こちらはサイト内「Text」の「葬儀屋と高校生」と同シリーズになります。
順を追って読みたい方はそちらからそちらからお読みください。







性質の悪い風邪を引いたときのような火照りが引いたのは,午後になってからだった。
朝から午前中の授業を終えるまでの記憶が朧気なのに一護はひとり苦笑した。

今になって思い返してみれば,たいしたことじゃないのに。

朝の電車で性質の悪い遊びをした。
それが,バレた。(多分)
その人が声をかけてくれた。(でも多分,それは気のせいだ)

――そう,気のせいだったんだあれは。

そう思うことができたとき,憑き物が落ちたみたいに一護は冷静を取り戻すことができた。
なーんだ,そう思った。
まるでスノウ・ドームのように。雪片を模した小さなきらきらが,少しずつ舞い降りて,やがてしん,と静まり返るように。

午後の授業が終わる頃には一護のテンションは通常より低めの位置でまっ平らな状態で,友人達から遊びに行こうと誘われたにもかかわらずその気になれないという理由で断ってひとり電車に乗り込んだ。
つり革に掴まるのではなく,ドアのすぐ傍に凭れて立つ。
朝,見た,あのひとのように。

目を伏せると脳裏にあのひとの姿が浮かび上がる。
くたびれた黒いスーツ姿で,眠そうに欠伸を噛み殺して。
そう云えばじっと見つめる一護の視線の先で欠伸をした後,その目許には涙が浮かんでいた。

――あんなひとでも欠伸するとやっぱり涙目になるんだな。
思い返して,口の端がほころびそうになる。
けれどもすぐにはっとなって,一護は誰が見ているわけでもないのに表情を強張らせ,小さく頭を振った。

何考えてんだ俺。
眉間に皺が寄るのがわかる。
不機嫌面のまま窓の外に無理矢理目を向け,どんよりと重たげな雲が広がる空を見た。

「…夕立,くんのかな」

鞄の中に折り畳み傘は入っていたが,それでも憂鬱なものは憂鬱だ。
ほどなくして電車はターミナル駅へ乗り入れる。
そこで乗り換えれば,家までは半時間ほど。
雨が降り出す前に帰りつけるかどうか。

知らず知らず眉間に皺を寄せ,一護は到着のアナウンスが聞こえるまでずっと空を睨みつけていた。

ターミナル駅に到着し,一斉にドアへを向かう乗客たちに押し出されるようにホームに降りる。
鼻先に触れる空気に雨の気配。
一護は顔を顰めたまま足早に階段を降りた。

改札を抜けて乗換口は左。
そちらに身体を向けかけて,ぴたりと足が止まった。

どん,と後ろから続いた乗客にぶつかり,小さくよろめきながら「スンマセン」と詫びる。
そして一護は身体の向きをゆっくり変え,乗換口とは逆の方へと歩き出した。

なんとなく。
そう,なんとなくだ。
理由なんかない。
敢えて挙げるならCD屋。
駅から屋根続きで行けるビルの中にあるCD屋に行こうと思ったのだ。
小遣い日が今週の頭だったため,財布には少し余裕がある。
先月は父親の使いをいくつかこなしたため,その金額も普段の月より少しだけ多い。
何かいい新譜でも出ていれば,そう思ったのが理由と云えば理由だった。

エスカレータで六階までのんびり上がる。
前後の客は女性ばかりでほんの少し居心地が悪い。
誰も彼もビル内にある様々なショップの紙袋を腕から提げて楽しそうだ。
一護は前の客がフロアへと逸れるのを待ってエスカレータを昇り出した。
後ろの客から距離をとり,漸くほっと息を吐く。
進行方向をぼうっと眺めていると照明の感じが変わり,聞こえて来る音楽が変わった。
CD屋に足を踏み入れるときの感覚が一護は好きだった。

ミュージックプレイヤは高校の入学祝にねだったものだった。
腕時計と迷ったけれども,携帯電話があれば時計は事足りる。
そんな風にして自分で選んだ赤い小さなプレイヤは今も一護の制服の胸元に付属のクリップで留めてある。

アルバイトをせずに小遣いだけでやりくりしているため,月に買えるCDは限られている。
多くて二枚。
選ぶときはどうしたって慎重になる。

大人になれば。
少なくとも社会に出て仕事をするようになれば,欲しいと思ったものをすぐに手に入れることができるのかな,と想像する。
早くそうなりたい,という焦りのようなものもある。
でも,とりあえず今は新譜だ。

一護は入口に一番近いヒットチャート用の視聴コーナの前に立つと心が浮き立つのを感じながらヘッドホンに手を伸ばした。

――う,わ。コレ,来る。
This week recommend.とポップが立った試聴機の前に一護は居た。
ヘッドホンを耳にぎゅ,と押し付けると響いてくる旋律にざぁ・と腕の皮膚が粟立った。
背筋がぞくぞくとし,頭の芯が痺れたようになり,息をするのも忘れた。

しばらく目を伏せて音に浸りきってから手にしたジャケットに目を落とす。
初めて聴くアーティストだった。
ずらりと並んだジャケットたちの横には店員の手書きで宣伝文が添えられている。
センセーショナルな言葉がいくつも並び,これを買わない手はない!と薦めてくる。

云われなくてもわかってる・つの。
そう思いながらも既に手には二枚の別のCDがあって,一護は眉間に皺を寄せた。
予算的には二枚が限界。
今週末には友人たちと映画に行く約束が入っているし,いくら手持ちに余裕があるとは云え先々のことを考えると無駄遣いはできない。

手の中の三枚のCDを見下ろす。
これも,これも,今聴いてるこれも,すごくいい。
どれか一枚を棚に戻すなんて,考えられない。
でも,返すとしたら――。

「――のコってどんな音楽聴くんスか?」

唐突に遮られた音楽。
代わりに飛び込んできたのは知らない声。
何,と顔を上げて,一護はぽかん,とした顔になった。

すぐ傍に立つのは見知らぬ男。
誰かと勘違いしてるのか?
そうとしか思えない。
男は自分の勘違いにも気付かず一護から取り上げたヘッドホンを被り,目を伏せて小さく指先で拍子を取っている。

遅れて怒り…よりは苛立ちに近い。
嫌な気持ちが湧いてきた。
ふざけんなよ。なんなんだアンタ。
そう云ってヘッドホンを取り返そうとしたそのとき,男が顔を上げて一護を見た。――そして笑った。

「朝はドウモ」

ガンッ!と頭を殴りつけられたかのような衝撃があった。
一護は文句を云おうとして開いた口を,そのまま大きく開けて「アンタ…」と呟いた。
声は驚きに掠れて,それ以上の言葉にならなかった。

「あーよかった。忘れちゃったわけじゃないんだ。忘れられてたらアタシただの変な人ですもんねぇ」

苦笑を浮かべながら男がヘッドホンをはずすのを見ながら,一護は咄嗟に動いていた。
その場でくるりと踵を返し,一直線に出口を目指す。

「あ,ちょっ!」

背中で男の慌てた声がしたが,足を止めるつもりは毛頭なかった。

半ば走り出しながら出口を目指す。
しかしゲートを潜る手前で肩にかけた鞄の紐を引っ張られ,がくん,と身体が止まった。

「待って!」
「何すんだよ!」
「手。それ持ったまま出たら」

そこまで云われて漸く気付いた。

「あ」

一護の手には先ほど聴いていたのとどれを買おうか迷っていた新譜が二枚,まだ握り締められたままだった。
もちろんレジは通していない。

「ふー,危なかった」

一護の鞄の紐を握り締めたまま,男が大きく息をつく。

「あ,え,…と」

すみません,と詫びるべきなのか,止めてくれてありがとう,と礼を云うべきなのか。
一護が迷っていると男はふ,と笑って鞄の紐から手を離し,代わりにまだCDを握り締めている一護の手を取った。

「え」

一護が慌てた声を出すのも気にせず,一護の手首を掴んだ男はすいすいと売り場を横切っていく。
向かう先は壁際に並んだレジスタの前。
そして一護の手から二枚のCDをさっと抜き取るともう一枚と合わせてあっという間に会計を済ませてしまった。

「……ゴールド・カード」

何が起こったのか事態が把握しきれない一護は,目の前に置かれたカードを見下ろしてぼつりと呟いた。
それを聞きつけた男がくすりと笑みを零す。

「あ,ごめ」
「いいえ?」

店員からCDの納められた袋を受け取り,「じゃ,行きましょっか」と男が小さく首を傾げる。

「…行く・てどこに」
「あー,そうっスねえ」

云いながら男の視線が一護から逸れ,その背に広がるフロアへと向けられる。

「とりあえずは,あの辺?」

すっかり毒気を抜かれてしまい,一護は促されるままに男についてカフェのドアを潜った。

店の入口にはガラス張りのショーケースが置かれ,その中にはいろとりどりの果物が載った何種類ものケーキが並べられていた。
それを横目に案内に立った店員の後に続いてフロアを横切る。
見るともなしに見渡した店内は見事に女の客ばかりだった。

「甘いもの,平気?」
「平気だけど…」
「よかった」

窓際の席に向かい合って腰を下ろす。
やり場に困って目を向けた窓の外はいつの間に振り出したのか激しい夕立で煙っていた。

「あー,やっぱり降って来た」

声にちらり,目を遣ると向かいに座り頬杖をついた男も一護と同じように窓の外に目を向けていた。
今更確認することではなかったが,やっぱり,朝の人だった。
一護が性質の悪い悪戯をしかけた,あのひとだった。

怒ってる様子はない。
それどころか楽しそうだ。
もしかしたらものすごく性質の悪いひとで,これから自分を強請ろうとしているのかもしれない。
そう危惧してみるが,視線の先ゆるくクセのついた髪をいじりながら「雨だとどうもねー」と呟いているそのひとからはそんな悪い感じは伝わってこない。
でも,だったらなんで?

気付かぬうちにまた一護はじっとそのひとのことを見つめていたらしい。
指先で引っ張っていた髪を離し,不意に視線を向けてきたそのひとと,真っ向から目が合ってそのことに気付かされた。

「ご,ごめ!」
「いいえ?」

口の端にやわらかな笑みを刻んでそのひとはテーブルの端に立てられていたメニュを引き抜いてくるりと一護の方へ向けた。

「何にします?」
「あ,えと,コーヒー,で」
「コーヒーだけ?」

こく,と頷くと「えー」と不満そうな声が返る。

「これとか,これとか。美味しそうじゃないスか?」

長い指がクレープセットや何種類ものケーキセットを指差す。
クリームやフルーツで彩られたそれらは確かに美味しそうではあったけれど,一護には指差すそのひとの意図が読めない。

「柑橘類,平気?」
「平気…だけど」
「じゃ,キミはコレね。アタシはこっちのにしよう」

ふんふんとひとり納得しながら一護の分までオーダを決めてしまう。
いらないって,と言いかけると,それより先に深い色の瞳が一護を見つめ,茶目っ気たっぷりにウィンクひとつ。

「ひとりで二個は多いから,つきあって?」

そう云われると一護には返す言葉がない。
元からこのひとには借り…それもなんか変な気がするが,とにかくいくつも引け目があるのだ。

オーダをメモした店員が去っていくと,男は改めて,と云う風に一護に向き直った。

「とりあえず,自己紹介・スよね」

椅子に深く凭れ,腹の上で手を組んでそのひとはやわらかく,それでいて楽しげに口の端を引き上げた。

「アタシは浦原喜助・て云います」
「黒崎…一護,です」
「クロサキ・イチゴサン。字はどう書くの?」

ウラハラキスケと名乗ったそのひとは尋ねながらセータの胸元を触り,「あ」と云う風に顔を顰めた。

「スーツじゃないんだっけ,今」

一護は朝見た姿を思い出し,ふっと笑った。
くたびれた(といったら失礼かもしれないが)スーツの胸元は言われて見れば膨らんでいた気がする。
きっといつもそこには手帳とかボールペンだとかが仕舞われているのだろう。

口で説明してもよかったが,それよりも,と一護はポケットから携帯電話を取り出すとメール画面を立ち上げて慣れた仕草でそこに自分の名前を打ち込んだ。

「こう書く」
「黒崎・一護サンね」

ふむふむ,と云う風に頷いてからウラハラも同じようにポケットから引っ張り出した携帯電話に自分の名前を打ち込んで一護に見せた。
そこにあったのは浦原喜助という文字。
きすけ,という音に喜助という文字はぴったりだったけれど,目の前のそのひとにはどことなく合わない感じがした。

肌触りのよさそうな薄手のセータの襟首からはきれいな鎖骨が見えている。
がっしりしている,というよりはきれいなかたち,というのがぴったりな肩のライン。
脚は確か黒っぽい細身のパンツに包まれていて,靴はゴツめのブーツ。
両手にアクセサリはなく,でも確かウォレット・チェーンが下がっていた。

お洒落なひとだ。
今更ながら一護はそんなことを思う。
最初に見たとき朝のひとだとわからなかったのも無理はないよな,とも思った。
こう云っては何だが朝見たときは本当にくたびれている,という言葉がぴったりな感じだったのだ。
よく見れば確かに同じひとなのだけど,印象がまるで違う。

気づけばまた前の椅子に座るそのひとをじっと見つめていた。

「浦原,さん…?」
「ハイ」

名を呼ぶとなんでか嬉しそうに目元を綻ばせて返事をしてくれた。

自分で呼んでおきながら,一護はその後に続く言葉を見失っていた。
でも,まずは一番に云わなきゃいけないことがある。
テーブルの上に置かれた水のグラスに手を伸ばし,小さく一口啜る。
それから息を飲み込み,一護は伏せていた目を上げた。

「朝のこと,本当にごめ」
「別に怒ってないっスよ?逆に感謝してるくらい」

高いところから目を瞑って飛び降りるような気持ちで口にした一言は言い切るより先にそんな風に遮られてしまった。

「…感謝って」
「だって,そのおかげで寝過ごさずに降りられたし」
「でも」
「今も,別に文句云おうと思って声かけたわけじゃないし」
「え,じゃあなんで?」

咄嗟にそう尋ねていた。

テーブルの上に肘をついた浦原の目が上がり,一護をじっと見る。
視線に晒され一護はどうしていいかわからなくなる。
咄嗟にとはいえなんでそんなこと聞いたんだ馬鹿!と数秒前の自分を蹴ってやりたいような気持ちになった。

「なんでですかねぇ。あ,て思ったらもう声かけてた」

一護の焦りや混乱をよそに,浦原の声はどこまでものんびりしていた。そしてやっぱりどこか楽しげで。
一護は拍子抜けするのと同時に,その楽しげな気持ちまでもが感染ってくるのを感じた。

「それじゃナンパじゃん」

ぽろりと口から零れた軽口に,やべ,と思ったものの,浦原は怒ることもなく,それどころか「ほんとにそうですよねー」なんて暢気な声で返されたから,強張っていた身体からどっと力が抜けていった。

「…ありがと」
「ん?」
「その,朝のこと,怒んないでくれて。浦原さんは怒ってねぇっつったけど,やっぱああいうのよくないって思うし。それからさっきも。あのまま店飛び出してたら俺,万引き犯になってたし」

気負うことなく素直な気持ちで云うことができ,一護はぎこちなくはあったがなんとか口の端に笑みのようなものを浮かべることができた。
浦原はそんな一護をまぶしそうに見つめ,でもなにも云わなかった。

ちょうどそのときトレイを掲げた店員が二種類のケーキとコーヒーを運んできた。
頬杖を解いた浦原が並べられるケーキを前に目をきらきらさせるのを一護は見た。

「浦原さん,てさ」
「ハイ?」
「甘いもの,好きなの?」
「えぇ。大好き」

でれっとした,なんて思ったら失礼かもしれないけど,と思いながらも一護は幸せそうに眉を下げる浦原を見て,小さく噴出した。

「なんで笑うんスか。アタシみたいなオジサンが甘いもの好きって変?」
「変・てことはねぇけど。でもほんとに嬉しそうだなって」
「嬉しいっスもん」

真っ白い皿の上,慎重にフォークを使う浦原を今度は一護がコーヒーを啜りながら眺める。

「アレ,一護サンは食べないの?」

どき,とした。
何に?
自問したが答えはでない。
突然煩くなった心臓を宥めるように息を吸い込みながらカップをソーサに戻す。

「あ…先に食べていい」

声が変な風に喉に引っ掛かるのを感じながら,自分の前の皿を浦原の方へ押しやる。
なんだっていうんだ。
なんで急に,こんな?

「そう?」

云いながら浦原は自分の皿のケーキを一口切り分けて口に運び,もぐもぐと口を動かしながらもう一口分切り分けたそれをすっと一護の方へ差し出した。

「ハイ,どうぞ」
「え」
「あ,ほら,落ちる落ちる」

云われて視線を浦原の顔からフォークの先へと向けると,確かに不安定で今にも落っこちそうだった。
咄嗟に口を開けて寄せると,ほんの少し近くなった距離の向こうで浦原が笑っていた。

「おいし?」

ぶわ,と顔が赤くなるのがわかる。
何してんだ俺。
ていうか何するんだこの人!

口の中のケーキを咀嚼するのも忘れ,一護は真っ赤な顔のまま周囲に視線を走らせた。
幸いどのテーブルでもケーキや会話に夢中になっているらしく一護たちに意識を向けている人間は誰もいなかった。

「だーいじょーぶっスよ」

見透かしたように云う浦原の声は笑っている。
一護は思わずむっとして視線を険しくし,口にしたかった文句の代わりに口の中のケーキを噛み締めた。
甘酸っぱいベリィの味とふんわりとしたやさしい甘さのクリームの舌触り。
不味くはなかった。――というより,美味しかった。

表情を緩めたつもりはなかったけれど,浦原は口の端に浮かべた笑みを深めて「ね,悪くないでしょ」なんて云ってくる。

「つーか,ありえねぇし」
「どうしてー?」
「男同士でケーキってだけでもありえねぇのに」
「もう一口食べる?」
「どうせなら自分で食う」

一護はそう云うと浦原が一口手をつけた自分の分のケーキの皿を手元に引き寄せ,フォークをぐさりと突き刺した。
タルト生地に八つ当たりをするようなかたちになってしまったが,知ったことか,と思った。

ざくりと切り分けたケーキを口に運ぶ。
オレンジやグレープフルーツなど柑橘が何種類も盛られたケーキはさっぱりと甘酸っぱくて添えられたヨーグルトクリームとよく合った。
一護はテーブルに置かれたコーヒーのカップにちらりと目をやり,どうせなら紅茶にすればよかったか,と思いながらそれを飲み下した。

カフェには一時間ほどいた。
でも一護はその間浦原と何を喋ったのかよく覚えていない。
一人揺られる電車の窓に映る自分の顔を見て,眉を顰める。

いったい何だったんだろう。
ひどく現実味がなかった。
でも,手に提げた小さな袋。
CDが三枚納められたビニル袋。
それがさっきの出来事が夢でも幻でもないことを告げている。

「え,何」
「何ってCD?」
「いや,そうじゃなくてなんでこれ…」
「え,欲しくない?」
「欲しいとか欲しくないとかじゃなくて!そういうことじゃなくてさ!」
「……ん,と,驚かしたお詫び?」

首を傾げて如何にも場当たり的な風に云った浦原に,一護はもう一度「そうじゃなくてさ!」と焦った声音で継いだ。

「先に悪いことしたのは俺の方だろ?なのに」
「悪いことってのは朝のことですよね?それなら別に怒ってないってさっきも云いましたよアタシ」
「でも,だからってこんなことしてもらうわけには」

浦原の手が差し出す小さな袋。
それは一護がどれを買おうか散々迷っていた三枚のCDが入っていた。
アタシがお誘いしたんだから,と財布を出そうとした一護を遮って浦原が会計を済ませた後だった。
人気のないエレベータホールで「あ,そうだコレ」と浦原がその袋を差し出した。
くれる,という。
一護は冗談じゃない,と思った。

浦原は差し出した袋を一護が頑として受け取ろうとしないのを見ると,困った風に眉を下げ,視線を足元に落とし,しばらく考えてから「なら」と顔を上げた。

「貸してあげる」
「…へ?」
「聴き終わったら返して?」
「え」
「それならいいでしょ。――まだ何か問題ある?」

尋ねられ気圧されるように「ない」と首を横に振ってしまった自分が一護は今でも信じられない。
口では格好いいことを云いながらも,腹の底ではCDが欲しくて欲しくて仕方なかったみたいだ。
みたいだ,というよりそうなのだろうか。
でも,違う。
違う,と思いたい。
なんていうかあのひとは,浦原さんは,人の隙をつくのがものすごく上手いんだ。

ぎゅ,と手を握り締めるとかさり,袋が音を立てた。

「いつでもいいから連絡してくださいな。仕事中だと出れないかもしれないけど,でも絶対折り返し連絡するんで」

絶対,のところに力をこめて云うと,浦原は徐に手を突き出した。

「な,何?」
「携帯,ちょっと貸してくれます?」

云われるままに差し出すと,長い指がフラップを開き,そこにぱちぱちと数字を打ち込んだ。

「コレ,アタシの番号なんで」
「あ,りがとう」
「どう致しまして」

一護に携帯を返しながら浦原はやっぱり楽しげだ。
ガキをからかって遊ぶのが趣味なのかよ,と反感混じりの思いが湧いたが,手にした袋とさっき食べたケーキの余韻が一護にそれを思いとどまらせた。
エレベータを降りて駅に入ると,浦原は環状線へ向かう改札の前で「じゃ,アタシはここで」と足を止めた。
一護は様々な思いで頭といい胸といい,苦しいくらい一杯になるのを感じながら同じように足を止め「ありがとう」と礼を云った。

「それから,ごちそうさまでした」
「また,つきあってくれる?」

断ったら悪い気がするし,だからと云ってうん,と素直に頷くこともできかねた。
浦原が悪い人間じゃない,というのはなんとなくわかったが,なんで自分を構うのかがわからない。
ちゃんとした答えを返さないまま,またね,と手を振って改札へ入っていく浦原を見送って,一護も乗換口へと向かった。

胸が苦しい。
ケーキは美味しかったはずなのに,靠れるような感じがしている。

がたんごとん,と揺れる電車の中,一護は窓に映る自分の顔から目を逸らし,すっかり暗くなった街並みに目を凝らした。
電車の揺れにあわせて手に提げた袋が脚に当たり,かさかさと音を立てる。

気付けば首から下げたイヤホンを耳に差し込むことも忘れていた。
目の前の窓を濡らす雨すら目に入っていなかった。
ただ,ついさっき名を知ったばかりの浦原のことで頭が一杯になっていた。







Presented by Flying colors