見下ろす視線の先,釦が三つはずされたシャツの襟元,鎖骨の下。
見せ付けるようにくっきると刻まれた赤い鬱血――キス・マーク。
「なぁ,コレ,もう何度目だよ」
もう怒る気力も湧いて来ない。
胸の中犇くのは虚しさと,切なさだけ。
怒鳴ることもなく,一護は疲れた声で云った。
そんな一護の前にはちょこんと正座し,項垂れている男が一人。
名を,浦腹喜助という。
一護,こと黒崎一護の一応「交際相手」である。
一応,とつけたのは一護本人にすら自分達の関係がなんであるかわからなくなっているからで。
がっくりと項垂れ,しょんぼりと正座する浦原のひとつに括られた髪から零れ落ちる前髪の隙間から垣間見える伏せられた睫を見下ろしながら一護もその場にしゃがみ込んだ。
「言い訳があるなら云ってみな」
聞くだけは聞いてやる。
ため息混じりにそう云った一護を,のろのろと顔を上げた浦原が揺れる瞳でじっと見つめる。
説明を加えると,一護は16歳の高校一年生で,浦原は大学の研究室で助手を務める29歳である。
その年の差はぐるりと一回りを越えて13歳。
出会ったのは一護が中学校二年生のとき,つまりは二年前。
近所に住む浦原が食中りで一護の父が営む医院に一週間ほど入院したのがきっかけだった。
恋愛初心者というよりも寧ろ未だ「子ども」の範疇にあった一護を相手に,攻め手搦め手緩急つけて持ちうる手練手管を全て駆使して,最終的にはほぼ押し切る形で口説き落としたのは浦原の方。
大した恋愛経験値も積まないまま大人の(一護としてはその前に「ロクデモナイ」の六文字を付け足したいところだ)恋人を持つ羽目になった一護の苦労・心労は言語に尽くしがたいほどだった。
睦言ひとつ,口付けひとつとってもどうしていいか,どう応えていいかわからない。
また性質の悪いことにそんな一護の初心な反応を浦原が心底楽しげにニヤついて眺めるものだから生来負けん気の強い一護としては居た堪れないし腹の立つことこの上ない。
とはいえ,唇を触れ合わせたまま息をする方法や,過ぎた快楽に強張る身体から力を抜く方法(これをしないともう随分と慣れたはずなのに翌日よからぬところが筋肉痛になり大層難儀する)など,ひとつひとつ実地で学んでいった。
しかし,だ。
どれだけのことに慣れたとしても,これだけはどうしても慣れられないことがひとつある。
浦原の悪癖「浮気」だ。
浮気は浮気で,そこに浦原の気持ちが小指の爪の先ほどもないことはわかっている。
浦原のそれは余りにも悪気がない。浮気相手にも,また,一護に対しても。
寒いからそこにあった上着を一枚羽織る,とかそんな感覚で一護でない誰かとベッドを共にする。
「え,だって暇だったし」
「それに,誘われて断る手間考えるとノッちゃった方が楽なんスよ。たかが一時間やそこらのことだし」
「一護サンとスルんじゃなかったら,トイレで用を足すのとそう大差ないっスよ」
と浦原は云う。
最初はあまりのことに目を白黒させたが,冷静になって考えてみれば確かにそうかもしれない。
浦原の容姿は交際相手であるという欲目を引いて見ても整っている。
洒脱な身のこなしに,やわらかな声音で飄けた物言いをする様など,引きつけられる人間が多数居る,というのはわからなくもない。
それに,一度だけではあるが浦原に言い寄る男と顔を合わせたことがある。
というよりもその男の方から一護に会いに来たのだったが。
脳裏に浮かんだのは黒縁眼鏡をかけた浦原と同年代の大人の男の面差し。
柔和な笑みを浮かべながら「君が黒崎一護くんかい?」と話しかけてきた声音もやさしげだった。
「突然訪ねて悪かったね」
「…いえ」
「彼の意中の相手にどうしても興味があってね」
当時はまだ浦原とは友人以上恋人未満程度の関係だったが,浦原の想いが今も自分に向いているということはことあるごとに告げられていた為,一護は返す言葉を見出せず黙り込んだ。
「正直,驚いているよ」
「…ガキ,だからですか」
「そうじゃない。……いや,それも少しあるかな」
こちらを見つめる視線が不意に色を変え,まるで値踏みするかのようなものになったのを感じ,一護は無意識に眉間に皺を寄せた。
向かい合った喫茶店の窓際の席,不躾にじろじろと見つめる男と,不機嫌そうにその視線を撥ね退ける一護。
いい加減にしてくれ,と痺れを切らした一護は,しかし言葉を継ぐことができなかった。
一護が口を開くより先に向かいに座る男が囁くように云った一言。
「彼に飽きたら僕に連絡を寄越すといい。知らない世界を見せてあげるよ」
一瞬耳が現実を拒否した。
ぽかん,とした顔をした一護に意味深な笑みを投げかけると,男はテーブルの上で固く握り締められていた一護の手をそっと取り,指の一本一本を嘗め回すように撫でた。
くすぐったいような,それでいて怖気が震うようなその感覚に一護が硬直していると,その目をじっと覗きこむようにして顔を寄せ,手の内にある一護の掌を自分の頬にそっと宛て「彼が大事にする君のカラダには僕もとても興味がある」などと鳥肌モノの一言を追加した。
正直,まるごと記憶から抹消したい出来事だ。
あんな輩にことあるごとに迫られる浦原を思えば先ほどの言葉にも頷けなくはない。
でも,と一護は思うのだ。
自分と云う特定の相手(「恋人」とは気恥ずかしくて喩え独白の中でも口に出来ない)がいるにも拘らず「面倒だから」の一言で他の相手と枕を交わす,というのはどうなのだろうか。
「なぁ,聞いてンの」
「…ゴメンナサイ」
浦原は一護を見ない。
がっくりと項垂れて,どうしたら一護の機嫌が直るのかそれだけを必死に考えている。
もう何度も繰り返してきたやりとりだ。相手が何を考えているかなんて頭を巡らせるより先にわかってしまう。
浦原は悪いなんて思ってない。
一護が怒るから謝るのだ。
そのことが一護にはやるせなかった。
「ゴメンじゃなくてさ。謝って済むところはもうとうに越えてんだよ。俺,正直もう無理だ」
自分でも驚くくらい静かな声で一護はそう云った。
云ってしまってから酷く驚いている自分に気がついた。
無理。
自分が口にした一言が急に重みを増す。
本当にもう無理なのか。
もう,堪えることはできないのか。
怒っているわけでもないのに?
ただ,やるせないだけなのに?
なら,許すことはできるのか。
自分を抱くその腕で,自分に触れるその唇で,自分じゃない誰かを抱き,その名を呼ぶ浦原を許容することはできるのか。
自問する声に浮かび上がる答えはひとつ。
一護はゆっくりと首を横に振った。
――そんなこと,できるはずがない。
最初はこんな風になるはずではなかった。
男に口説かれるなんて青天の霹靂だったし,よもやの大攻勢は天災以外のなにものでもなかった。
道を歩いていたら空から隕石が降ってきて,それがよりによって頭を直撃したくらいの不運だと思った。
まっすぐにぶつけられる浦原の想いを,一護は真っ向から否定した。
「アンタ,頭大丈夫か」から始まって「意味わかんねぇ」も「気持ち悪ィ」もマシンガンより早い速射で浦原に向けてぶちかました。
真摯な言葉を否定して,伸ばされる手を振り払って。
一人になれば心が痛まなくもなかったが,浦原を前にすると反射的にもう駄目だった。
けれども,それでも浦原はめげなかった。
好きになってくれなくてもいい。
傍にいさせて。
話をさせて。
友人のひとりとしてでもいい。
ただ,キミの傍に居たいんです。
自分よりずっと大人なはずなのに,まるで迷子になった小さな子どものように頼りない表情で,今にも泣き出しそうな掠れた声で名を呼ばれ,気付くと胸の中,固く凝っていた気持ちがほろりとほどけていた。
手を繋ぐまでに三ヶ月。キスするまでに更に一年。
一度触れ合うことを許すと,その後は堪えきれなくなった浦原に押し切られてその二ヵ月後,一護が高校に入学したこの春,初めて身体を繋いだ。
まだたった一年の少しのことだ。
それなのに――。
浦原の浮気は今回で六度目になる。
「嫌だ」
きっぱりとした浦原の声。
ざわり,胃の底が不穏当に沸き立つ。
しかしそれも直ぐに収まって,一護はため息を吐いて口を開いた。
「俺だって嫌だっての」
「絶対に,嫌」
「……つーか,俺,云ったよな?前のときもその前も,その前の前のときも」
詰るでもなく,尋ねる風に一護が云うと,浦原は口の端をぎゅ,と引き結んだまま,それでもこくん,と頷いた。
「それでもお前は繰り返すわけだ」
語尾が掠れて,疲れた笑いが滲んだ。
浦原の顔がのろのろと上がる。
その顔を見て,次に来る言葉を理解した一護は先手を打って口を開いた。
「仕方がない,とか云ったら殴るぞ」
僅かに開いた浦原の口が,その一言で引き結ばれる。
「仕方ない,て云いたいのは俺の方だっての。もういいじゃん,終わりにしようぜ」
喉の奥が震える。
泣きながら詰ることでもできたらよかったのに。
心からそう思う。
けれどももう,心が疲れて身体を動かすだけの力が残っていない。
泣きたいのに泣けない苦しさが一護を苛む。
胸が痛んで,鼻の奥もツン,として,もうどうにでもなれ,という気持ちで一杯になる。
「俺…が我侭なのかな」
ぽつり,呟いた声に浦原の肩が揺れるのが見える。
「俺が,駄目なのかな」
「違う」
「…………」
「駄目なのはアタシ。悪いのもアタシ」
云いながら伸ばされる手。
頬にそれが触れそうになる寸前,一護はその手を払いのけた。
「わかってンだったらなんとかしろよッ!」
両の手をぎゅっと握り締め,叫ぶように一護は云った。
「……一護サンが好き」
ぽつり,浦原の口から零れ落ちたのはなんの救いにもならない事実の一欠けら。
「そんなの知ってる」
「終わりにするなんて嫌だ」
「俺はこんなこと続ける方が嫌だ」
「好きなんです」
苦しげな声。
まるで自分が酷いことをしているような錯覚に陥りそうになる。
「…俺だってお前のこと好きだ」
「だったら」
「だからこそもう無理」
自分から手を伸ばして浦原の髪に触れる。
後ろで括るゴムに届かず四方八方に散る,淡い色の髪。
梳き上げて目元を露にすると,深い深い緑色の瞳がじっと一護を見つめてくる。
この目が好きだった。
じっと見つめられると自分の中の深いところから自分でも知らなかった感情を引きずり出されるような心地がした。
愛しいという気持ちや,独り占めしたいという気持ち。
目の前に引きずり出される感情たちは決してきれいなものばかりじゃなかったけれど,でも,それに翻弄されるのはそう悪い気分ではなかった。
一護はそっと顔を寄せると赤く腫れた浦原の頬に口付けを落とした。
ほんの数分前,自分が渾身の一撃を見舞ったその痕に。
「痛いか?」
「……少し」
「少しかよ。もう一発食らわせればよかった」
「二度は勘弁っスよ」
「そりゃこっちの台詞だって」
髪を括るゴムを指で解いてやわらかな髪に指を差込みくしゃりと掻き混ぜる。
このまま顔を上げさせてめちゃくちゃにキスして全部をなかったことにしてしまいたい。
そう思う同じ胸のうちで,この勝手極まりない男をもう一発殴りつけ背中を向けてもう二度と会わない。声も聞かない。最初から全部なかったことにしてしまいたい,とも強く思う。
「もう,疲れた。お前と居るとすげえ疲れる。お前とこんなんなる前は,独占欲とか自分にあるなんて考えたこともなかったのに,もう駄目なんだ。お前が傍に居ない間,また誰かと一緒に居るのかな,とか,どっかシケ込んでまたヤッてんのかな,とか考えると気が狂いそうになる」
浦原の髪に鼻先を埋めたまま囁くほどの声音で云う。
「腹が立つし,油断すると泣けてきそうになる。相手のこともぶっ殺してやりたくなるし,お前のこともぶん殴ってやりたくなる」
「…頬っぺた,痛いっス」
「俺の手だってまだ痛ぇよ」
くつり,喉が鳴る。
痛みを伴う苦い笑み。
伏せた目をそっと開けると,浦原の手がのろのろと上げられるのがわかった。
抱きしめられる,そう思った。
次の瞬間,一護は突き放すように浦原から身を引いた。
「終わりにしようぜ」
浦原の手が空を掴むように握り締められ,ゆっくりと落ちていく。
ああ,これで終わる。
一護はそう思った。
「嫌だ」
力のない声。
「嫌だ,はねぇの。もう会わないし,電話もしない。かけてくるなよ。着信拒否だ」
「嫌だ」
「我侭云うなよ。悪いのはお前なんだろ?」
「そうですけど,でも嫌だ」
子どものように嫌だ,嫌だ,と首を横に振る浦原を見つめ,一護は小さく笑い,そして立ち上がる。
胸の中にぽっかりと穴が開いたような心地がする。
そこをすうすうと冷たい風が吹き抜けていく。
痛ぇな。
心に痛覚なんてないはずなのに,こんなにも痛い。
家に帰ったら風呂に入ろう。
風呂場で,少しだけ泣こう。
それくらいなら女々しいって責められなくても済むだろう?
そう決めると一護はゆっくりと踵を返した。
浦原はもう何も云わなかった。
一護ももう何も云わなかった。云うべきことなんかどこにもなかった。
見下ろしたラグの敷かれた床の上。
ここでめちゃくちゃに抱かれたこともあったっけ。
邪魔なテーブルを二人して蹴り付けて退かし,散々貪りあって挙句そのまま寝入ってしまって。
目が覚めたら二人して顔にくっきりとラグの跡が残ってた。
顔見合わせてお互いの顔を指差しあって情けない気持ちのまま笑い合ったんだった。
さして広くはないこの部屋のそこここに思い出は浸み付いている。
この部屋だけじゃない。
街へ出たってそこかしこに浦原との思い出は散らばっている。
もう,二度と返らない日々。
後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように歩幅を広げ,ドアのノブを掴む。
すると,ぶらりと揺れた左手首に鋭い痛みが走った。
え,と思う間もなく身体の向きを変えられ,ドン!と音がするほど強く背中をドアに押し付けられる。
見上げた先に,浦原が居た。
きつく掴んだ一護の左手をドアに押し付け,覆いかぶさるように目を,覗きこんでくる。
ぞくり,背筋に震えが走った。
見下ろしてくる,浦原の目。
深い深い緑色のそれが,逃がさない,と告げていた。
「……何,すんだよ」
辛うじて搾り出した声は酷く掠れていた。
浦原は何も云わず見下ろしてくる。
その目に射竦められるような心地がして,一護は視線を険しくした。
「離せ」
「嫌だ」
「何でだよ。もう無理だって云っただろ」
身体の自由を奪われ,じわり,焦りが沸いてくる。
焦りを自覚するとなんで俺が,とそれが瞬く間に怒りに代わり,一護はスニーカの踵で浦原の脛を蹴り付けた。
「離せってば!」
一発,二発,と蹴り付けても浦原は動かない。
一護の手首を掴む手に,ギリ,と力を入れて,ただ強い目で見下ろしてくる。
三発目,蹴り付けようとした脚は更に身を寄せてきた浦原の身体で阻まれた。
腹から胸までぴったりと密着し,どこにも逃げ場はないのだと知らしめられる。
一護はじわり,涙が込み上げて来るのを感じた。
「もう,嫌なんだよ」
云って,浦原から目を逸らす。
泣くところを見られたくなくて俯くと,はたり,涙が足元に落ちた。
「…泣かないで」
「誰がッ!」
泣いてねぇ!と強がることも泣かせたと思ってる!と詰ることもできなかった。
捻りあげるように強く掴まれていた手首が離され,只管やさしい掌がそっと一護の頭を撫でる。
顔の横に突かれていたもう一方の手が頬を撫で,手探りで目元を拭っていく。
「もう,二度としない。約束します」
耳に触れるほど近く寄せられた唇が囁く声に一護は首を横に振った。
「嘘,吐くな」
「嘘じゃない」
「無理に決まってる」
「無理なんかじゃない」
「今更,なんでそんなこと云うんだ!だったら今までのはなんだってんだ!」
叫ぶように云って,一護は浦原の胸を殴りつけた。
浦原はそんな一護の攻撃を塞ぐように抱きしめる腕に力を込めると,涙で濡れた頬に唇を押し当てた。
「一護サンに泣かれると,弱い」
「…もう二度と泣かねぇよ。だから離せ」
「そんなことできない」
頬からこめかみに,そして額に。
軋るような声で罵る一護に浦原は口付けを落としていく。
一護はきつく目を瞑っていた。
目を,開いたら駄目だと思った。
目を開いて浦原の目を見てしまったら,きっと自分は負ける,と。
「こっち見て」
眉間の皺に唇が触れる。
そのまま鼻筋を通って,額と額がこつん,と触れる。
囁かれても一護は頑なに首を横に振った。
すると浦原は額で額を押すようにして一護の顔を上げさせ,一瞬の隙をついて唇を塞いだ。
すっかり身についてしまった習慣で薄く開いてしまう唇に浦原の舌が触れた刹那,一護はカッと目を見開いた。
ふざけるな!
そう怒鳴ろうとして,言葉を失った。
自分を見つめる浦原の目を,正面から見てしまった。
本当は知っていた。
浦原の浮気が,浦原の怠惰な性格のせいだけじゃないことを。
浦原が焦れていることを。
一護は浦原の思いを受け入れたとき,ひとつだけ条件をつけた。
自分たちの関係を外部に向かってオープンにしないということ。
理由はいくつもあったが,交際相手が男である,ということを知られるのが恥ずかしかったというのがその最たるものだった。
浦原はそんな一護の意図を探るようにじっと見つめ,それでも最後には頷いた。
外で会っているとき,一護は浦原が自分に触れると顔を顰めた。
加減がわからないのだ。
友達同士でも肩を組んだり,頭を撫でたり,そんなスキンシップは珍しくはない。
けれども相手が浦原だとそのままどこまでもずるずると許してしまいそうになる。
「アタシってそんなに信用ない?」
振り払われた掌を寂しそうに見つめて云った浦原の表情が忘れられない。
そうじゃないんだ,と一護は云えなかった。
信用がないのはお前じゃなくて,そんな条件をつきつけておきながらすぐに流されそうになる自分なのだ,と云えなかった。
「もう,しません。誰とも寝ない。キスもしない。一護サンが嫌だって云うなら口も利かない」
まっすぐな声で浦原が云う。
一護を見つめる眼差しも,そんなことを誓うのは容易いのだと告げていた。
その代わり――。
浦原の目は唇から紡がれる言葉よりも雄弁に一護に語りかける。
アタシがそれを誓ったらキミには何ができるの,と。
「喋るな,とかそんなことは云わねぇよ。お前仕事どーすんの」
「どうとでもしますよ。そんなもの」
「簡単に云うな」
「簡単っスもん」
云って,口の端を引き上げる浦原を見つめ,一護は堪えかねて顔を伏せた。
髪に,浦原の唇が触れる。
頭を抱きこまれ,くしゃくしゃと髪を掻き混ぜられる。
耳朶に触れる唇が名を呼ぶ。
もう駄目だ。限界だ。
そう思った。
「……手,繋いでもいい」
「外で?」
こくん,と頷く。
するとひっそりと浦原が笑うのがわかった。
「キスは?」
「…それは無理」
「どうして?」
「……恥ずかしいから」
「人目がないところなら?」
「…………」
黙り込む一護を浦原は急かさない。
ただ,髪をやさしく撫で,一護が口を開くのを待っている。
「……絶対に,誰も見てないところなら」
「しても,いい?」
一護はしばし動きを止めた後,ほんの僅か首を振った。
横ではなく,縦に。
「研究室にも遊びに来てくれる?」
頷く。
「みんなにアタシの好きな人です,て紹介してもいい?」
たっぷりの躊躇を孕んだ沈黙の後,これにも頷く。
「今日,泊まっていってくれる?」
これにも素直に頷きかけて,一護ははっと顔を上げた。
「今日は無理だ」
「え,どうして」
「遊子と夏梨が明日遠足なんだ。弁当作ってやんねーと」
普段の食事の支度は双子の妹のうちの一人,遊子が担当していたが,遠足のときだけは「昼時に楽しみがなくっちゃなぁ!」という父親の主義で一護と父親が作ることになっていた。
それは妹たち二人が保育園に通っている頃からの黒崎家のルールだった。
どれだけ浦原との恋にうつつを抜かしてもその目が曇っていたとしても,こればかりは譲れない。
一護はぎゅ,と口を引き結んで浦原を見つめ,それから不意に目を逸らすと小さな声で付け足した。
「でも,週末だったら泊まる」
その言葉を聞くや否や,浦原は途方もない力で一護を抱きしめ,その身体を右に左に揺さぶった。
「あーもう駄目だ」
苦笑の滲む声。
揺さぶられながら一護が顔を上げると,浦原が笑いながら困ったように見つめてくる視線とぶつかった。
「一護サン,可愛すぎる」
「……嬉しくねぇ」
「嬉しがらせたいわけじゃなくて,事実だから」
云って,額にちゅ,と唇を押し当てる。
「一護サン,大好き」
こめかみに,耳の縁に,押し当てられる唇の感触と共に何度も何度もそう囁かれる。
一護は堪えかねて浦原の肩口にぼす,と顔を押し付けた。
「あんまり云うな」
「どうして」
「顔,上げられなくなる」
「云うのやめたら顔上げてくれる?」
一護は頷くことも顔を上げることもできず,ただ浦原にしがみついた。
「ね,顔上げて。キスしたい」
宥めるように,ねだるように,耳に零される甘い囁き。
一護がおずおずと顔を上げると,掬い上げるように浦原が距離を詰め,一瞬で唇を塞がれた。
一護は胸のうちでもやもやとマーブル模様を描く想いがあるのを感じていた。
結局のところしてやられた,という思いと,どこか満ち足りた安堵。
そんなものを感じるのは間違ってる,と,怒りにも似た思いの方を引き寄せようとするのに,すぐに意識は逸れて行き安堵に身を任せてしまいたい,と思ってしまう。
甘やかな口付けを受けながら,一護は薄く目を開くとこちらを見下ろす浦原の瞳のその奥を覗き込んだ。
「次は,ねぇからな」
「ハイ」
あっさりと返事をした浦原に,ぶつけたい想いはいくらでもあったが一護はすべてを飲み下すと浦原のシャツの襟ぐりに手を伸ばし,力任せに引き開けた。
露になった鎖骨の下,見せ付けるようにつけられたキス・マークをじっと睨みつけると伸び上がって唇を寄せる。
頭上で浦原が小さく息を呑む気配。
一護は,思い知れ,とばかりに口を開くと,そこに力いっぱい噛み付いた。
「……ッ!」
背を抱く浦原の腕にぎゅ,と力が篭り,掠れた声が一護の名を呼ぶ。
一護は最後にギリ,と歯を立てるとくっきりとついた歯型を見つめ,ぺろりとそこに舌を這わせた。
「ざまぁみろ」
見上げて笑うと,言葉もない浦原の涙目。
それを見てとりあえずの溜飲を下げると,一護は伸び上がって自分から口付けた。