こちらはサイト内「Text」の「葬儀屋と高校生」と同シリーズになります。
順を追って読みたい方はそちらからそちらからお読みください。





目覚めはいつも空白だ。
空白。ブランク。真っ白。空っぽ。
まるで新しいページが捲られたノートのような頭の中に,最初に滑り込んできたのは雨の気配だった。

寝乱れたベッドの上,指先を動かす。
中指。人差し指。あ,動く。生きてる。
馬鹿みたいなことだと思うけれど,いつの間にか習慣になってしまった仕草を今朝も繰り返し,のろのろと身体を起こす。

寝室のドアの向こうはリヴィング。
灯りをつける必要はなかった。カーテンを閉め切っていてもどこかぼんやりと明るい。
テレビの下のHDDレコーダに表示されたデジタル時計に並んだ数字は10と22。
欠伸をしながらデスクの上でスリープモードになっているノート型のコンピュータを起こし,ショートカットキィを操作すると音楽が流れ出す。
最近の音楽用クライアントソフトは利口で,キィワードを入力するとそれにそぐう曲名やアーティスト名を即座に呼び出す。
雨だから,という単純な理由で「rain」と入力した浦原は,表示された百を少し越える曲目を眺めてもう一度欠伸を漏らした。

「rainだと,brainもtrainもrainbowもいっしょくたにされちゃうんスねぇ…」

結局入力したキィワードを反故にして,いつもどおり90GBほど入っている曲をまるごとのシャッフルを設定してデスクを離れた。
向かった先はバスルームで立ったまま十五分熱いシャワーを浴びてようやく人間らしい気持ちを取り戻した。

適当な服を着込んで濡れた髪を拭いながら部屋に戻り,キッチンでコーヒーを淹れる。
カップに2/3注いだところでドリッパを退け,傍らに置いてあったブランディのボトルの封を切った。
鼻をくすぐる甘い匂いに目を細め,とぷとぷと音を立ててそれを注ぐ。

「サイトーさんはツケの払い悪いけど,利息をコレでくれるから悪くない」

口の端に浮かんだ笑みもそのままにカップを手にデスクに戻る。
けれども引き出した椅子に腰を下ろすことはせずにぼんやりと感じる空腹を宥める為に再びキッチンに戻った。
戸棚から取り出したガラス瓶から手づかみで焼き菓子を取り出す。
このところの気に入りは電車で半時間ほどのところにある大学都市のパティスリィで買うレモン風味のクッキィだった。
単価としては決して安くないが,酒と甘いものと音楽に金を惜しむくらいなら悪魔にだって魂を売り渡す,と常々浦原は思っていた。
今も同じことを言葉に出さず呟いて,けれども「悪魔」のくだりで脳裏に浮かんだ柔和な眼鏡面に眉間に皺が寄った。

気を取り直すのに瓶から取り出したクッキィのうち一枚を口に放り込む。
ほの甘いバニラの風味と胸が苦しくなるような甘酸っぱいレモンの風味を楽しみながら後のは掌の上に重ねたまま今度こそデスクに向かいだらしなく椅子に胡坐を掻いて座った。
ブラウザを呼び出していくつかのニュースサイトを巡った。
拾うニュースは訃報ばかり。
仕事柄――主に副業の方で――知っておいて損はない,というだけだったが,いつしかこれも習慣になってしまった。
一通りのサイトを巡り仕事に発展しそうな情報がないことを確認すると,途端することがなくなってしまった。

窓にかかる薄いカーテンの向こうは目覚めたときに感じたとおり雨が降っている。
耳を澄ませても雨音は聞こえないから雨脚はさほど強くないらしい。
ブランディの風味がつよくするコーヒーを啜りながらぼんやりと明るい窓の外を見ていると唐突に「きんつばが食べたい」と思った。

きんつば。
脳裏に浮かんだのは小豆の風味が濃いのやうす甘くて品のよい漉し餡のではなく,濃い黄色とやさしい甘さの芋きんつばの姿だった。
どこの店のだっけな,アレ。
無意識に目を眇めながら頭の中店のデータを探り出す。
同時にその近くの雀荘のデータも引っ張り出して,今日の予定が決まった。

Living in a pastime paradise...

Patti Smithの声が繰り返す。
脳裏に浮かんでいたはずのきんつばの姿がひとつの面影に変わっていくのを感じ,浦原は口をへの字に曲げた。
一週間ほど前に知り合った鮮やかなオレンジ色の髪と眉間の皺が特徴の高校生。

連絡くれる,て云ったのになァ…。
正確には「連絡をくれる」と彼が云ったわけではなく,浦原が「連絡してくださいね」と携帯の番号を押し付けたのだったが,浦原の脳内では自分に都合がいいように改変されている。

なんとなく,律儀そうな子だ,と思ったのだ。
戸惑った顔とか,遠慮する素振りだとか。
困った風に眉間に皺を寄せているのに,ふとした弾みにそれが緩んで笑顔になるところとか,もっと見たかったのに。
それは「きんつばが食べたい」と思うのと同じ,素直な欲求だった。

失敗したかな,とため息を吐く。
やっぱり無理にでも連絡先を聞き出すべきだったか。
ありがとう,そう云ってくれたのにな。

黒崎一護サン。
仕事上知り合った人間でも顔と名前を覚えることは滅多にない浦原がたった一度で覚えた名前。そして彩。
浦原さん,と呼んでくれた声が耳に甘くて,くすぐったかった。
もっと話してみたかったのに。

心が諦めに流されていくのを感じる。
しかしそれを嫌がる気持ちもあって,浦原はままならない自分の気持ちを持て余して口をへの字に結んだ。
ブランディの強く香るコーヒーを啜る。
デスクの上に一枚残ったクッキィを噛み砕く。
レモンの風味が口から消えると,最後に残ったコーヒーを飲み下し,浦原は立ち上がった。

とりあえずはきんつばだ。
雨の日の外出は億劫だけれど,あのきれいな色の芋きんつばを食べれば,この気塞も少しは晴れるかもしれない。
着替えをしにベッドルームへ向かう。
部屋の中にはAnn Sallyのしっとりした「蘇州夜曲」が流れていた。






ポケットの中で振動。
昔は地下鉄の中って完全に電波が通らなかったのにな,とため息を吐きながら浦原はスーツのポケットから携帯電話を取り出してかけてきた相手を確かめた。
確かめる,と云っても基本的に携帯電話に登録されている番号はひとつもない。
指が覚えている番号かどうかを見るだけだ。
そして液晶に表示されている番号は見覚えのないものだった。

覚えがないということは,仕事絡みではないということ。
昨今では電車内の携帯電話の取り扱いがいろいろと面倒になっている。
メールを打ってるんだかゲームをしているんだか,とにかく弄っているだけで難癖をつけられている若者を目にしたことは一度や二度じゃない。
使うな,というのなら各車両に電波を遮断する装置でもつけて完全に圏外にしていまえばいいものを,と思わなくもないが,結局はどうでもよかった。

手の中で携帯電話は振動し続ける。
小さな声で名を呼び続けられているような心地がするな,と思いながら浦原は込み上げた欠伸をそのまま放った。

時刻は正午過ぎ。
目的地まではあと駅二つ分の距離にあった。

危うく傘を忘れかけ,閉まりかけのドアに身体半分を捩じ込むようにしてピックアップした。
掴んだ肩を手首にひっかけ,両手をポケットに突っ込んで改札口を目指す。
指先に触れる携帯電話の感触で,そういえば着信があったんだっけ,と思い出して,浦原はため息を吐きながら掴んだ携帯電話を取り出した。
目指す出口はC1。
改札から三分ほど歩かねばならない。
確か電波の通りがあまりよくなかった気がするけど,と思いながら浦原は着信履歴の一番上に表示されている番号を呼び出し,通話釦を押した。

一回,二回,三回。
呼び出し音が続く。
四回,五回,六回。
タイミングが悪いのか,それとも用件はもう済んでしまったということか。
七回,八回目を数えて,待つのが億劫になって切ろうとしたとき,不意に呼出音が途切れ,「もしもし」と強張った声がした。

「…ええと,誰?」
「あ,と,その…,黒崎,です」

浦原は心底驚いた。
脳裏に浮かんだのは鮮やかなオレンジ色をした高校生の姿。
CD屋で声をかけたときの,驚いた顔。
ケーキ屋で見た,顔を真っ赤にして恥ずかしがる顔。
別れ際,CDを渡したときの,困った顔。
そういえばCD屋で捕まえたとき,すごく手が温かかったっけ。
そんなどうでもいいことまで思い出し,知らず知らず口の端が緩む。

「黒崎サン」

自分でも可笑しくなるくらい,やわらかい声が出た。
名を呼ぶことで,忘れてないよ,ということを伝えたかった。

「あの,ごめん。連絡するの遅くなって」
「別に。いつまでに連絡してって云ったわけじゃなかったですし」
「でも,ごめん。それで,あの」
「黒崎サン,今日は暇?」
「え」
「学校って何時に終わるの?」
「え,三時過ぎ…だけど掃除とかあるから出るのは三時半頃になる」
「じゃあ四時に○○駅に来れる?」
「え」
「無理?予定ある?」
「や,それはないけど」
「じゃあ,待ち合わせしましょ」
「え,でも」
「駄目?」
「だ,だめって…」

鮮やかなオレンジ色の髪の下,紅茶味の飴玉みたいにきれいな色の瞳が当惑に揺れる姿が脳裏に浮かび,浦原は電話の向こうに聞こえないよう,小さく喉を鳴らした。

「会いたいな」

囁くように云うと,耳に押し当てた小さな電話機の向こうでひゅっと息を飲む気配がした。

「じゃ,じゃあ,四時に」
「着いたら電話ください。多分近くぶらぶらしてると思うんで」
「わかった」

ぱちり,音を立てて携帯電話を閉じ,浦原はずっと堪えていた笑みをくすくすと漏らした。
驚いた。
もう会えない,そう思っていたのに。
学校前で待ち伏せてやろうとか,意地の悪いことも考えたりしたのに。
ああ,でもそれも面白かったかな。

雨の日はいつも付き纏う,鬱陶しさが嘘のように消えていた。
足取りも軽く地下鉄の出口へ向かう。
自分用以外に行きつけの雀荘に手土産用に包んで貰い,雀仲間たちが集うまで従業員用の休憩室でごろごろさせてもらうつもりでいたのが,予定が変わった。
別に約束しているわけでもないし,もくもくと煙る雀荘でしょうもない勝負に明け暮れるより,きっとずっと楽しい。
約束の時間まではまだ四時間近くある。
浦原は夕方が待ち遠しくなるのを感じながら,濡れた階段に大きく足を踏み出すと,一段飛ばしで昇った。






一護はずっと張り詰めていた緊張が解けて,背中をフェンスに預けたままずるずるとしゃがみ込んだ。
頭の天辺から降り注ぐ日差しが暑い。
さっきまでは微塵も感じてなかった気温の高さに息苦しくなって,俯いたまま喘ぐように息を継いだ。

――会いたいな。

さらっと,電話口で継がれた言葉。
変な人だ。やっぱり変な人だ。すごくすごくすっごく,変な人だ。
まるで呪文か何かのように「変な人」を繰り返す。

日差しのせいだけでなく,頬や額の辺りが火照るように熱くなっていた。
遠くで,屋上の建屋の影のところで,友人たちが呼んでいる。
日射病になるぞ,と,もっともだと思う。
けれども,いっそのこと頭の中とか全部夏の日差しで焼ききれたらいいのに。
そんなことを思いながら一護はのろのろと立ち上がった。
背中を引き摺ったせいではみ出てしまったシャツの裾をズボンの中にたくし込みながら日陰へ向かう。
まだ,頬も,頭の中も火照ったままだった。

一ヶ月と,一週間。
ずっと心が重く塞いでいた。
鞄の中に押し込まれたままの小さな袋。
中にはCDが三枚入っている。
それが,心を塞いでいた。

「貸してあげる」

あの日,浦原はそう云って一護にその袋を押し付けた。
どれもこれも,すごく聴きたかったCDだ。
なのに,一護は帰宅した後もパッケジを手に取り,その封を破ることができなかった。

浦原の意図が,読めない。
怒っていない,と云っていた。それは本当かもしれない。否,本当なのだろう。
一緒に居た間,怒っている,とか,怒っているのを隠している,という感じは全然しなかった。
でも,だったら,なんで?
一護は戸惑っていた。
人の好意を無にするのか,と思う反面で,だからって甘えていいのか,とも思う。
好意を受け取る,ということはなんだか浦原を利用するようなことになる気すらした。
好意を示されても,自分はそれに何も返すことができない。
それなのに,せっかく示してくれた好意を利用するようなことをしていいのか。

自分の融通の利かなさが自分で嫌になる。
CDを聴いて,それから「ありがとう」と返せばいいのかもしれない。
でも,それができない。

気づくと浦原のことばかり考えている。
セータの襟首から見えた鎖骨が作る影,だとか。
ケーキを頬張る心底幸せそうな顔,だとか。

――いつでもいいから連絡してくださいな。仕事中だと出れないかもしれないけど,でも絶対折り返し連絡するんで。

一言一句,刻み込まれたようになってしまった浦原の言葉。
連絡,しなければ。
ずっとそう思っている。
なのに,好意を素直に受け取れないことが後ろめたくて一護は連絡できずに居た。
一ヶ月と,一週間。
ずっと心が重く塞いでいる。
食欲が落ちたり眠れなくなったり,ということは流石になかったけれど,鞄の中の小さな袋のことを思い出すと,まるで棘だらけの小さな石が心の中で転がるようにちくちくと胸が痛んだ。

連絡を,しなければ。
教えて貰った携帯の番号は,今も発信履歴の最初にある。
誰かに電話をするたびに,番号が後ろに下がって消えてしまうのが恐くてかけたばかりの番号を消し続けた。
十件だか二十件だかは表示されるはずなのに。なぜだかそうせずにはいられなかった。

「…めんどくせぇ」

自分で自分が嫌いになる。
自己嫌悪。なんでこんなに面倒な性格してるんだ,俺。
苛立ちと,戸惑いと,焦りと,不安。
掌二つ分にも満たない小さな塊が,何倍にも膨れ上がって一護の心を塞いでいた。
一ヶ月と一週間。
ずっとずっと思い悩んで,漸く数分前に踏ん切りをつけた。

なのに,云いたいことはひとつもまともに云えなかった。
ごめん,とか。
CDを返したいんだ,とか。

え,とか,あ,とか云ってるうちに,とんとん拍子――そう,まさにそんな感じだ。――で話が決まってしまった。
今日の,四時。
あの人に。
浦原さんに,また,会うことになった。

そのことを思うと,「うわぁ…」ってなる。
何やってんだ,俺。と電話してた間の自分を殴りつけてやりたくなる。
どっちにしろCDを返さなければならない以上,いつかは会わなくてはならない。
それはわかっているのだけれど,でも,それが今日じゃなくてもいいだろう。






「一護?」

ぐつぐつと音を立てて煮詰まる頭に,友人の声が響いた。

「あ?」
「焼きそばパン,大変なことになってるよ」
「え,あ,うわ!」

気づかないうちに掌の中でぎゅっと握り締めていた焼きそばパンは,無残に潰れ,その上紅生姜が胡坐を掻いた膝の上にぼたぼたと落っこちている。
慌ててそれを拾いながら,一護は深々とため息を吐いた。

放課後まではあと三時間と少し。
逃げたい。
それが本音だった。
別に嫌なことをされるわけではない。
どちらかといえば親切にして貰った。
それでも,なんだか途方もなく居心地が悪いのだ。
向こうのペースに引っ張り込まれる,というか。

でも,と一護は小さく息を吐き,潰れた焼きそばパンにかぶりついた。
いつかは,会わなきゃならなかったんだし。
借りたものを,そのままにはできない。
でも,あの人はなんていうだろう。
せっかく貸してくれる,と云って渡したCDのパッケジが,封切られていないことに気づいたら。

嗚呼!と叫びだしたいような気持ちでいっぱいだった。
なんで自分がこんな思いをしなきゃいけないんだ。
そう思う。でも,自分がそれを招いている,ということも重々承知で。
むぐむぐと噛み締めて飲み込んだ焼きそばパンは,購買で一番人気。一護も好物なはずなのに,今日はまるで粘土のように味気なかった。

刻一刻と時間は過ぎていく。
普段の何倍も遅く感じられるのに,腕に嵌めた時計の表示は一秒一秒を確実に刻み,そして放課後になった。
まるで叱られることがわかっている家に帰る小さな子どものように足取りは重かった。
景気づけにSheawoodのshelterを大きなボリュームで何度も繰り返して聴いた。
一分にも満たない短い曲。
でもこの曲が聴きたさにアルバム一枚を買った。すごくすごく好きな曲。
その曲に寄りかかるように,電車に揺られている間中ずっと目を瞑っていた。
呼吸すら詰める勢いで,電車が止まるたびに,まるで痛みを堪えるように瞑っていた目を開け,恐る恐る到着した駅を確かめる。
学校から家へ帰るのと逆方向の環状線に乗り込み,駅はたったみっつ。
六回めの再生が終わると,電車が減速した。
七回目のコーラスを聴きながらドアを潜り,重たい足を引き摺るように表示を確認して改札口に向かう。

初めて降りる駅。
改札を出たら連絡しないと,とポケットの中の携帯電話を握り締める。
定期券を翳して改札を潜る。
七回目の再生が終わり,次の曲のイントロが始まった,そのとき。

「――何聴いてんスか?」

横から伸びた手が,耳に差し込んでいたカナル型のイヤホンを引き抜いた。
びっくりして足を止めようとすると,抜いたイヤホンを自分の耳に差し込んだ手がそのまま一護の腕,肘の辺りを掴んで身体を脇に寄せた。
何を,と思うと,一護が今立っていたところを足早に抜けていくスーツ姿の人影があって,それを避けてくれたのがわかる。

「…らはら,さん」
「気持ちイイ曲ですね,コレ」

伏せていた浦原の目が上がる。
そして耳に差し込んでいたイヤホンを指先で押さえたまま目元で微笑った。

何を危惧していたのだろう。
何を怯んでいたのだろう。
一護は身体からどっと力が抜けていくのを感じていた。

「なんて人の?」
「Sheawood。まだ新人なんだけど,この,前の曲がよくて」
「聴かせて?」
「ん」

ポケットからプレイヤをはずして曲を前に戻す。
曲が始まると浦原の目が上がり,一護を観た。
その口元がやわらかく綻んで「ほんとだ」と囁くように云う。
そして目を伏せて,そのまま聴き入った。

「短いんだけど」

曲が終わるのを待って云うと「音楽のよさって長さじゃないでしょ」と云った。
耳からイヤホンを抜き「ありがとう」と返してくれる。
一護は浦原が自分の好きだと云った曲を認めてくれたのが嬉しくて,素直に頬を綻ばせた。

「浦原さん」
「ハイ?」
「ずっと連絡できなくて,ごめんな」

ずっと気掛かりだった一言がするりと口から零れ落ちる。
浦原は歩みだしかけた足を止めると,じっと一護を見つめた。

「でも,来てくれたし?」
「うん。もっと早くこうしてればよかった」

ん?と訝るような顔をする浦原に,一護はなんでもない,と首を横に振った。

「ま,こんなところで立ち話もなんですし,行きましょっか」
「って,どこに?」
「アタシんち」

云うなり浦原はさっさと歩き出した。
その後を追いながら一護は後でもう一度鞄の中CDを貸してくれ,と頼もうと思った。






浦原の部屋は駅を出てすぐのところにあった。
高級そうなエントランスに思わずしり込みすると,さっさとオートロックを解除した浦原が「早くしないと挟まれちゃいますよン?」とドアの向こうから一護を呼ぶ。
今更だけど,この人って何者なんだろう。
一護は慌ててドアを潜るとさっき聴いたばかりのsherwoodの曲を小さくハミングしながら歩く浦原の横顔を窺うように,マジマジと観た。

「何?」
「浦原さんて,何してる人?」
「遊び人」

あっさりと返され言葉にぎょっとする。
浦原が可笑しそうに喉を鳴らしたのでそれが冗談だったとわかったけれど,はぐらかされたのを怒ればいいのか,それもなんだか毒気が抜けてしまって一護は口をへの字に結んだ。

「なんてね。でも一度云ってみたかったんス」
「背中に桜の刺青でも背負ってんのかよ」
「オヤ,古いドラマ知ってんスね。時代劇とか好き?」
「俺がじゃねーよ。うちの親父が好きなんだよ」

ため息混じりに云うと,「ふぅん」と笑みを孕んだ声。
ちょうどやってきていたエレベータに乗り込むと,浦原の指が11階の釦を押した。
微かにGがかかり,耳が詰まったような心地がする。
こくん,と喉を鳴らして唾を飲み込むとすぐに楽になり,同時にチン,と小さなベルの音がしてエレベータのドアが開いた。

エレベータから降りると,夏の日差しに焼かれる町並みが眼下に一望できた。
自分が乗ってきたのと同じ銀色の環状線の車両がゆっくりと駅に滑り込んでいくのが見える。
線路が割りとすぐ傍を通っているが,高さがあるせいか騒音は気にならないようだった。

「一護サン?」

名を呼ばれてはっとする。
顔を向けると浦原は少し先で立ち止まってくれていた。

「ごめん」
「イイエ。高いところ好きなの?」

嫌いではないが好きだから眺めていたというわけでもないし,と答えに詰まると,浦原はさして知りたかったわけでもないのかそれ以上何も云わずにさっさと歩き出した。

「あ,スリッパとかないんスけど,うち」

高級です,と書かれた見えないラベルがそこここに貼り付けられているようなドアを開けながら浦原が云う。
云いながら浦原はサンダルを脱いで裸足で床に立った。
細身のジーンズから伸びた足先の踝に思わず目が吸い寄せられる。
気持ちよさそうだな,と思ったけれど流石に初めて上がる家で自分も靴下を脱ぐわけにはいかない。

「お邪魔します」

一護は今浦原が脱いだサンダルと向きがばらばらに脱ぎ捨てられたブーツを避けて靴を脱いで部屋に上がった。

「イラッシャイ」

笑みを孕んだ声が頭の上に降って来る。
顔を上げると,浦原が楽しそうな顔で一護を見下ろしていた。

「…え,何?」
「ん?いいなあって」
「え,だから何が」

一護が聞き返しても浦原は答えない。
ただ楽しそうに口元を綻ばせたまま「あっちが居間なんで」と先にあるドアを指差して歩き出した。

玄関を潜っただけでひんやりと涼しかったが,居間だ,と通された部屋は涼しいを通り越して肌寒いほどに冷やされていた。
汗ばんだ身体からさあっと汗が引いていく。
その心地良さにほっと息をつくと,浦原が「一護サン,きんつばは食べられる?」と尋ねてきた。

「きんつば…って」
「食べたことない?ええと,あんこの塊,みたいな?」

一護の脳裏におはぎの姿が浮かんだ。
つぶあんもこしあんもそう頻繁に口にするものではなかったが嫌いではない。
そう告げると「よかった」と云って「その辺適当に座っててくださいな」とソファの方を示された。






キッチンに立つ浦原の気配を背に,ソファの方へ向かう。
三人掻けの白い,すわり心地のよさそうなソファ。
足元には肌触りのよいラグが敷かれている。
一護はなんとなくソファを右手にそのラグに直截腰を下ろした。

「…あれ,ソファ座ってもよかったのに」
「あ,いや,なんか気持ちよかったから」
「ラグ?」

うん,と頷くとそう,と頷き返される。
そして目の前の低いテーブルにことんと音を立ててカップが置かれた。

「お茶を淹れるのって急須がいるんスよね。すっかり失念してた」

え,と思いながら視線をキッチンに向けるとドリッパとペーパフィルタがそのままにされていた。

「ってアレで淹れたわけ?」
「そう。ちょっと薄いかも」

いいながら自分のカップに口をつけて首を捻る。
もしかして,と一護は前に置かれたカップをまじまじと見下ろした。
普段自分ではお茶を飲むことがないのかもしれない。
自分が来るから,わざわざ用意してくれた?
嬉しいような,申し訳ないような気持ちで胸が一杯になる。
言葉に詰まったのを誤魔化すようにカップに口をつけた。

上等そうな玉露の味がする。
美味しい,と感じた。

「薄い?」
「や,美味しい」
「そう,よかった。――あ,きんつば」

いいながら浦原はカップを持ったままキッチンに戻っていく。
そして和紙の柄の箱を持って戻ってきた。

「昼間電話貰ったとき,ちょうどコレ買いに行ったところだったんスよ」
「あ,もしかして電車だった?」
「そう。だからすぐに出られなくて」

どうぞ,と蓋を開けた箱が目の前に置かれる。
あんこの塊,といわれていたので黒い塊を想像していたが,そこにあったのはうす黄色の四角い物体だった。

「……あんこの,塊?」
「あぁ,これは芋なんで」

説明になってない説明をしながら浦原の手が伸び,ひとつを摘んで浚っていく。
一護も真似するようにひとつを取り上げて口に運んだ。
歯を立てるとあんこの塊,というよりは羊羹に近い食感がした。
芋の甘みと香ばしさが鼻に抜ける。
甘すぎないのがいい,と思った。

「ここの焼き芋きんつば,好きなんスよ」
「美味いな」
「ほんと?」
「うん。甘すぎないのがいい」
「でしょう」

嬉しそうに浦原は頬を綻ばせる。
その顔を見て,同じだ,と一護は思った。
さっき,駅で自分が感じたのと。
自分が好きなものを誰かが好き,と云ってくれる。
そういうのって単純に嬉しいんだよな。
普段なら気づかずに通り過ぎてしまいそうな小さな心の揺れを噛み締めるように一護は頬を緩めたままもう一口うす甘い和菓子に噛り付いた。

「浦原さん,ごめんな」

焼き芋きんつばをひとつ食べ終えると,一護はお茶を啜ってから口を開いた。
ふたつめに手を伸ばした浦原の目が「何が?」と尋ねてくる。
一護は傍らに置いてあった鞄をごそごそと探ると,あの日受け取ってから封も切らずにそのままにしてあったCDをテーブルの上に置いた。






「これのこと」

ビニルがまだかけられたままのCDのパッケジを見る浦原の顔を見て,すぐに視線を落とす。
申し訳なさでいっぱいだった。
向けられた好意を無にするような真似をされて,喜ぶ人はいない。
でも,だからこそきちんと謝りたかった。

「一ヶ月,ずっとこのことばっか考えてたんだ。なんで,どうしてって。こんな風によくしてもらっても,俺なんか唯のガキだし,金もないし,何も返すことができない」
「…別に,そんなつもりでしたわけじゃないっスよ」

傷ついたような浦原の声にぎゅ,と胸が締め付けられるように痛む。

「だから,ごめん。いきなりだから驚いたのと,俺,頭がこんなだろ?だからなんつーか,その……大人を変に警戒するクセがあって」

度派手としか言いようのないオレンジ色の髪。
滅多に信じてもらえることはないが,生まれつきの色。
一護の髪を見たとき,大人の反応はふたつに分かれる。
大体はまるで嫌なものを見るかのように眉を顰められた。
言葉には出さずとも向けられる悪意を子どもは敏感に感じ取る。
学校の教員たちを筆頭に,いつしか一護はそういう「大人」たちを忌避するようになっていた。

「…メンドクサイなァ」

ぽつり,呟くように浦原が云った。
どきん,と心臓が音高く鳴った。
いつの間にか勝手にリラックスしていた身体がにわかに強張る。
恐る恐る浦原の方へ視線を向け,一護はその横顔に浮かぶ表情に思わずぽかん,とした顔をした。

顰めるだとか,歪めるだとか,そんな顔をしていると思った浦原は,微笑っていた。
目元も口元の綻ばせて,まるでいいものを見るかのように一護を見つめている。

「…の,浦原,さん?」
「ハイ?」
「なんで笑ってんの」
「笑ってる?アタシ」

云いながら頬を触り,ああ,笑ってますねぇ,と暢気な声で云う。
意味がよく…というより,全然わからない。
面倒くさい,というくせに,浦原は笑っている。
なんで?どうして?と頭の中をぐるぐると疑問符が犇いた。

「…怒ってねぇの?」
「笑ってますねぇ」
「いや,だって…普通は怒るだろ?せっかくの好意を無にされたり,とか」
「んん,でも無にされきったわけじゃないっスよね」
「え」
「今日,こうして来てくれたし。ちゃんと説明してくれたし」
「だって,それは…」
「本当に好意を無にするのなら,渡したCDをこんな風に毎日持ち歩いて気にし続ける必要なんてないでしょ。別れた後ゴミ箱に放り込んで,携帯の番号消去して,それで終わり。――違う?」
「……ンなことできるわけねぇじゃん」
「うん,だから」

何が「だから」なんだろう。
そう思ったけれど,浦原はそれ以上説明してくれるつもりはないみたいだった。
ただ,楽しそうに顔をほころばせて手に取った二つ目のきんつばを食べている。
一護はお茶を啜りながら小さく息を吐いた。

「そうだ。そのCD先に開けてもいい?」
「あ,え。うん」
「今Macに取り込んじゃうんで,そしたらまた持ってっていいっスよ。――もう平気でしょ?」

云って,揶揄するように口の端を引き上げる。

「…って,いいの,か?」
「もちろん。その代わり,今度は一護サンお奨めのCD ,何か貸してくださいな」
「俺の?」
「そう。さっき聴かせてもらったのもすごくよかったし。最近どうにも情報収集も偏りがちでいいのに遭う機会がないんスよ」
「じゃあ,借りる」
「普段は他にどんなの聴いてるの?」






その後はずっと音楽の話をしていた。
一護が口にするアーティストの名を,浦原が知っていることもあったし知らないこともあった。
知らない名前を口にすると「それはどんなの?」と尋ねられた。
上手く説明できずに口ごもると「今度聴かせて?」という。

「音楽って言葉で説明するの難しいっスよね」
「だな」

言い合って,なんとなく顔を見合わせて,どちらともなく笑う。
蟠りも居心地の悪さももうどこにも感じなかった。

二時間ほどそんな風に過ごし,時計が六時を回ったところで一護は腰を上げた。

「俺,そろそろ帰らないと」
「オヤ,もうそんな時間?」
「うち,オヤが煩ぇんだ。七時っから晩飯で,その時間までに帰らないとどやされる」
「それは大変だ。んじゃ,駅までお見送りしましょ」
「や,一人で平気だけど」
「アタシもついでに出かけようかなって」

部屋の隅に置かれたデスクの上から携帯電話とキィ・ホルダ,それからソファの背に引っ掛けられた上着を手にとってさっさと支度を調えた浦原に「んじゃ行きましょっか」と促され,一護は玄関へと向かった。

「あ」
「何?」
「靴下忘れた」

これ持ってて,と上着を一護に押し付け浦原はリヴィングの方へと戻っていく。
受け取った上着を見下ろすと,裏地に縫い付けられたタグがちらりと見えて,そこに記されているブランド名に一護は目を見開いた。
どこかくたっとした印象しかなかったその上着は一護でも知るほど有名な高級ブランドのものだったらしい。
そう云えば靴も,と玄関先に脱ぎ捨てられているブーツを見る。
外観からブランド名はわからないけれど,それが値の張りそうなものだというくらいはわかる。
このマンションといい,浦原が経済的に豊かなのはわかるが,それにしたって何者なんだろう。
訝る顔つきのままブーツを見下ろしていると靴下を履いて戻ってきた浦原に「どうしたの?」と尋ねられた。
靴下も高いの履いてるのかな,と無意識に考えながら視線を向けた一護はほんの一瞬動きを止め,それから顔を上げて浦原を見た。

「え,何?」
「靴下」
「靴下?」
「それ,左右違くね?」
「え,嘘」

一護の視線と浦原の視線が同時に下を向く。
浦原は下を向くだけでは足りないらしくしゃがみ込んで自分の足先を見つめた。

「……あれ,微妙に違う?」
「微妙にっていうか,明らかに違うよな」
「…でもいい。面倒だからもうこのままで」
「え,いいのかよ。出かけるんだろ?」
「靴脱がなきゃいいんスよ。それで万事解決」

いや,そういう問題でもないと思うんだけど,と一護は言いかけたが,浦原はさっさとブーツに足を突っ込んでしまい云う機会を逃してしまった。

「さ,行きましょ」

すぐ横に立ち,にこりと笑う浦原を見上げて,一護は堪えられなくなって噴出した。

「なんで笑うんスか」
「いや,だって」
「靴下,見えなくなったでしょ?」
「見えねぇけど,でも」

いつまでもくすくす笑っている一護の脇腹を,浦原の手がつつく。
んあ!と一護が身を捩ると「お,弱点発見」と嬉しそうな声がして,更に同じ箇所をつつかれた。

「ちょ,マジ止めてってそれ」
「だって一護サンが笑うから」
「もう笑わねぇから!」






そんな風にじゃれあいながら玄関を出て,駅までの道程を辿る。
信号待ちの間開いた携帯の画面をじっと見つめる浦原の横顔を盗み見て「仕事のメールかな」と一護が黙っていると,浦原は唐突に「よし,覚えた!」と云ってぱちりと携帯を閉じた。

「…覚えた?」
「ん。一護サンの携帯の番号暗記してたの」
「暗記?なんで」
「え,かかっていたときにわかるように」
「登録したらいんじゃねえの」
「やりかたわかんないし。それにどこか置き忘れても大丈夫なように,履歴も毎回削除するようにしてるんスよ」
「……突っ込みどころが多すぎるんだけどそれ」
「ええー」
「もしかしなくても浦原さんって結構すぼら?」
「まだ靴下のこと根に持ってるの?」
「それ日本語の使い方間違ってる」

くすくす笑う一護に釣られたのか口を尖らせた浦原もすぐに喉を鳴らして笑う。

駅に到着し,改札に向かおうとすると浦原に腕を掴まれた。
何,と振り返るとすぐ耳元で「切符買うからちょっと待ってて」と囁かれる。
一護が返事をするより先に浦原は歩き出し,三台並ぶ切符の自動販売機に向かった。

「お待たせしました」

切符を口に咥えたままもごもごと云っているので手を伸ばしてそれを受け取ってやる。

「ありがとう」

浦原はジーンズの後ろのポケットに財布を捩じ込みながら云う浦原に一護は首を振り,並んで改札を潜った。
浦原は一護が降りる予定の駅から更に四つ先の駅に向かうとのことだった。

「あ,もしかして仕事だった,とか?」
「いえ,別に約束してるわけでもないし,顔出さなくていいんスけど」
「…そうなの?」
「そうなの」

意味がよくわからず曖昧な相槌を打つと一護ははっと我に返った。

「やば,俺,傘置いてきた」
「どこに?」
「浦原さんち」
「取りに戻る?」
「いや,もう電車乗っちまったし」
「じゃあまた時間あるときに取りに来たらいいっスよ」
「そうさせてもらう」
「しばらく仕事の予定もないし,急ぎのが入らなければ大概家でぐだぐだしてるんで」

軽い調子で言う浦原に頷きながら,一護はさっきから何度も頭の中をぐるぐるしてる疑問がまた浮かび上がるのを感じた。
そのせいで訝るような顔になっていたらしい。
浦原が「何?」と目で尋ねてくる。

車内アナウンスが一護の降車駅へと近づいていることを告げる。
その声が止むのを待って一護はもう一度尋ねた。

「浦原さんて,何者?」
「ロクデナシ」

「ロクデナシ」はつまり「ろくでなし」でつまり「ろくでもない人」という意味である。
そこまで理解する間に電車は降車駅へと着いてしまった。
はぐらかされているんだろう,とは思うが,それにしたってもっとこう…。
そう思うと眉間に皺が寄った。
けれども如何せん時間がない。

一護は減速する電車の中,身体にかかるGを感じながら深々とため息を吐いた。

「うわ,呆れられましたもしかして?」
「呆れてるっつーか聞かれたくないならそう云ってくれりゃいいのに,とは思う」
「じゃあ聞かないで。あ,でも危険はないと思うんで。多分」
「多分,なのかよ」

げんなりした口調で一護が云うのと同時に,ドアが開いた。
一護は「じゃ,またな」と云って開いたドアへと向かう。

「またね」

周囲のざわめきをすり抜けるように浦原の声が聞こえてきて,ホームに降り立った後一護は電車を振り返った。
閉じたドアの窓から浦原が小さく手を振っているのが見えた。
しかし手を振り返すのはなんとなく照れくさくて,一護は頷くとそのまま走り去る電車を見送った。







Flying colors