上座に位置する副校長の長口舌を右から左に素通りさせながら黒崎は白衣のポケットを膨らませる色とりどりのキャンディの中から淡いグリンのを一粒取り出し右手と歯を使って器用にセロファンを剥いだ。
ぺり,と音がして露になった小さな粒を口に放り込み舌の上で転がす。
鼻に抜ける微かな清涼感が愛飲している煙草のものに似ていなくもない。
――というよりもそう思わなければやってられない。
なぜならば,一護の煙草は朝一番司書室にやって来た浦原に取り上げられてしまっていたから。
右肩を照らす窓から差し込む日差しは明日からは11月である,ということを忘れさせるくらいに温かい。
飴玉を転がしながら込み上げてくる欠伸を噛み締めてため息に解く。
眠い。だるい。
ちらりと窓の外に視線を向けると天高く,とはよくいったもなで高い高い青空に刷毛ではいたような筋雲が浮かびどこか遠くでは鳶が鳴く声が――流石にそれは聞こえない――聞こえてきそうな長閑さだ。
チリ,と焦げ付くように神経がささくれ立つのを感じるのは恒常的に摂取し続けている毒が得られないことへの禁断症状。
しかも肉体的にではなく精神的な依存。
それを自覚してるからこそおとなしく飴玉を転がしているわけで。
「――あの馬鹿,次ツラ見せたら頭殴りつけてやる」
煙草が吸えない苛立ちに退屈な会議が齎す眠気の恨みまで上乗せして小さく毒づくと,隣に座る新任の現国教師がびくりと肩を震わせた。
昼過ぎから来客,来客,打ち合わせ,と続きすっかりくたびれ果てて自分の城たる司書室に戻って来れたのは16時にならんという頃だった。
定位置のデスク前の椅子ではなく応接用のソファに身体を投げ出すように腰を下ろし,そのまま横になる。
行儀が悪い,と咎めるように思う自分がいないでもなかったが,必修部活動もない水曜日の放課後にここを尋ねてくる生徒がいるはずもなく,来客の予定もない。
アポなしでやってくるのは口うるさい連中ばかりだけれど,その小言を真面目に聞かなきゃならない義理もない。だからいい。
そう断定して身体から力を抜く。
やたらと理屈っぽくあれこれ考えるのは疲れがピークに達している証拠。
ここで無理をしたら発作が起こる。まっすぐ帰宅し,早々にベッドに潜り込むが正解。
ちくしょう。今日レンタル屋半額なのに。
頭を過ぎったそんな考えに苦笑を浮かべて空咳をひとつ。
煙草が吸いたい。
ぼんやりと思う。
無理をしたら発作が起こる。
わかっていても欲しいものは欲しいのだ。
一日中口寂しくて堪らない。
朝一白衣のポケットがこんもり膨れるくらい突っ込まれた飴玉は,最後の来客を見送った直後,ここへと戻るまでにすっかり溶けてなくなった。
黒崎は寝そべった体勢のまま,ごそごそとダークブラウンのコーデュロイ生地のパンツのポケットを探ると携帯電話を取り出しツータッチで番号を呼び出した。
コール,一回。
ぴるるるる,と間の抜けた電子音が司書室のすぐ外でした。
「…浦原?」
ソファの上,仰向くように扉の方を見ると扉の上部にはめ込まれた磨りガラスの向こうに人影が見えた。
からから,と音を立てて戸が開くと,そこにいたのはやっぱり浦原で。
戸袋に寄りかかるようにして小さく肩を竦めて「…ちぇ。驚かせたかったのに」と苦笑交じりに云った。
「何しにきやがった」
「……あの,今呼びませんでしたアタシのこと?」
「呼んだけど。呼ぶ前に来ただろうオマエ」
「んん,なんていうか需要と供給の一致?」
「違うだろ」
鼻で笑ってのそりと身体を起こす。
ずれた眼鏡を外してローテーブルに置くと,眉間を指で押しながら「ああそうだ…」と疲れの滲んだ声で呟く。
そうだ。呼んだ理由。
「煙草返せ」
「イ・ヤ」
「ふざけんな。殴るぞ」
「それも嫌」
「イヤもへったくれもあるか。テメェに拒否権なんざねぇんだ。ほれ返せ。じゃなきゃ殴る」
ガラス越しではなく直截に剣呑な眼差しを向ければ,浦原は「黒崎センセってほんとに…」とぼやきながら寄りかかった戸袋から身体を起こし,ゆっくりと部屋に入ってきた。
その手には,喫茶店で見るような銀色の盆が。
「せっかく煙草よりもいいもの,持ってきたのに」
「…ケーキ?」
「そ。大和撫子研究会の部長サンにちょっと鼻薬効かせて使わせてもらったんスよ」
「鼻薬なんて17のガキが使う言葉じゃねぇぞ。つーかほんと無駄に顔広いなオマエ…」
憎まれ口は叩けども,このいけ好かない生徒が作るケーキが美味いことを誰よりも知る一護は普段の1/4にそれを収めて,催促するように眼前のローテーブルのガラス板をこんこん,と叩いた。
「コーヒー淹れるんで,その間だけ待ってくださいねン?」
云いながら盆から降ろされた皿に載せられていたのは淡い橙色のシフォンケーキ。
こんがりと炒られた胡桃が散らされた八分立ての生クリームと一口サイズに切られた柿と栗の蜜煮も添えられている。
挙句の果てに周囲にはチョコレートソースで紋様までも描かれている凝りっぷり。
ちょっと作った,という割にはフォークを使うのが躊躇われるような豪華なデザート・プレートだった。
「お待たせしました」
司書室奥の浦原の手には白いマグカップがふたつ。
浦原はそのうちの落書きがされた方を一護の前にことん,と置いた。
帰宅前に洗うたびに親の敵の如くごしごしとスポンジで擦っているにもかかわらず「I LOVE YOU. FROM K」と書かれたその文字は消えることがない。
それどころか時折濃くなっているように見えなくもないのは気のせいか。
そんなどうでもいいことを考えながらも意識の大半はケーキに向かっていく。
一護は皿の横,紙ナフキンで包まれたフォークを手に取ると,両手をはし,と合わせて「いただきます」と小さな声で云い,どきどきしながらケーキの端にフォークをつかった。
切り取ったケーキにまっしろなクリームを絡めて口に運ぶ。
ケーキの淡い甘さに,それよりもほんの少し強いクリームの甘さ。……洋酒の風味がほんのりするのはきのせいか?
ちらり,浦原を見ると口元に寄せたカップ越しに向けられる得意げな視線とぶつかった。
「何いれた?」
「コアントローを少し」
「洒落たことするじゃねーか」
「気に入りました?」
是も否もなく,一護は再度ケーキに向き合う。
眉間の皺がすっかりほどけている時点で自分がどう思ってるかなど筒抜けだろう,と思ったが仏頂面をキープするような余力は極上美味なケーキを前にした一護は持ち合わせていなかった。
「この色は?なんかうす甘いのな。砂糖の甘さじゃねーだろ」
「そう。かぼちゃのペースト裏ごしして入れてみました」
「へぇ。にんじんじゃねーんだ?」
「だって季節物ですし?」
「…ふぅん?」
曖昧に頷きながら今度は香ばしい胡桃をクリームごと掬って添えられた柿を口に運ぶ。
柿にクリーム?なんて思ったがこれがどうして美味い。
美味い。美味い。ああー,しあわせ…。
だらしなく緩みそうになる顔を自覚しつつも,もう一口,もう一口,とフォークを持つ手に,幸せを堪能する舌に意識が収束してしまう。
一心不乱にケーキに没頭する一護を,向かいのソファに腰を下ろしてコーヒーを啜る浦原は幸せそうに見ていた。
「はー,ウマかった」
「よかったー。時間勝負だったからあんまり手がかけられなくて」
「…つーかなんでだ?」
「え?」
「学校でケーキ作るなんて今までしたことなかっただろ」
食べる幸せを堪能した後の常でついつい手が煙草を探してしまう。
朝の出来事を思い出し,浦原に詰め寄ろうと思ったが今食べたばかりのケーキに免じてぐっと飲み込む。
血糖値も上がりもう動ける。
帰りにどこかで買って帰ればそれでいい。
そう思って。
「黒崎センセ,今日ごはん何食べた?」
「は?」
「朝,食欲ないからって何も持ってなかったでしょ」
「オマエよく見てんな」
「お昼休み顔出したときも来客中だとかっていなかったし,五限の後も,六限の後もここにいなかった。……昨日の夜はちゃんと食べたの?」
昨日…。
書類仕事を持ち帰りモニタの前で延々作業。その間口にしたのは先週オマエが置いていったクッキィが三枚だ,とはさすがに云いかねて,一護はふい,と視線を逸らすと「ほんとによく見てんなオマエ」とため息混じりに云った。
「ほんとはもっとしっかりおなかに溜まるようなもの,て思ったんだけど,調理室にあった材料ですぐ作れそうなのってこれしかなかったんスもん」
はぁぁぁぁ,とため息混じりに云う浦原に,一護はそっぽを向いたまま参ったな,と内心で口をへの字に曲げた。
揺らぐ視線を隠そうと,ローテーブルに手を伸ばし,メタルフレームの眼鏡を取り上げてかける。
ちらり,視線を浦原に向けると恨みがましい目がじっとこちらを見ていた。
「黒崎センセ,甘いものは好きなくせに,食事の優先順位が低すぎるんスよね」
「そりゃ,なんつーか…」
「それなのに煙草立て続けに吸って,声がらがらにして。まったくもう…」
云いながらことん,とマグカップをテーブルに置くと,弾みをつけて浦原は立ち上がった。
返す言葉もなく複雑に歪む顔を背けた一護の対応が遅れた一瞬をついて傍らの肘掛に音もなく腰を下ろし真上から覗き込んでくる。
「喉,少しは調子よくなりました?」
「あ?」
「のど飴。ポケットすっきりしてるから」
「……アレ,のど飴だったのか」
「あんまりキツくない味の選んだんスよ」
ため息混じりにそう云われ,気遣いを感謝する心を天邪鬼が凌いだ。
フン,と鼻を鳴らして眼鏡のレンズ越しに尖った視線を浦原に向けた。
「……煙草ねーから延々飴嘗めて,舌がざりざりする」
「わ,かわいくないこと云う!」
ハン,と鼻を鳴らすように云うと,浦原は目に険のある光を点したまま,手を伸ばして一護の顎先を掴んだ。
そのまま寄せられる唇に,一護は目を閉じることなく次の攻撃を頭の中で練りながら近づく深い色味の瞳をじっと見つめた。
角砂糖が熱いコーヒーに溶けるように,浦原の瞳の中の光がほどける。
頼りなげに揺らいで,唇を震わせた。
鼻先が触れるぎりぎりの距離で囁かれた言葉は「ゴメンナサイ」。
一護が「謝るくらいなら今すぐ放せ。そしたら鉄拳だけは勘弁してやる」と吐息で囁くように返せば「そうじゃなくて」と目が伏せられた。
重なる唇。
眼鏡が邪魔だ,と思ったが,行為自体が不本意なものであるという態度を示さねばならない以上,自分でそれをはずすことはできない。
身を捩ると,浦原は素直に一護を解放し,肘掛の上に引き上げた片足を引き上げてつくづく,と云った態のため息を吐いた。
「……浦原?」
「あー,もうなんていうか」
「?」
「アタシってどうしてこうなんだろ」
「…オマエが変なのは今に始まったことじゃねーだろ」
「うっわ,ここでその台詞普通出ます?もっとこうフォローとかないんスか?」
「事実だし」
「痛ッ!」
大仰に顔をしかめて,それからくしゃり,泣き出すみたいな顔で浦原は笑った。
「本当は――」
込み上げる何かを吐き出すように云ったくせに,それ以上言葉が継がれることはなかった。
伏せられた瞼。きつく寄せられた眉間。
強張った頬に,皮肉げに歪められた唇。
そんな浦原の表情を見つめていた一護は,小さく息を吐き出すと手を伸ばしてぱちん,とその額を叩いた。
「った!」
響いた強い音のまま,かなりの衝撃があったらしく「何するんスか!」とこちらを向いた浦原の目には涙が浮かんでいた。
「ばぁか」
「ば…馬鹿って!」
「馬鹿の考え休むに似たり,て言葉知ってるか?」
「知ってますけど!」
「それ,今のオマエまんまだぜ」
「え――」
言葉の接ぎ穂を失ってただ見つめてくる浦原の視線を正面から受け止めて,一護はニヤリと嗤った。
「ケーキ,ウマかったぞ」
「…黒崎,センセ?」
「それだけじゃ不足か?」
「不足って…」
「オマエがなにをうだうだ考えてるのか知らねーし,知りたいとも思わねぇ。でもさっき食ったケーキがすっげウマかった。それじゃ駄目なのかよ」
「……駄目,じゃないです」
「じゃあいいだろ」
云うなり一護は手を伸ばし,浦原の頬っぺたをむに,と抓った。
「いひゃいっふよくろひゃひへんへ」
「変な顔だな」
「ひろい…」
「うわ,よっく伸びるのなー」
むにーと引き伸ばし,本気で楽しんでいる一護に,浦原は「やめへくらはいっへ!」と悲壮な声を上げる。
一護はいいだけその頬の感触を弄ぶと,最後にえい,とばかりに引っ張ってから放し,くくく,と人の悪い笑みを浮かべて浦原を見た。
「ほれ,帰るぞ。とっとと鞄取って来いや」
「え…」
「ケーキの礼に送ってってやるよ。先の交差点とこのセブンで待ってろ」
「ほんとに?」
「嘘にしたけりゃ別にいいけど」
「よくない!うわ,やった!」
真っ赤な頬っぺたのままへらりと笑うと,浦原は勢いよく走り出した。
気配が遠のいていくのを感じながら,黒崎はくすりと笑みを零す。
馬鹿なヤツ。
なんだってあぁなんだか。
殴りつけても蹴飛ばしてもいつだって自分に纏わりついて心配して。
見返りなんかなにもないのに。
差し出せるものなんてなにもないのに。
それでもいつだって底抜けのやさしさで包み込もうとする。
馬鹿なヤツ。
凝った首をこきりと鳴らす。
不機嫌の何割かは血糖値不足が原因だったらしく,ケーキのおかげで幾分気持ちが軽くなっている。
ありがとう,なんて口が裂けても云うつもりはないけれど。
「そうだ。もういいだろ?返せよ」
「何を,スか?」
「何をじゃねーよ。ライタだ。ライタ」
「あ…はい」
「煙草も」
「今日はもう止めておいた方がいいっスよ」
「一本くらいいいだろ。限界超えて我慢したんだ」
「限界超えてって…だったらそのまま」
「浦原」
低く恫喝するように名を呼ぶと,傍らの助手席で深々とため息が吐かれた。
「一本だけっスよ?」
「なんでテメーに許可貰わないとなんねんだよ」
「黒崎センセってば」
「……一本。とりあえず一本な」
いいから早く。
そんな思いを込めて云うと,傍らから浦原の手が伸び,そっと口元に煙草のフィルタが触れた。
続いてライタが寄せられフロント硝子にふわりとジッポの柔らかな色合いの炎が映る。
「……いきかえる」
「ほんと中毒っスね」
「るせ」
深く深く吸い込んで細く吐き出す。
身体中をニコチンが駆け巡り,血管の位置を知らしめる。
ああ,くらくらする。
指先でつまんだ煙草をアッシュトレイの上でとん,と弾いて灰を落とす。
すっかり上機嫌になった黒崎は再び煙草を咥えるとふ,と思いついたことを口にした。
「そういやアレ」
「はい?」
「ヤマトナデシコ研究会,だっけか。そんな部活うちのガッコあったんだな」
「実質的な活動の定義が難しいって部認定は降りてないはず,スよ。でもバックがバックだから予算はしっかり下りてるんじゃないかなアレ」
「バック?」
「部長がね,生徒会の書記やってる東仙サンなんスよ」
「……東仙て男じゃなかったっけ」
「部員全員男っスよ」
「え,ちと待て。ヤマトナデシコじゃねーのかよ」
「知りませんよ名前の由来なんて。部の目的が藍染会長の素敵なティータイムを演出する,てんだから男ばっかなんでしょ」
「なんだそりゃ」
思わず呆れた声が出た。
傍らで浦原も深々とため息を吐いている。
「つーかオマエ,生徒会とも仲いいわけ?そういや次の会長選候補の候補にオマエの名前挙がってるらしいな」
「やりませんよ」
「なんで」
「だって店の仕事あるし。黒崎センセのところ通うので忙しいし」
「別に俺ンとこには来なくたっていいぞ」
「それは無理」
「なんで無理なんだか…」
摘んだ指先に熱を感じるほどフィルタギリギリまで吸い尽くした煙草をアッシュトレイに押し付ける。
もう一本欲しかったが先ほどの浦原のため息を思い出し家に帰ってからでいいか,とため息を吐く。
「黒崎センセ?」
「あ?」
「ため息」
「煙草が足りねぇ」
「うーわ!」
「るっせ」
大人気なく口を尖らせると傍らでくすりと笑う気配。
眉間に思わず皺が寄った。
黒崎はカーオーディオのスイッチに手を伸ばそうとしてふ,と手を止めた。
そこには今日の日付と現在の時刻が表示されている。
10/31 17:28...pm
「……それでかぼちゃなのか」
「ハイ?」
「日付。今日ハロウィンだったんだな」
「やっぱり気づいてなかったんスか」
「るせーな。仕方ねーだろ。ここんとこやたらとコキ使われまくってんだから」
「そういえば忙しそうっスね。時期的なもの?」
「知るか。あんまりひでーよーなら蹴飛ばすからいい」
「黒崎センセが云うと冗談に聞こえないから恐い」
「おーよ」
にやりと口元を歪めるように笑ってウィンカを出す。
ここを曲がって次の次の交差点を左折するとすぐ先が浦原の家に着く。
そして会話はふつりと途切れたまま,信号にひっかかることもなく目的地に着き黒崎は静かに車を路肩に寄せた。
「到着」
「…アリガトウゴザイマシタ」
「どう致しまして」
「あ,そだ。ちょっと待っててもらってもいいスか?」
「…なんだよ」
「いいから」
片目を瞑って浦原は足早に店へと入っていく。
なんだよ,と思いつつ黒崎はハンドルに手をついて夕方遅い商店街の街並みを見つめた。
普段はコンビニやデパート,終夜営業のスーパ・マーケットくらいしか利用しないため,専門店が軒を連ねる昔ながらの商店街はやけに新鮮に映った。
八百屋の隣が酒屋,米屋,クリーニング屋。駄菓子屋があって,魚屋。不動産屋の隣が浦原の家である洋菓子店。
目を細めて道沿いの奥から順番に店を辿る。
浦原の家の看板には流麗な筆記体でdemi-douxと記されている。
ワインの甘さを示す語彙で極甘口という意味のその単語が示すにはくどい甘さはじられないよな,とどうでもいいことをぼんやり考えていると右側の窓に影が過ぎり,こんこん,とガラスが叩かれた。
ドア横のスイッチを操作して窓を開ける。
走ってやってきたのかほんの少し頬を上気させた浦原が「お待たせしてスミマセン」と小さく笑みを浮かべた。
「で,なんだよ」
「ハイ,これ」
差し出されたのはレンガほどのどっしりとした包み。
なんだ,これ?と目顔で問うと,更に包みが差し出され黒崎は勢いそれを受け取ることになった。
「…ケーキ?」
「そ。ハロウィン限定のパウンドケーキ」
「いいのかよ」
「ほんとは明日お届けしようと思ってたんスもん。今日は,ちゃんと夜ごはん食べて,それは夜更けのオヤツにでもしてくださいな」
「なんで夜更けなんだよ」
帰ったらすぐ食うぞ。
ぼそりと呟く黒崎に,浦原はくすりと笑ってだって,と言葉を継いだ。
「今日,レンタル屋さん半額でしょ?」
「……オマエはなんでそう俺の行動把握してんだ」
「愛故に?」
「黙れストーカー」
「ストーカーは酷い」
「酷くねぇよ」
云いながら包みを膝の上で転がしていた黒崎はふ,と思い立つとちょいちょい,と浦原に向かい指先を動かした。
え,何?と云いながら浦原が更に屈みこむ。
その顔が完全に窓の位置まで降りた刹那,黒崎は手を伸ばして黒崎の頭をゆっくりと撫でた。
「え――黒崎,センセ?」
「あん?」
「あの,これって一体…?」
「ゴホウビだろ」
「ご褒美?」
「Trick or treat.お菓子くれなきゃ悪戯するぞ,って云うんだろ?菓子も強請らず逆に寄越すようなガキにゃせめて頭のひとつも撫でてやったってバチは当たらねぇだろ」
「…………ッ」
くしゃり,くしゃり。
自由気ままに奔放に跳ねる浦原の月色の髪。
それに指を絡めるように,ゆっくりと頭を撫でていると黒崎の視線の先,浦原の耳がほんのり赤く染まった。
きゅ,と目が瞑られ,ほんの一瞬苦しげに眉が寄せられる。でもそれはすぐに解けて「なんていうか,もう…」というため息ほどの呟きが零れた。
「なんだよ,不満か?」
「不満なんかじゃないっスよ。幸せ過ぎてどうにかなりそう」
「そいつぁよかったな」
「キスしたい」
「調子に乗るな」
「お願い。一回だけ」
「却下」
一顧だにせず切り捨てるとちらりと強い視線が向けられた。
浦原の髪に触れる手が力強く掴まれシートの肩の部分に押し付けられる。
交錯する視線。
咎めようと鋭くした視線をまっすぐに覗き込まれ,一気に距離が縮まる。
唇が触れる刹那,浦原が囁いたのは――
「お菓子あげるから,悪戯させて」
その台詞に一瞬気を捕らわれた黒崎は,唇が深く重なることを許してしまった。
なんたる言い分!
ありったけの思いを注ぎ込むように深く深く侵食しようと試みるように唇を重ねてくる浦原の頭を,自由な左手でガシ,と掴むと,黒崎は笑みを孕んだ声で囁き返した。
「許可なく悪戯した後のお仕置きはわかってんだろうな?」
「え…」
見開かれた浦原の目を楽しげに見つめ返しながら頭を掴んでいた手をはずし,ゆっくりと握りこぶしをつくる。
中指を僅かに浮かせたその拳骨の威力をよく知る浦原は俄かに顔色を失った。
「ご,ゴメンナサイ」
「ばぁか。コレに免じて勘弁してやっからとっとと帰れ」
「……はぁい」
仕方ない,というように目を伏せてそう返事すると,浦原はゆっくりと身体を離した。
黒崎は浦原が完全にドアから離れたのを確認するとイグニッションを回しエンジンをスタートさせた。
窓から手を出しひらりと振って車を発進させる。
ルームミラーに映る浦原は,黒崎が先の角を曲がるまでその場に立ち尽くしていた。
「んっとに,アイツは…」
思わず零れた呟きは,それ以上言葉にならずため息に解けて消えた。
胸が微かに痛むのは発作の予兆ではなく,さきほど見た浦原の瞳の奥にあった感情のせい。
心が揺らぐ。
張り詰めていたものが撓んでしまう。
苦々しくこんなのは不本意だと思いながらも切り離すことは考えられないでいる。
「馬鹿,だよなほんと」
掠れた声で呟きながら,黒崎は膝の上の包みを掴むとそっと助手席のシートに置いた。
かさり,音がして目をやると朝一取り上げられた煙草のパッケジが置かれていた。
掴んで引き寄せ,小さく揺らして飛び出した一本に口をつける。
黒崎はそこで一旦動きを止めると深々とため息を吐きそれをもう一度助手席に放った。
「馬鹿,だよなほんと」
再び零れた呟きは,浦原にではなく自分に向けてのものだった。