは知り合ったばかりの頃のこと。
浦原が曖昧にごまかすと一護は呆れたようにため息を吐いた。
呆れてる?と浦原が尋ねると「呆れてるっつーか,聞かれたくないならそう云ってくれりゃいいのに,とは思う」と云われた。
嫌なら踏み込まないから。
そんな風に云う一護に浦原は笑って「聞かないで」と頼んだ。
以後,一護が浦原の仕事について尋ねたことはない。
ふと,気がついた。
仕事だけではない。あれから一護が浦原について何か尋ねる,ということは一度もなかった。
浦原は顔を顰めた。
つまらない,と思った。
距離をおかれている?と。
浦原が尋ねたことに,一護は大概答えてくれる。
たとえば家族構成だとか。
父親と,妹が二人。妹は双子なんだそうだ。
小学生も高学年になってくると,相手をするのが難しくなる,と複雑な顔で云っていた。
「一人はどんどん生意気になってくるし,もう一人は未だに一緒に風呂入ろうとか云ってくるし。アイツら双子のくせに違い過ぎだ」
そんな話をしたときも,浦原の兄弟については一護は尋ねてこなかった。
「……失敗したかな」
呟く声は,自覚している以上に苦かった。
距離をおきたかったわけじゃない。まったくの逆だ。
手に持ったグラスを揺らすと,からん,と澄んだ音が響いた。
かけっぱなしの音楽は,一周し終わって二周目に入っている。
浦原は薄くなった酒が三分の一ほど残っていたグラスを一息に干すと酒精の滲みたため息を吐いた。
今からでも軌道修正は利くだろうか。
どうしたらいいだろう。
どうしたらもっとあの子の近くに行けるだろう。
なんで,とか,どうして,とか,そんなことは考えなかった。
考えるまでもない。
そうしたいから。
ただそれだけだった。
目が覚めたらソファの上だった。
腕がだらしなく床へと落ちていたせいで,痺れて感覚がない。
首にも肩にも,先のふたつに比べると幾分増しだが腰にも動かすと「うっ」と声が漏れるほどの痛みを感じた。
「…痛」
呻きながら身体を起こし,腕の感覚が戻るのを待つ。
暗がりに慣れた目が,首と肩の痛みの一因になったらしい携帯電話を見下ろす。
ちょうど物足りない枕よろしく首と肩の間にそれが当たっていたせいでこの有様らしかった。
「馬鹿か」
呟く声は酒に焼けたか酷く掠れていた。
こんこん,と空咳をして,風邪ではないことを確かめる。
動かなければ。仕事だ。時間に遅れるわけにはいかない。
だらりと垂らした腕の先に拳を作ろうとすると叫び足したいような感覚があった。
それを堪えて二度三度ぐー・ぱーと繰り返す。
多少無理矢理のきらいはあるがそうするうちに少しずつ感覚が戻ってくる。
「あー」
まだ幾分感覚の鈍い手を首の後ろに当て,イタタタタ,と顔を顰めながら首をぐるりと回し起き上がった。
完全に寝違えた。
湿布とか…と思ってはみたものの,常備薬があるような家ではない。
せいぜい頭痛がしたときに飲む鎮痛剤のストックがあうくらいだ。
「あのテの薬ってこういう痛みにも有効なんスかね…」
呟きながら立ち上がり,デスクに置いたノート型のコンピュータに向かう。
右手を首に当てたまま,左手でショートカットキィを操作しスリープから立ち上げ音楽用クライアントソフトを呼び出す。
エンドレスで繰り返していたアルバムからディレクトリ全体のシャッフルへと切り替える。
...i'll never be able to give up on you
so never say good bye and kiss me once again...
歌い出しに合わせて歌詞をなぞりながらバスルームへ向かう。
モニタの右上に表示された時刻は四時過ぎ。開け放したカーテンの外はまだ夜だ。
のんびりというには足りないが湯を張ったバスタブで身体を伸ばすくらいの時間はある。
「……もう,齢なんスかねぇ」
呟きながら顔を顰めて,浦原はコンピュータに背を向ける。
スピーカからは「あなたしか見て無いのよ。今すぐ此処でキスして」と袖を引いてせがむような声が繰り返していた。
「オハヨーゴザイマース」
欠伸交じりに声をかけながらドアを潜ると,馴染みの社員がコンビニのおにぎりをくわえたまま振り返った。
「あ,どーも」
「スミマセン朝一でまた車借りに来ました」
「あ,ハイ。聞いてます。鍵はいつものところに」
「アリガトウゴザイマス。これ,いつもお世話になってるんでツマラナイものですけど。社長サンいらっしゃったらよろしくお伝えください」
「あ,お気遣いありがとうございます。伝えます」
浦原が差し出した紙袋をおにぎりの海苔がついた手で受け取った社員は顔を上げて浦原の顔を見て,首を傾げた。
「浦原さん,首,どうかしたんすか?」
「あー,ちょっと寝違えちゃって」
「冷蔵庫に湿布とかありますけど,使います?」
「いや,そんなお世話になるわけには」
「でも,痛いでしょ。首変に曲がってますよ?」
云うなり社員は浦原から受け取った紙袋を近くのデスクに置き,まっすぐに冷蔵庫へ向かった。
そして中から封を切っていない湿布のパッケジとドリンク剤のボトルを持って戻ってきた。
はい,と差し出す気のいい笑顔を見て,浦原は「そうだ,オガタさんだ」と社員の名前を思い出した。
顔は覚えていても名前を思い出すのにはどうしたって時間がかかる。
「これもどうぞ。朝早くっからお疲れ様です」
「アリガトウゴザイマス。オガタさんこそお疲れみたいっスけど今日は寝ずの番?」
「下っ端だから仕方ないっす。でも電話鳴らなきゃソファで寝ててもいいし。さっきまでゲームしてたんすけど」
肩を竦めるオガタに「不景気だとツライっスよね」と社交辞令を交わして浦原は事務所を後にした。
手には湿布のパッケジとドリンク剤,それから車の鍵。
浦原は腕時計で時間を確認すると駐車場へ向かう前に勝手知ったる素振りでトイレへと向かった。
上着を脱いで洗面台に引っ掛け,ネクタイを緩め,シャツの前を開ける。
湿布のパッケジを開けると軋むように痛む首をなるべく動かさないように肩から首にかけて一枚貼り付けた。
ひんやりとした感触に思わず声が漏れる。
腰にも貼ろうかと迷ったが,手を遣り痛みの具合を確かめそこまで酷くもない,と判断を下す。
ツーンと鼻に来る薄荷の匂いにため息を吐きながら「あぁでも助かった」としみじみした声を漏らした。
端からはがれてくることのないよう,指先でなぞるように押さえてから服を着込む。
釦をはめるとき,ネクタイを締め直すとき,上着を羽織るとき,どうしても動きがぎこちなくなったが自業自得なので仕方がない。
再び黒衣に身を包んだ浦原は一度鏡の中の自分を眇めるように見ると,痛む身体を捩るように肩の辺りを手で払い,湿布のパッケジとドリンク剤の瓶を手にトイレを後にした。
ただでさえあちこち痛いってのに,こんなところから荷物を背負っていくわけにはいかない。
背中で恨みがましい声がしたけれども,振り返ることなくドアを抜けて外へ出た。
駐車場に並んだ四台の車のうち,一番左に停まっていたヴァンに向かう。
その車は一般に「寝台車」や「搬送車」と呼ばれる遺体搬送用の車だった。
「霊柩車」と呼ばれるものと違って外装的な装飾は一切施されていない。
改造箇所は内部に限られ,後部座席を全て取り払い遺体を載せる台と棺をスムーズに載せるためのレールとそれを固定するためのストッパが設けられている。
前のドアの下部に書かれた「限定」という表記以外にそれが遺体搬送用の特殊車ということを示す印はない。
浦原は慣れた仕草で運転席に乗り込むとイグニッションを回し,窓を開け,シートベルトを引き出しながらカー・ステレオのスイッチを入れた。
今日の仕事はここから車で一時間ほどの距離にある単身者用のアパートだった。
三十代男性。身長は170センチ弱。
火葬場の予約は午前十時。現地からの距離を逆算しても,どこかで少し時間を潰さなきゃならない。
それでもまぁ時間に追われるよりはよっぽどマシだ。
浦原は込み上げた欠伸をぷかりと放ちながらダッシュボードの上に転がしてあったドリンク剤のボトルに手を伸ばした。
煙草が吸いたい,と思ったけれども仕事中は一段落つくまで吸わないと決めている。
口に端についた雫を指先で拭いぺろりと舐める。
カー・ステレオから流れてきたのは眠たくなるようなボサ・ノヴァで,浦原は「勘弁して」と云いながらラジオのチャンネルを変えるべく手を伸ばした。
地下鉄を降りて早足で改札を目指す。
時刻は十六時を十分ほど過ぎていた。
待ち合わせは十六時だったけれど,帰りしな教員に呼ばれたせいで遅くなってしまった。
学校を出る時点で待ち合わせに間に合わないことはわかっていたから,浦原へは携帯で経路検索をして到着時間を知らせてあった。
折り返し「諒解」と返事は貰っていたものの,ひとを待たせるというのは性分に合わないし気が引ける。
だから一護は人のまばらなエスカレータを一段抜かしで駆け上がった。
B3出口…,と声に出して呟きながら待ち合わせ場所を探す。
天井近くに設えられた案内板を見て向こうからやってくるひとの間をすり抜けながら足早に向かうと,漸く目当ての地上への出口を見つけることができた。
階段を二段飛ばしで上がる。
地上が近づいてくると,出口のところに寄りかかるひょろ長い人影が目に入った。
浦原さん,と呼びかけようとして,うっと一護は声を詰まらせた。
こちらに背を向け立つ浦原の左肩。
そこに性質のよくないものが貼り付いていた。
家族以外の人間におおっぴらに云うことはなかったが,一護は所謂「霊感体質」というやつだった。
一護の家族は父親を除いて多かれ少なかれそのテの感覚が鋭かったが,一護は群を抜いていた。
子どもの頃から「見れる・触れる」のA級で,そのせいで嫌な目に遭ったことは数知れない。
流石にこの頃では対処の仕方も身につけ日常生活に支障が出ることはなくなったが,それでもちょっとこれは…と怯みたくなるようなものを浦原は貼り付けていた。
世界全てを恨む,悪意に満ちた顔。
浦原の顔を覗きこむようにして,「見えてんだろ?本当は見えてるんだろ?なんで無視するんだよ。なぁ…」と聞いているこっちが滅入るような声で何度も繰り返している。
近づくにつれ耳障りな声ははっきり聞こえるようになり,一護はぐっと腹に力を入れると不自然にならない程度の強さで「それ」が張り付く左肩を叩いた。
驚いた顔で浦原が振り返る。
「あ,一護サン」
「ごめん,待たせた」
「いえ。ぼーっとしてたらすぐでしたよン」
云ってへらりと笑う浦原の顔を思わず一護はじっと見つめた。
「何?」
小さく首を傾げる浦原は,いつもの浦原だ。
一瞬覚えた違和感。でもきっと気のせいだったのだろう,と一護は首を振って「で,今日はどこ行くわけ?」と不器用に作った笑顔で尋ねた。
浦原の先導で夕暮れ前の街を歩きだす。
地下鉄の出口を出るとそこは坂の一番下にあたる場所で,一護たちはその坂を上るように進んだ。
飲食店が多いな,という印象だった。
ほどなくしてさっきの性質の悪いのが戻ってきた。
何するんだよ,と恨めしげな声で云いながら今度は一護の方へ纏わりつく。
一護はほんの少し歩調を遅らせると,顔を覗きこんでくる「それ」を睨みつけた。
一護のつよい眼差しを受けて一瞬「それ」がたじろぐのがわかる。
けれどもすぐに「ニタァ」と見ているこちらがぞっとするような笑みを浮かべて「お前は俺を無視しないんだな」と嬉しそうに云った。
消えろ,と低い声で呟くと「嫌だねぇ」とまた笑う。
浦原が近くに居なければ,力づくで追い払ってしまえるのだけれど。
先を行く浦原の背中を見る。
前からやってくるひとをすい,と避けながら,その都度小さく振り返って一護を見る浦原。
はぐれてないか,気にしているのか。ひとにぶつかることがないように気遣ってくれてるのか。
多分両方だろう。
一護は纏わりついてくる声と視線を無視することに決めると,大きく足を踏み出して浦原と並んだ。
「大丈夫?」
「何が?」
「疲れてるかなって」
「別に。初めて来たところだから物珍しかっただけ」
「あー,確かにこの辺はあんまり若い子が遊ぶところって感じはないっスよね」
「手前にあった不動産屋見たんだけど,なんでここ家賃あんなたっけえの?」
「んー,交通の便いいし,昔ながらの街でもあるしね。そういえば江戸時代はこの坂,階段だったらしいっスよ」
笑って云う浦原に,一護はえっと先に長々と続く坂を見上げた。
「これ,全部?」
「そう。裏通りにはまだ面影あるから,後で少し歩いてみます?」
うん,と頷く一護に浦原が笑みを深める。
「後はそうだな,もう少し遅くなると多分名残が見られると思うんスけど,この辺昔は花街だったんスよ」
「花街?」
「学校の歴史の授業で習わなかった?吉原とか島原とか,芸者サンがたくさん居る街」
「あぁ,なんか習った」
「京都の祇園や金沢の茶屋街なんかに比べると規模は随分と小さいっスけど,でもまだ夕暮れ時になると芸妓のお姐サンが歩いてるの見れますよ」
「浦原さん,この辺よく来んの?」
一護の問いに,浦原の答えは「たまにね」というものだった。
そうして浦原に案内されたのは,驚くことに一護も名を知るファミリ・レストランだった。
コンビニエンス・ストアの横の階段に足をかける浦原を見て,一護は思わず声を上げた。
「え,ここ?」
「そう,ここ」
驚く一護が面白いのか,浦原は笑みを深めて階段を昇り始める。
慌てて後に続きながら「この店,うちの近所にもある」と云うと「へぇ,そうなんだ」と云いながら浦原がドアを開けてくれた。
案内に立ったウェイタに「二人。できれば喫煙席で」と浦原が云う。
しかしウェイタからの答えは「大変申し訳ありません,全席禁煙となっております」とのものだった。
喫煙席を設けない代わりに喫煙所を設けているのでその近くの席に案内してくれると云う。
ウェイタの後に続きながら浦原が小さくため息を吐くのが聞こえた。
店の奥の方へと進み,ガラス張りのドアで仕切られた喫煙室のすぐ隣の席へと通されると,腰を下ろしながら浦原が「これが食べたかったんスよ」と重ねられたメニュの一番上にあったものを一護の方へくるりと回した。
「パンケーキ,食べ放題?」
浦原が寄越したメニュには「お好きなだけパンケーキ!」と大書きされ,絵本で見るようなきつね色のパンケーキが三枚重ねられた皿がずらりと並んだ写真があった。
パンケーキの上にはこんもりとアイスクリームのようなものが盛り付けられている。
そういえば,と一護は店内をぐるりと見回した。
ほぼ満席の店内はほとんどが女性客の数人連れで,テーブルには漏れなくこのパンケーキの皿が置かれている。
「前回のキャンペーンのときは知るのが遅くて食べに来れなくってね。悔しくて悔しくて毎日サイトチェックしてたんスよ」
「それはなんていうか…執念だな」
若干引き気味の一護を余所に,浦原はどこまでも楽しそうに一護の方へ向けたメニュをくるりと自分の方へ回して口の端を引き上げた。
「一護サン,パンケーキは好き?」
好き?と尋ねられて一護は答えに困った。
一護にとってパンケーキというのは家で作る簡単な菓子というイメージで,今でも気が向くと日曜日の午後などに妹たちに作ってやることがある。
「好き…っつーか,店で食ったことない。家ではたまに作るけど」
一護の言葉に浦原の目がきらりと輝き,メニュの上に肘をついて身を乗り出した。
「一護サン,パンケーキ作れるの?」
「作れるったって市販の粉使って作るヤツだけど」
「え,いいなあ…今度アタシにも作ってくださいよ」
「いや,でもこんな風にきれいに焼けねえし。大きさもまばらだし」
浦原の肘の下敷きになったメニュへと視線を落としながら余計なことを云わなきゃよかった,と一護が後悔していると,店員が水の入ったグラスを持ってやってきた。
ご注文は,と聞かれ浦原がパンケーキのメニュをトントン,と二回指で叩いた。
そして同じでいい?と一護に目顔でたずねてくるのに頷くと「二人前で」と付け足した。
飲み物は二人ともコーヒーにした。
店員が去っていくと「一護サンのパンケーキ,いいなぁ…」とまだしつこく食い下がる。
「だから,そんないいもんじゃねーって。ちょっと待ってりゃもっといいの出てくるんだろ?好きなだけ食いなよ」
「アタシのためだけに焼かれたパンケーキってのが魅力なんスよ」
「無理だから。そんな期待されたら余計に,絶対無理だって」
浦原が尚も食い下がろうとしたとき,浦原の上着のポケットの中で携帯電話が鳴り出した。
低い振動音に浦原の顔が顰められる。
取り出してかけてきた相手を確認すると深いため息を吐いてごめんね,と云って席を立った。
仕事の用件か何かなのだろう,と一護は首を横に振り,ついでに追求を逃れられたことにほっとした。
しかし今度は別の難題が目の前に現れた。
浦原に纏わりついていた「アレ」が立った今まで浦原が座っていた席に図々しく座ったのだ。
「…そこ,勝手に座んなよ」
一護が低く唸るように云うと,ニタァ,とまたソレは嗤った。
齢の頃は三十代といったところだろうか。首に荷物の梱包などに使う白いビニル製の紐が下がっている。
狡い,だの,お前らばかり,だの,どうして無視するんだ,だの。
耳にへばりつくような不快な声音で継がれる恨み言に,一護の眉間には深い皺が刻まれる。
俺は辛かったのに。誰もわかってくれなかった。お前も無視する。みんな不幸になればいいんだ。不幸になれば。
延々と繰り返される陰気な声に,一護は開きかけた口を噤んだ。
無言で立ち上がるとテーブルにあった塩の容器を手の中に隠すようにして向かいの席へぶちまける。
飛び散った量は少なかったけれども,音鳴らぬ悲鳴を上げて男の影は霧散した。
少なくともしばらくはこれで大丈夫だろう。
一護はため息を吐きながら椅子に腰を下ろし,テーブルに頬杖をついた。
にしても,なんだって浦原さんあんなのくっつけてたんだろう。
首から下がった紐は男が自ら命を断ったことを告げていた。
そういった霊は一護の経験上基本的に自分が死を選んだ場所から離れることはない。
あんな風に誰かにくっついて来るなんて。
疑問には思っても,それを尋ねることはできない。
見えていないものは存在しないのと同じだ。
訊かれても浦原にはなんのことかわからないだろう。気持ち悪いヤツ,と思われるかもしれない。
浦原さん,遅いなと視線を窓から店内へと移すと,店の入口のドアを潜って浦原が戻ってくるのが見えた。
「ゴメンナサイ。仕事の電話だったから出ないわけにはいかなくて」
「や,平気。っていうか今日は仕事じゃ」
と云いかけて一護は口を噤んだ。
会ったばかりのとき,何の仕事をしてるんだと尋ねた一護に浦原は「訊かないで」と云った。
だから以後,一護は踏み込まないようにとずっと気をつけていたのだ。それなのに。
「…ごめん」
「それより一護サン。ああいうの見えるの?」
一護は云われた意味がわからず,俯いていた顔を上げた。
浦原は自分の左肩に触れ「さっき居たでしょ。ここに」と糸くずを払うような仕草をした。
「え,あ,いや」
「びっくりした。一護サンに肩叩かれたらアレ消えちゃうし。そしたら一護サンの方に張り付いて,どうしようかなって思ってたのに,電話から戻ったら消えてるし。さっきなんかしたの,アレ塩?」
一護はまじまじと浦原を見た。
「浦原さん,見えてたのか?アレ」
「ハイ」
「見えてたのに,無視…」
「相手すると際限ないから。無視し続けてれば大概そのうちどっか行っちゃうし」
「あーまぁ確かにそれが一番手っ取り早いっちゃそうだけど…」
一護は口篭りながら浦原を見た。
聞いてもいいのだろうか。浦原が立ち入られたくないところまで踏み込むことにならないだろうか。
迷いが頭を過ぎる。
浦原はテーブルの上から水の入ったグラスを取り上げ,唇を湿らせるように口に含んだ。
「今日のね,仕事のときにアレに張り付かれちゃって,ほんとに困ってたんスよ。まぁほら,フツウのひとには見えないっスけど,もし一護サンに会ってなんかあったらどうしようって」
一護の躊躇を余所に浦原はテーブルに頬杖をついて喋り出す。
そして一護が相槌を打つこともできず,曖昧に頷くと,グラスの置かれていた場所に残る水の輪を備え付けの紙ナフキンできれいに拭いていた浦原の目がすっと上がって一護を見た。
「一護サン,前にアタシが聞かないでって云ったの,気にしてくれてるでしょ」
一護がぎく,と顔を強張らせると,それが答えになったらしく浦原は「ごめんね」と目の奥をじっと覗き込むように見つめて云った。
「…そんな,謝るようなことでもねえし」
「うん,でも気にしてくれたでしょ」
「それは」
「嫌われたくなかったんスよ。キモチワルイって思われたくもなかった」
「仕事でひとのこと嫌いになったり,しないだろ普通」
「でも,ああいうのにくっつかれる仕事っスよ?フツウは引くでしょ」
「……俺は引かない」
「葬儀屋なんスよアタシ。ちょっと特殊な」
葬儀屋,と云われたとき,一護の頭の中で記憶の破片がパズルのピースのように微かな音を立てて繋がった。
一番最初に会ったときの浦原の姿。
細身の黒いスーツに白いシャツ,そして黒いネクタイ。
そして,こうして一緒にいるときに,ほんの時折浦原から漂ってくる匂い。
香水にしては少しいがらっぽい,でも気持ちが落ち着くようなあの匂い。あれは,線香の――。
「アレ,あんまり驚かないっスね」
「いや,あの匂いが」
「匂い?」
「たまに浦原さんから,線香の匂いがするから」
「え,ほんと?」
気をつけてたつもりだったのになァ,と着ているシャツの袖口を鼻先に寄せ,くんくんと匂いを嗅ぐような仕草をする浦原に,一護は慌てて言葉を足す。
「き,今日はしてねえし!それに,そんな嫌な匂いじゃなくて,いい匂いだし!」
一護の言葉に浦原の動きが止まる。
袖口から一護へと視線を動かし,じっと見つめる。
そしてそのままテーブルに突っ伏しくすくすと笑い出した。
「え,何…」
「いや,本当に杞憂だったんだなって」
「キユウ…」
鸚鵡返しに呟いたけれども「キユウ」の意味はわからなかった。
でも,浦原が嬉しそうにしているのだけは確かに伝わってきて,一護はほっとしていた。
「葬儀屋って云ってもさっきも云ったけどアタシのやってるのはちょっと特殊なんスよ」
浦原は聞いてくれる?と一護に目顔で尋ねながら話を再開させた。
一護は頷くとテーブルのグラスを取り上げ水を一口飲んで気持ちを落ち着かせてから話に耳を傾けた。
「一護サンは新聞やテレビなんかで『孤独死』って言葉,聞いたことある?」
「ある。ひとりで暮らす老人が,誰にも看取られずに死ぬことだろ」
一護は父親の仕事柄,そして無駄に強い霊感のせいで普段から人の死に纏わる話題には敏感だった。
無念な死に方をすればするほど,その想いは強く死した後も尚人をこの世に縛り付ける。
寂しい,だとか,悔しい,だとか。
その想いは転じて人への恨みへと変わる。
うん,と頷いて浦原は言葉を継いだ。
「アパートやマンション,賃貸のね。ああいうところで人が亡くなるとね,その亡くなった人に身内がいないと,大家さんがお弔いしなきゃいけなくなるんスよ。詳しい仕組みは話しても嫌な世の中だなってしかならないと思うんで省くけど,アタシの仕事はそういう仕事」
そういう仕事,と締め括られて一護はじっと考え込んだ。
誰も来ない小さなアパートの一室に素っ気無い白木の祭壇が設えられ,黒いスーツに身を包んだ浦原が正座している姿を想像する。
傍らには大家らしきひとの姿。
祭壇の前には袈裟を身につけた僧侶が座り,低く読経の声が流れる。
寂しい,心が痛くなるように寂しい情景。
「葬儀って云っても呼べるような人も居ないし,正確には後始末に近いんスけど」
続く浦原の言葉に一護は首を傾げた。
「後始末?」
「えぇ。葬儀屋って云っても花輪設えて祭壇用意してお坊サン呼んで,とかそういうことは一切なしなんで」
「ごめん,上手く想像できねえ」
一護が眉間に皺を寄せてじっと見つめると浦原は困った風に苦笑を浮かべた。
するとそのときトレイを手にしたウェイタが近づいてきて,「お待たせしました」とパンケーキの載った皿とコーヒーのカップをテーブルに置いた。
それを潮に会話が止まる。
白い皿の上にはきれいなきつね色のパンケーキが三枚。
上には専用の道具で掬い取って盛り付けられたアイスクリームのようにこんもりとホイップされたバターが載せられている。
そしてアイスコーヒーに添えられるシロップを入れるような器にはたっぷりのメープルシロップが。
一護の向かいで浦原が嬉しそうに喉を鳴らした。
「浦原さん,すっげ嬉しそうだな」
「だって念願だったんスもん」
云いながら浦原は一番上に載せられたホイップバターをナイフを使ってパンケーキの上に広げ出した。
一護もそれを真似,二人しばし無言でパンケーキと向き合う。
二枚目,三枚目にもバターを塗り終えた後はナイフとフォークを両手に持ち,放射線状にナイフを入れ八等分にする。
家で食べるとき,――昔,母親がまだ生きていた頃はいつもこうして貰っていた。
母親が亡くなった後は一護が妹たちに同じようにしてやった。
今はもう妹たちもそれぞれ自分で食べられるけれども,相変わらず同じようにして食べている。
八等分したパンケーキの上にたっぷりとシロップを注ぐ浦原を見ながら,一護は小さく笑みを零した。
「…何?」
「いや,ほんとに嬉そうだなって」
「子どもみたいって呆れてる?」
云いながら差し出されたシロップの器を受け取りながら「それはない」と一護は首を横に振った。
「ほんと?」
「本当だって。だって念願だったんだろ?」
とろりとしたシロップをパンケーキの上に満遍なく掛け,器をテーブルに戻す。
そして浦原と顔を見合わせて「イタダキマス」とフォークを手に持った。
ファミリィ・レストランのパンケーキということで高を括っていたが,実際に食べてみるとそのパンケーキは美味しかった。
生地は文句なくふわふわで,一護が家で作るものとは全然違っている。
「浦原さん」
「ん?」
「これ,美味いな」
「そっスね。これなら確かに何枚でも食べられそう」
「おかわりすんの?」
「とりあえず」
三枚重ねのパンケーキを食べ終えるのに,十五分も掛からなかった。
テーブルに設えられた釦で店員を呼びつけ,三枚の追加を頼む浦原に促され,一護も二枚の追加を頼んだ。
「二枚でよかったの?」
「家帰ったらメシ食わないとならないし」
「あ,そっか」
「浦原さんは?」
「アタシ?」
「そう。もしかしてこれが」
「ん。アタシの夜ごはん」
「……野菜とかは」
「えー,だって合わないでしょ。パンケーキ甘いし」
「いや,そうじゃなくて」
コーヒーを啜りながら上目に浦原を見て,一護はため息を噛み殺した。
こうして何度か一緒にケーキを食べに連れて行って貰う度に思うことがあった。
一護の倍も食べる浦原。
もとから大食漢なのか,それとも,もしかして――。
「一護サン,眉間に皺寄ってますよン」
「いや,」
「何?」
「……浦原さん,ちゃんとメシって食ってる?」
「ごはん?」
聞き返す浦原に「余計な世話だったらごめん」と小さな声で詫びる。
浦原は応えずにじっと一護を見つめた。
「食べてない」
「え」
「だってひとりで食べても美味しくないし」
「え」
「朝はコーヒーだけ。昼は食べない。夜はお酒飲んでオシマイ」
「ちょ,それって」
「こうやって一護サンと一緒に美味しい甘いもの食べに行くのが唯一の楽しみ」
淡々とした声で云う浦原が本気なのか冗談なのか,顔を見ても一護にはわからなかった。
皿の上にはまだ一切れパンケーキが残っていて,すっかり冷めてしまったそれを見ながら一護は唇を引き結んだ。
「いーちごサン」
向かいで浦原に名を呼ばれる。
強張った顔のまま一護が浦原を見ると,浦原が「云って」と云った。
「…何を」
「思ってること。飲み込まないで。そのまま云って」
「……メシはちゃんと食わなきゃ駄目だと思う」
躊躇いながらも,詰めていた息を吐き出すように一息で云った一護に,浦原はなんだか楽しそうな顔をしている。
「でも,ひとりで食べるのって味気ないんスよ」
「それはわかるけど…」
偶に父親が泊りがけで学会に出かけていて,妹たちが友達の家に泊まりに行って一護が家にひとりになることがある。
確かにそういうときは何をするのも億劫で,朝も昼もコンビニで済ませてしまったり,インスタントのラーメンなどを適当に作ってそれで終わらせてしまうことがある。
でもそれはあくまで偶にだから許されるわけであって――。
「誰か,一緒にメシ食う相手とかいないの」
「いないっスねぇ…。っていうか,一緒にごはん食べたいって相手が今のところ一人しかいない」
「じゃあその人に言えばいいじゃん」
「つきあってくれる?」
は?
思わずぽかん,とした顔をした一護に,浦原はテーブルの上に腕を突いて身を乗り出して顔を寄せる。
「誘ったら,付き合ってくれる?」
「え,俺?」
自分の顔を自分で指差し,確認するように尋ねると浦原は何の躊躇いもなく頷いた。
「え,いやだって他にいるだろ」
「いないっスよ」
「いやいやいやいや,ほら,オンナのひととか」
「アタシみたいな商売で出会いとかあると思う?顔合わせるのは焼き場のひとと役所のひとと後は死んだひとだけっスよ」
「そ,それって…」
言い澱む一護に,浦原は「カワイソウだと思うならつきあって」と更に迫る。
しかしそのときまるで天の助けのように追加のパンケーキが運ばれてきて,一護は心底ほっとした。
「浦原さん,俺コーヒーとってくるけどいる?」
逃げるように立ち上がる一護に,フォークを手にした浦原の視線がじっと向けられる。
「こ,コーヒー取りに行くだけだから」
まるで言い訳のように繰り返して,一護はテーブルの上のカップに手を伸ばした。
まだ頬の辺りに浦原の視線を感じる。
なんなんだよもう,と思いながらテーブルを離れても,今度は背中に視線を感じた。
いったい何なんだ。
俺にどうしろって云うんだ。
気持ちを整理するためにもなるべくゆっくりと思うのに,背中に感じる浦原の視線に急かされるように足取りは速くなる。
結局一護は何も考えられないままにコーヒーとカフェオレの入ったカップを手にテーブルに戻ることになった。
戻りたくなかったが戻らないわけにはいかない。
カップの中身を零さないように慎重に歩くふりでなるべく歩調を遅くしてみたものの,それでもあっという間に浦原の待つテーブルに辿り着いてしまった。
「はい」
「ありがとう」
ソーサの上に置いたカップを浦原の手が取るのを見ながら一護は向かいに腰を下ろした。
浦原の方を見ないまま追加分のパンケーキにナイフとフォークを使う。
向かいの浦原の皿のパンケーキはもう三分の一に減っていた。
別に浦原と一緒に食事をするのが嫌なわけではないのだ。
ただ,向けられる好意――って呼んでいいのかわからないけれど,他にどう呼んでいいかわからない――の理由がわからない。
聞けばいいのかもしれないけれど,聞いていいものなのだろうか。
シロップの滲みたふかふかのパンケーキを頬張りながら一護はちらり,視線を浦原に向けた。
浦原は八等分したパンケーキを三枚一度にフォークに突き刺し,口へと運ぶ。
開いた口から白い歯が見えた。
なんの躊躇いもなく,歯を立て,滲みるシロップの甘さだろうか。それともやさしく歯を受け止めるパンケーキのやわらかさだろうか。
その両方のせいかもしれない。幸せそうに目を細めた。
ひとりで食べるのは味気ない。
確かにそうかもしれない。
仕事の話をしながらの食事,というのもあまり楽しくない,と家で父親も云っていた。
頭の禿げたジジィ連中のくだらない薀蓄聞きながら食うメシはどんなに高いもんでもちっとも食った気がしないのだ,と。
それならば家で妹の作る食事を家族で囲む方がずっと何倍も美味いのだ,と。
そういうものなのかもしれない。
自分は浦原の家族ではないけれども,それでも,まぁ…。まぁ…マシ,といえばそうなのだろう。
「……平日は次の日学校あっから無理だけど」
浦原を真似て二枚積み重ねられたパンケーキを一度にフォークに突き刺し口へと運ぶ。
ほのかなバニラの風味とバターのしょっぱさ,そして噛み締める度にじわりと染み出るシロップの甘さ。
むぐむぐむぐ,と口を動かしながら一護は上目に浦原を見た。
浦原は口へとフォークを運ぶ途中のまま動きを止めて一護を見ていた。
「でも,俺みたいなんとメシなんか食って楽しいのか浦原さん」
一護の言葉に,浦原の顔がくしゃりとなる。
目を細めて,口へと運びかけたフォークを皿に戻してしまう。
そして手で顔を覆って,「どうしよう」と呟くように云った。
「すごく嬉しい」
笑みを孕んだ声と,くしゃくしゃにして笑うその顔から嘘や建前のようなものは感じられない。
本当に喜んでるらしかった。そうとしか思えない。なんでそんな嬉しいのかはちっともわからなかったけれど。
浦原さんって,友達とかもいねえのかな。
オトナになると仕事柄とかでそういう付き合いも難しくなったりすんのかな。
比較対象が自分の父親しかないため,上手く想像することができない。
自分の父親と浦原は,何か違うのだ。
齢も違うし,それだけじゃない。
――浦原さん,お洒落だしな。
私服と云えば学会や畏まった場に出るときのダークスーツ(どう見てもその筋の輩にしか見えない)と,後はどこで見つけて来るんだかさっぱりわからないまるで舞台衣装かなにかのような珍妙な服しか持たない比較対象を思って一護は深いため息を吐いた。
と,向かいで浦原の顔が曇るのがわかった。
「あ,違う」
咄嗟に口を開いていた。
「今の浦原さんにじゃねえから!」
そう言葉を継いでも,浦原の表情は変わらなかった。
一護は自分の不用意さを悔いながら眉間に皺を寄せる。
誤解は解かなければならない。
「浦原さん,お洒落だなって思ってたんだ」
「え,」
「そのシャツとか。花柄だろ?なのになんかすっげえ似合うなって」
「…えっと,もしかしてアタシ褒められてる?」
「すっげえ褒めてる」
「や,でも,」
「浦原さんに比べて,うちの親父はって思ってたらこんな顔になったんだよ」
云いながら唸るように太い息を吐く。
今日の浦原はダークカラーの細身のダメージジーンズに濃いグレイのウェスタン調のショートブーツ,上には紺色に小花柄が散るシャツを着て,首には銀色のモチーフが下がったチョーカーを巻いている。
ライダース風のジャケットは黒で,手首には時計の変わりに革製のブレスレットが三重に巻きつけられている。
本当になんていうか,雑誌からするりと抜け出てきたような,としか一護の少ない語彙では言い表せない伊達さだった。
「ハァ,お父サン」
「見せるのは家の恥だけど,今度写真撮って見せるわ。俺の口からアレを言い表すには言葉が足りねえ」
苦みばしった声で云う一護に,浦原の目がじっと注がれる。
一護はコーヒーを啜りながら「嘘じゃねえよ」とその目を見返した。
浦原の目がふわりと和らぎ,テーブルに頬杖をついた。
「服,似合う?」
「似合う。ありきたりかもしんねーけど,モデルみてえって思った」
「ほんと?気合い入れてきた甲斐がある」
喉を鳴らして笑う浦原に,一護も釣られて頬が緩む。
「気合って…あ,この後なんか用事あんの?」
デートとか。
冷やかすような気持ちで言葉を継ぐと,浦原はあっさり首を横に振った。
「本屋寄るけど,用事って云えばそれくらいっスよ」
「え,」
「一護サンに会うのに一緒に居て恥ずかしいって思われたら嫌だなって」
「いや,いやいやいやいや,俺だぜ?俺なんかにそんな」
云いながらも一護は顔が赤くなるのを感じた。
浦原の言葉のどこにも嘘は感じられなかった。本当のことを云っている,というのが伝わってきてしまった。
なんで,そんな。
そう思いながらも,一護にはわかってしまった。
浦原が本当に自分と会うのを楽しみにしてくれていたんだ,ということが。
頬が熱い。
もしかしなくても,きっと今自分の顔は赤いだろう。
みっともねぇ,と思いながらも顔が上げられないまま一護は目の前のパンケーキにフォークを突き刺した。
生地に滲みたシロップがじわりと滲み出る。
一護は胸のうちにも同じように甘ったるいものが滲み出るのを感じた。
自分がシロップの滲みたパンケーキだとしたら,フォークは。
そう考えて,視界の端に映る浦原の手を見る。
皿に添えられた人差し指にゴツいリングの嵌められた左手と,フォークを掴む飾りのない右手。
なんだか急に胸が苦しくなるのを感じた。